第7章

眠りの森 懺悔するカメラマン<大月歩>


「落ちたのか……?」


 男性は、眩しげに目を細めました。そろそろと薄眼で周囲を探ると、青みがかった靄のかかる、森の中にいるのがわかりました。


(ガードレールを乗り越えたところで足を滑らせたのを覚えているが、相当深くまで滑落したのだろうか。そうだ、カメラは。カメラはどこだ?)


 男性はカメラを探そうと、周囲を見回します。ちらちらと降りかかる木漏れ日が眩しくて目を擦ろうとした時、その手をぎゅっと握られ、温かいものが自分の手に触れていたことに初めて気づきました。

 9から10歳くらいでしょうか。可愛らしい顔立ちの痩せっぽちの子供が、こちらを覗き込んでいます。男性はゆっくりと身を起こしました。



「そうだよ。おじさん、崖から落ちたんだって。滑って途中で樹に引っかかって止まったの。あばらが折れたって」


 男性は、空いた手で自分の鍛えられた腹をさすり、不思議そうに言いました。


「……でもおじさん、どこも痛くないんだ」


 子供は手を繋いだまま、男性の隣に腰を下ろしました。


「ここは、夢の中だから。だから痛くないの。おじさんの身体は、病院で寝てるよ」



 そうか、と小さく呟いた声は、どこか虚ろに響きます。


「……私は、死ぬのかな?」

「死なないよ」



 そうか、死なないのか……とまた、気の抜けたように呟いて、男は目を閉じます。そして再び、小声で呟きました。



「……そうか……」


「おじさん、死にたかったの?」



 男性は焦ったように、小刻みに首を振りました。白髪混じりの剛そうな髪が額にかかり、空いたほうの手で無意識に髪を撫でつけます。


「いや、そうじゃないよ。死にたかったわけじゃ、ない。ただ……」


 肩から、ふっと力が抜けました。何も映っていないのだろうと思わせる生気の失せた目を伏せたまま、独り言のように、彼はぽつぽつと話し始めました。


「死んだら、息子に会えるんじゃないかと、思ったんだ。死んだ、息子に」




 息子がもうじき5歳を迎えようという頃、私の妻は突然家を出た。

 私が仕事にかかりきりになっている間に、妻は息子に出来得る限りの家事を仕込んでしっかりと準備し、或る日突然、搔き消えるように居なくなったのだ。

 後に残ったのは、家のどこに何があるかを書き記した簡略なメモと、美しい妻そっくりな顔立ちの息子だけだった。


 そうして突如、2DKの古いアパートで父子二人きりの生活が始まったわけだが、息子が私の手を煩わすことはほとんど無かった。

 掃除、洗濯、トイレや風呂の掃除まで、息子はひととおり出来るようになっていた。食事に関しても、ガスコンロこそ使わせていなかったものの、炊飯器や電子レンジ、ホットプレート、電気ポットなどを用い、幾つかの簡単な料理をこなせるほどだった。


 妻は長い時間をかけて準備し計画的に出て行ったのだと、戻るつもりは無いのだと、私は思い知らされた。


 息子は一週間もすると、泣かなくなった。母親はもう戻らないのだと、悟った様だった。それから、妻のことは口にしなくなった。


 それからの私と息子は、それなりに上手くやってきたと思う。

 相変わらず仕事は忙しかったし、旅行などには連れて行けなかったが、一緒に食事をとる機会を増やし、意識して積極的にコミュニケーションを取った。元々賢く素直な子供だったし、我儘を言うこともほとんど無かった。

 また、息子には絵の才能があった。

 言葉を覚えるより早く、クレヨンを握り色に興味を示す子供だったから、画材はふんだんに与え、ことあるごとに絵を褒めた。すると息子は、そのたび嬉しそうに笑うのだ。


 時は過ぎ、息子が高校に入る頃だった。

 この頃の息子は、前にも増して妻に面差しが似てきていた。男なのだから成長とともに容姿は変わっていくだろうと思っていたのに、なぜか顔だけは美しい女顔を保ったままで、どんどん妻に似ていく。そんな息子を見ているのが、辛くなっていた。


