一年後、冬

エピローグ


 雪が降りつつある。


 街灯の下で俺は息を吐く。

 夏の暑さがウソのように、今は指先までしんと冷えている。


 十二月三十一日。


 あと十五分で新年を迎える今、俺はぼんやりと人を待っていた。


 空を見上げても、見える星の数は多くない。


 手のひらで右目を覆う。

 それはあの夏の間、何度も繰り返した動作だ。

 そうして左目で世界を見ようとしても、もう見えるものはなにもない。


 しかし不思議とよく考えがまとまるため、いつの間にか考えごとをするときの癖になってしまっていた。


 あの嵐の日から、一年以上が経った。


 俺はもう高校三年生で、あと数ヶ月もすれば卒業が控えている。

 それだけの時間が経っても、やはりあの日のことは鮮明に思い出すことができる。


 義眼を失くした。


 そう言うと両親にはこっぴどく叱られた。

 安いものではないし、そもそも悪天候の日に一人で出かけるべきではない。


 まったく反論の余地がない指摘に、俺は平身低頭謝るしかなかった。


 とても自分で踏み壊したとは言えない雰囲気だったので、この秘密は死ぬまで隠しておくことになるだろう。



「ごめんね、着付けに手間取っちゃって」



 そう声をかけられて、俺は目を向ける。


 雪の中、こちらに歩いてくるのは飯田結子、通称委員長だ。

 去年から引き続き今年も同じクラスで、そして今日の待ち合わせの相手でもある。



「いや、大丈夫。俺も今来たところ」


「肩に雪、積もってるけど」


「ここに来る道中でのせてきたんだよ。おしゃれだろ」


「なんでそんなどうでもいいウソつくのかな」



 苦笑しながら結子は背伸びをする。

 そして俺の肩にのった雪を手袋をした手で払い落としてくれた。


 そこでふと、結子の服装に目がいく。

 手間がかかったというだけあって、落ち着いた色合いの着物はよく似合っていた。


 あの嵐の日が思い出深いのは、結子のメガネを見た最後の日でもあるからだろう。


 あれから結子は本格的にコンタクトレンズへと移行した。

 今、メガネ姿を見かけるのは休日のよほど寝坊した姿のときだけだ。

 だから時々懐かしく感じる。


 二人で歩き出しながら、服装を褒める。



「艶やかだね。本当に着物を持ってたんだ」


「姉のお下がりだけど」


「似合ってるよ」


「ウソばっかり」


「俺はわりと正直者なんだけどな」


「それで信用してもらえないのは、普段のおこないが悪いのよ」



 俺たちが向かっているのは近所の神社だ。

 早めの初詣、いわゆる二年参りに連れ立って出かけている。


 年明けには大学受験が控えているので、主な目的は二人とも合格祈願だ。

 深夜なせいか道は静かで、そのため結子と話がしやすい。



「それにしても結子が初詣に付き合ってくれるとは思ってなかったよ」


「どうして? 私もお参りくらいするけど」


「そういう神頼みって好きじゃなそうだからさ」


「努力をしてもうまくいかないことも多いんだから、最後はなにかにすがるのは悪いことじゃないと思う。特にあなたの成績だと第一志望は厳しいんだから、神でも仏でもすがれるものにはすがっておかないと」


