709号室 片平梨花


 「これ、ソウのなの」


 握っていた手を開くと、そこには家の鍵があった。小さなエメラルドがあしらわれたキーホルダーが付いている。


「お出かけの前、あたしが鍵を無くしちゃって。探したけど、時間が無くて見つけられなかったの。そしたらソウが、これ貸してくれた。お守りだから、って」



 双子が小学校に上がるお祝いに、両親からそれぞれ宝石の嵌ったキーホルダーをプレゼントされたのだと、碧は話した。

 『共働きの両親が留守にしていても、その石がお前たちを、この家を、守ってくれる。鍵に付けて、大切にしなさい』


 それぞれの名前に因んだ色の石。

 蒼一は木々の緑のエメラルド。碧には海の青さのサファイア。


「いつか、あの海とあの森を見せてあげたい。私たちの故郷は、とっても美しい場所なんだよ」



 結婚を反対された両親は、駆け落ち同然で故郷を出てきた。二人は生活に苦労しながらも、蒼一と碧をもうけ、いつか一家で故郷に帰る日を夢見ていた。

 碧も蒼一もパソコンの画面でしか、その故郷を見たことが無かった。穏やかな海は晴れた空の色を飲み込んだみたいにどこまでも深く青く、優しい木漏れ日を落とす森は様々な緑色に満ち溢れている。自然豊かな小さな島。


 故郷の海には行けないけれど、近くの海に行ってみよう。そう計画して、ずっと楽しみにしていて、あの日初めて、海を見られるはずだった。



「あの日、ソウはあたしにお守りの鍵を貸してくれた。だからソウは、お守りを持ってなかった。ソウは、あたしの代わりに死んじゃったの」



 桃香の発するありきたりな慰めの言葉は、空虚に響いた。

 小さな背中を丸め、泣きじゃくりながら辿々しく話したその思いは、後悔は、わずか9さいの女の子が受け止めるには重すぎる。どんな言葉をかけたらいいのか、桃香にはわからなかった。



「ほんとはあたしが、お父さんとお母さんと一緒に死ぬはずだった。ほんとは、ソウが生き残るはずだった。だから、あたし……」


「それで、蒼一くんになろうとしたのね」


 碧はなおも泣きじゃくり、時折えづきさえしながら、何度もうなずいた。その背中を撫でてやることしか出来ないのが、とてつもなく歯痒い。


「そうしたら、蒼一くんが生きていられる、って思ったのね」


 小さな呻き声を上げ、何度も息を飲みこみ……涙も洟水も一切拭うことなく、碧は全てを吐き出したがっている。心に押し留めていた思いを、全て。



「……でも、でも」

 震える声で、続けようとする。が、言葉が出て来ない。


 桃香はベッドに上がり、碧を抱きしめた。

「碧ちゃん。ゆっくりでいいから。全部、聞いてるからね。ゆーっくり、ね」


 えぐえぐと嗚咽しながら、碧が桃香にしがみついた。

 汗でぐしょぐしょの頭も、いろんな体液にまみれた顔も、全く気にならなかった。桃香は碧の頭に頬を寄せ、優しく背中をさすり、あやすように体を左右に揺らした。



 本当は、知っていたのだ。

 自分が蒼一として生きても、蒼一が生き返るわけじゃないことも。こんなこと、いつまでも続けられるわけがないことも。


 でも、そうするしか無かった。

 蒼一に申し訳なくて、碧で居るのが怖くて、独りになるのが怖くて。



「ソウのふりして、本当は、あたしはずっと天国で、お父さんとお母さんと一緒だって、思おうとしてた。あたし、今度はソウを独りぼっちにしちゃったの。あのおじさんみたいに」




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 うおおおおお、と江木亮介がその場に泣き崩れた。姉のベッド脇の丸椅子から転げ落ち、床に両手をついて項垂れ、慟哭している。


「あんな、あんな小さな子が……そこまで苦しんで。酷いじゃないか。神も仏も無いじゃないか」


 亀山院長がその大きな背中を優しく叩き、ポケットから出したハンカチを手渡した。だがその目にも、うっすらと涙が滲んでいる。



「……そういうことでしたか。お守りを借りたことを後悔して、生き残った自分を責めて、蒼一くんの代わりに生きようとしながらも、結局孤独を蒼一くんに押し付けていると気づき、悩んで……」


 亮介の咆哮が一段と高くなる。ことの顛末を報告していた桃香自身も、話しながら、ハンカチに顔を埋めっぱなしだ。


 亀山院長は滲む涙を指先で拭いながら、窓の外に目を向けた。星の無い薄雲の夜空に霞んだ月が浮かび、ベッドで静かに眠る片平梨花を弱々しく照らしていた。


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