 私は、妻を憎んだ。愛していたがために、憎んだ。自分が家庭を顧みなかったことを棚に上げ、これは妻からの復讐なのだと思いさえした。


 息子が18歳を迎える直前、私は逃げた。妻と同じ様に、逃げ出したのだ。


 息子のことを、愛していた。大切に思っていた。妻が出て行ってからの私は、それほど酷い父親ではなかった筈だ。

 だがやはり、彼を見ているのが辛かった。同じ空間にいるのが、辛かった。

 妻と同じ美しい瞳、直線に近いけれど繊細なカーブを描く優美な眉、何も塗らなくともほんのり赤い唇。妻と同じ、笑顔。


 もう、逃げるしかなかった。このままでは、自分も、息子をも壊してしまう。耐えられなかったのだ。



 私は会社を辞め、ほぼ全財産を息子に託し、黙って家を出た。


 それからの数年間、日雇いや住み込みの仕事を渡り歩き、なんとか生きてきた。少しでも金を浮かせ、小額ながらも息子の口座に振り込むことだけを、生き甲斐にして。


 ある日、送金が出来なくなっていた。口座が凍結されていた。


 息子は、自ら命を絶っていたのだった。





「陽、陽………すまなかった。本当に、すまなかった……」


 自らの半生を語り終え、膝に顔を埋めて涙を流す男性を、蒼一は冷めた目で眺めていた。男は声をうわずらせながら嗚咽している。


「愛していたんだ。本当だ。まさか、あんなことになるなんて」



「最低」

 蒼一は冷たく呟いた。それでも、手は繋いだまま。


「おじさんに、泣くけんりなんて無いよ。最低」



 ぐぅ……と声を漏らしつつ、男は歯を食いしばって声を殺した。顔をくしゃくしゃにして、ただ涙を流していた。



「親に二度も捨てられたんだ。酷いよ。おじさんも、おじさんの奥さんも、まじ最低」


「そうだ。その通りだ……私は、私たちは………」


「おじさんが死んで、息子さんと会えたら何だっていうの? 許してもらおうと思ってるの? 泣いて謝って、仲直りしたいとでも、思ってるの? そんなの、自分かってだよ」


 風が吹いた。音の無い風が木々の枝を揺らし、光を遮る。先ほどまで降り注いでいた木洩れ陽は消え、辺りは薄闇に包まれた。

 男は剛い銀髪の中に指を突っ込み、自分の髪を握りしめ目を閉じる。


「許されるなんて、思っちゃいない………ただ、ひとめだけでいい。見たかったんだ。会いたかった。一緒にいるのは辛かった。ただ、たった一人で生きていくのは、もっと辛かった」


「何言ってんの。息子をひとりぼっちにしたのは、おじさんの方じゃん。悪いのは、おじさんじゃん。そういうの、じごうじとくって言うんだよ」



 容赦無く浴びせられる言葉に、男は歯を食いしばり涙を流しながら、深く頷く。何度も、何度も。


「その通りだ。まったく、その通り」


「うちのお父さんもお母さんも、ぼくをひとりぼっちにした。でも、おじさんみたいに逃げたんじゃない。事故で死んじゃったんだ。だから、仕方ないと思った。大きな事故で、仕方なかったんだ、って。おじさんみたいに、逃げたんじゃない。お父さんとお母さんは悪くない!」


「君も……」

「おじさんは悪い! お父さんとお母さんは、悪くない! 仕方なかったんだ! 仕方なく、ひとりぼっちに……」


 徐々に高ぶっていった甲高い声が、急に消えた。声の余韻が、青く暗い霧の中にすぅっと飲み込まれる。


 うぅぅぅ…うぅぅぅ……低く唸るように、蒼一は泣き出した。大声をあげたりしない、そのくぐもった泣き声には、悲しみや悔しさ、無念が籠り、繋いだ手は、固く握り締められ震えている。



「すまない。本当にすまなかったよ、お嬢ちゃん。おじさん、どうしたら」


「お嬢ちゃんじゃない!」

 突然、蒼一が怒鳴った。


「えっ」

「お嬢ちゃんじゃ、ない! ぼくは、延江、蒼一!」

「でも、君は」

「ちがう! あたしは碧じゃない! そういちだもん!!」


「君は、女の子だろう?」


 繋いでいた手が、乱暴に振り払われた。

 森が、ふっとかき消えた。ずっと男の手を握っていた、少女の姿も。



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