「雑学だけは豊富なんだけどなぁ。受験では役に立たないのが難しいところだ」


「もう、危機感がないんだから」


「大丈夫。これでも結構真剣だからさ」


「ならいいけど。どうせなら一緒の大学に進学してもらわないと、その、困ります」



 以前と比べるとくだけた調子で話せるようになったが、結子はまだ時々敬語を使うときがある。

 それはおおむね恥ずかしがっているときだ。


 そういう顔をされるとこちらとしてはいたずら心を掻き立てられる。



「え、なんだって? どうせならと困りますの間が聞き取れなかった」


「もう知りません」



 ちなみに怒ったときも敬語になるのだ。



「ごめん。つい浮かれちゃってさ。なんていうの、深夜のテンションみたいなやつ」



 ふん、とそっぽを向いた結子をなだめている間に目的の神社が見えてきた。

 さすがにこのあたりは少し人の数が増えてくる。


 俺たちは真っ先にお参りするための列に並んだ。



「そうだ、結子に会ったら言っておきたいことがあったんだ」


「急になに?」


「ありがとうって言ってなかったと思って。結子が俺の手を掴んでくれなかったら、今はもうここにいなかったかもしれない」


「それってあのときのこと?」


「その前から今までずっと、かな」



 あのとき、というのは去年の夏、早朝に嵐が起きた日の出来事を言っているのだろう。


 あれがただの自然現象ではなかったのかどうか、そして俺の経験したことを結子がどこまで信じているのかはわからない。

 異世界も魔法も言葉にすれば荒唐無稽だし、今でもやっぱり俺のたわ言だと思っているのかもしれない。


 だとしても、俺をここにつなぎとめたのは結子だ。



「なんでそれを今言うんですか。もうちょっと場所とか雰囲気とか、選んでくれればいいのに」



 結子は呆れたように両手で顔を覆ってしまう。



「また怒ってる?」


「怒ってないです。こんなことで機嫌がなおってしまう自分の安さに呆れているだけです」


「お世辞で言ったわけじゃないよ」


「わかってる。そんなに器用じゃないもんね。あ、そろそろ順番が来ちゃう。お賽銭の用意は?」


「大丈夫」



 俺たちは慌ただしく賽銭箱に千円ずつ投げ入れる。

 合格祈願なので少しだけ張り込んだ金額だ。


 並んだまま、二度頭を下げ、二回柏手を打つ。

 そして目を閉じた。


 見慣れた暗闇の中で、俺は再び去年の夏のことを思い出す。

 愛花との二度目の別れについてだ。


 今から思えば、あれは鈍感な俺のために愛花がはからってくれたのかもしれない。


 事故で愛花が死んだとき。

 そして自分の左目を失ったとき。


 俺はそのどちらに対しても現実感を抱くことができなかった。

 多分あのままだとずっとそうだったのだろう。


 愛花はそんな俺に、きちんとお別れを経験させてくれたのかもしれない。


 もちろんあいつがそんなことまで考えていなかった可能性は十分にある。

 俺が思っているより愛花は間が抜けていて、そして賢い女の子だった。


 今はもうなにも見えない暗がりを見つめて、自分が幸運だったことを再確認する。


 俺はもう二度と愛花に会うことはできないだろう。


 でもそれは、愛花が死んだからじゃない。

 それぞれが別の世界を生きているからだ。


 俺は異世界で愛花が元気に暮らしていると信じている。

 彼女の幸福を願うこともできる。


 そのことが俺にとっての幸運だ。


 鐘の音が聞こえて、目を開ける。

 ついに年が明けたようだ。


 目の前には変わらず、俺の現実が広がっていた。



「ほら行こう」



 結子に促され、俺は最後の一例を済ませてからその場を離れる。


 人混みを通り抜けるとき、結子は自然と俺の手を引いてくれる。


 片目の生活に慣れたため、正直に言えば日常生活に支障はない。

 今ではバイクの運転だってできる。


 それでも結子に手を引かれて、悪い気はしない。

 いちいち言い訳を用意せずに手をつなげるのはある意味特権だ。



「ニヤニヤしてどうしたの?」


「自分がいかに幸運だったのかに浸ってた」


「……なら良かった」



 結子の声が少しだけ暗くなる。



「私、本当はずっと不安だったの。あのときあなたを引き止めたことが本当に正しいことだったのかどうか、わからなかったから」



 もしもあのとき、と空想したことが一度もないとは言わない。

 だけどこれが俺の選んだ現実だ。



「ありがとう」



 なのに懺悔でも終えたかのように、結子は顔を伏せた。



「あのとき、ここにいてくれて」



 俺は今を幸せだと感じている。

 これ以上の現在なんて、あるはずもない。


 顔を上げた結子は耳まで赤くなっている。



「すごく恥ずかしい、です」


「俺もなんか照れてきた。よし、せっかくだから帰りに年越しそばでも食べようか」


「それ、前後の文章がつながってないと思う。それに、こんな時間に食事をしたら身体に悪いよ」


「お、久しぶりになんか委員長っぽいセリフ」


「あ、その呼び方禁止って言ったでしょ」


 俺たちはそんな風にじゃれて、それからどちらからともなく言った。



「あけましておめでとうございます」



 結子が笑う。


 俺の現実はこれからもこんな風に続いていくんだろう。

 根拠なく、そんな風に信じることができた。

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