701号室 大月歩


「待ってくれ!」


 ベッドの上で、男が目を開いた。ハッとして身を起こしかけ、激痛に顔を歪める。



 部屋を出て行きかけていた女性が踵を返し、ナースコールを押した。


「すぐに人が来ます」

 そう言い置いて、すぐさま駆け出し部屋を出て行く。


「そうちゃん、待って。そうちゃん!」


 女性の声と足音が遠ざかっていった。





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 初めて、海へ行く予定だったんだそうです。一家揃ってのドライブ中に、対向車線を超えてきたトラックに衝突されて。病院へ運ばれた時にはもう、ご両親は亡くなっていて、双子の姉弟である蒼一くんは意識不明の重体でしたが、結局病院で亡くなりました。

 碧ちゃんも意識不明ではありましたが、奇跡的に怪我は軽く、程なくして意識を取り戻しました。


 自らを「蒼一」だと名乗り始めたのは、当時の小学校の担任が見舞いに来てからだそうです。ベッドの上で静かにクラスメイトからの手紙を読んでいたと思ったら、突然髪をバッサリ切ってしまって。

 ええ。それまでは可愛らしいツインテールにしていることが多かったらしいのですが、担任が少し目を離した隙に、手紙の封を切っていたハサミで耳元からバッサリと。

 そして、自分は碧ではなく弟の蒼一だと主張して、貰った手紙を全て突き返したのだそうです。


 向こうの精神科では、自分独りが残されたことを受け入れられず、自分でない者に成り代わろうとしてるんじゃないか、って話になったみたいです。ざっくり言えば、ですけれど。

 こちらの病院でも、とりあえずはあの子の意思を尊重しようという方針で、様子を見ながら心のケアを続けていこうと。

 事故の衝撃による精神の入れ替わり?……ええ。よく、ドラマなんかの題材になってますね。

 もちろん表立っては口にされませんが、可能性はあるかもしれないと思ってるんじゃないかしら。少なくとも院長は、その可能性を否定はしませんでした。と言うより、話に上りませんでしたね。やっぱり、超常現象ということになりますし。まぁ、あの子の能力自体、既に超常現象と言えるとは思いますが……




 大月歩。


 新たに701号に入った患者は、ゆっくりと手を上げて前髪を後ろへ撫で付けた。おそらく無意識の行為だったのだろう、怪我の痛みに顔を歪める。


「では……私は彼女、いや彼に対して、失言をしてしまったのですね」


 桃香は遠慮がちに首を振り、大月の言葉をやんわりと否定する。


「確かに、あの子が自分で強制的に夢を終わらせたのは初めての事でしたから、私も少なからず驚きました。その後は、自分の病室で布団を被ったまま、しばらく出てこなくて……でも、院長のお話では、これが切っ掛けになるかもしれないと」


 男は救いを見出した様な目で、桃香を見つめる。


「では、あの子に悪い影響は……」

「それは……今の段階では、なんとも」


 男は両手で顔を覆い、声を漏らす。


「ああ、私はまた……いつもこうだ。言葉が足りなかったり、言うべきではないことを言ってしまう。それで相手を傷つける。私は、いつも」


「それにしても、大月さん」


 男があまりにも嘆くので、居心地が悪くなった桃香は話の向きを変えようと明るく言った。


「よく気がつかれましたね。あの子はまだ子供ですし、部屋は個室で他の患者との関わりも薄くて、今まで誰も気づいた人はいませんでした。あの子が女の子だってこと」



 桃香自身、初めて知らされた時には驚いたものだ。絵本の読み聞かせで何度か見かけた時には、おとなしいけれど利発そうな、可愛らしい少年だと思っていたのだ。

 事情を知った後、もちろん桃香も病院の方針に倣い、ずっと碧を蒼一として接してきたのだった。


 大月は両手で目を擦り、改めて枕元のタオルで顔を拭った。


「なんというか、雰囲気です。正確には、顔立ちとか骨格とかで見極めているんでしょうが、そんなむつかしいことは考えてなくて。なんとなく、わかるもんです。これでも写真家の端くれですから」


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