第19話




雪の道があった。

道の上の雪に光が当たって、粒がきらきら光っていた。雪を足で蹴飛ばすと茶色い土が表れる。

道を下ると勾配はゆるやかになり、やがて平地になった。平地には家屋が並んでいて、ちらほらひとがいるのがわかった。わたしたちが挨拶をすると、彼らは雪かきをする手を止めて頭を下げて返してくれた。そのたびにちょっと引き止められて、言葉を交わすことになった。今日はなにが獲れたとか、相変わらず丈夫なひととか、そういう温かい会話だった。

なかには、わたしの存在に興味を示すひとがいて、わたしの代わりにおじいさんが説明をしてくれた。マヨイビトだと言った。すると、相手はまあと声を上げ、わたしを心配してくれた。具合は悪くないのにすごく同情に満ちた憂えた顔をされるのが常だった。

みんながみんな同じような反応をするところから察すると、この雪の郷に迷い込んでしまったのはわたしがはじめてというわけではなさそうだった。あとから聞くと、ちょくちょくマヨイビトというのは現れるそうだ。わたしの前に来たマヨイビトは四十代の男性だったそうで、本来ならばもとの世界に帰らないといけなかったのだが、一身上の理由でここにのこることに決めたのだとか。

けれど、おじいさんが言っていたように自然の流れでやって来なかった彼は、この雪の郷の環境──色褪せた世界──に適応できることはなくて一年足らずで限界に達し、あとは生と死のどちらでもない中間を漂うようになり、挙句の果ては雪キツネになって、たまに郷の底に降りてきて食物を漁りに来るのだそうだ。雪キツネはひどく痩せ細り、そのうち衰弱死するだろうと言われている。

「しかるべき処置をしないと、あんたも雪キツネになってしまうかもしれません」

その話を聞いて、わたしは背筋がゾッとした。

「彼もあんたと同じように若かった。しかし現実が彼に優しくなかった。それで苦悩しているうちに、この郷に紛れ込んでしまった、と申しておりました。ここはなんのしがらみもないし、自適に暮らすことができると彼は最初こそ欣快を示していましたが、やがてこの地にはあまりになにもなさすぎるということに気づきました。とにかく若かった彼にとって、なにもないというのはむしろ苦痛だったのです。なにもしなくていい、煩わしいことは一切ない、そういう環境は彼にはあまりに軽すぎて、むしろ耐えられなかったのです。彼は発狂しました。そうして山奥に逃げました。その後、彼の行方の手がかりはなくなり、代わりに一匹の雪キツネが郷をうろちょろするようになったというわけです」

彼は雪キツネになりました。しかし、雪キツネは雪キツネ以外のなにものでもありませんよ、とおじいさんは言った。

古びた車輪はぎいぎい音を立てて、凹凸のある道を進んだ。

その後、わたしたちはある一件の家の前に着いた。二列に並ぶ家屋の一番奥にその家はあった。玄関のところに表札はなかった。家のすぐとなりに小屋があって、おじいさんの引いていたリアカーに酷似するもう一台のリアカーがひっそりと置いてあった。

「ここはあっしの家です」とおじいさんは言った。

リアカーを小屋に静置すると引き戸をガラガラと開けた。その拍子に屋根から雪のかたまりがどかどかと落ちてきた。

「狭いところですが、どうぞお上がりになってください。温かいお茶を淹れますから」

すみません、とわたしは軽く会釈をして家に足を踏み入れた。土間で靴を脱ぎ、おじいさんの長靴の横に置かせてもらい、床がギシギシ鳴るのを無視して座敷の居間に入った。 

なかは八畳くらいでまんなかに囲炉裏端があった。囲炉裏端のまわりにふやけたはんぺんのような座布団が数枚置いてあり、わたしはそれに座った。お尻がひんやりした。

おじいさんは、座敷と併設された横長の土間にいて、かまどの火でやかんのお湯を沸かしはじめた。

囲炉裏には五徳と、黒い鋳物と、それを吊るした自在鉤と、銀の火箸、それから隅に薪があった。自在鉤についた魚は、なんだろう。鯛? 鮒? 鱸? どれも変わらないだろう。

五徳の下の薪はよく燃えた。ぱちぱちと弾け飛ぶ赤い火花が敷き詰めた灰に落ちて、瞬時に消えた。

「囲炉裏の火は、適当に調節してください」とのこと。

わたしは火箸を持って、薪を持ってみたり、たぬきのお腹のような鋳物をぴしぴし叩いたりした。ついでに魚を叩くと、グエグエという音がした。

おじいさんのほうから笛を鳴らすような細い音色が聞こえてきた。やかんのあの、ぴーという音だった。おじいさんはやかんのお湯を急須に入れ、お茶を湯呑みに注いだ。その湯呑みをお盆に乗せて囲炉裏にやってきた。

正座するわたしの膝の前に湯呑みが置かれた。

「熱いので気をつけて」

どうも。あの、おじいさんはここにひとりで住んでいるんですか。

「あっしは、そうですね。ずっとひとりでございます。古い記憶だと、鳥とお友だちのようでしたが、今はめっきりでして」と言い、おじいさんは頬をぽりぽりと掻いた。

そういえば小屋のほうにリアカーがありましたよね。あれはなにに使うんです。

「ああ、あれは健康維持、とりわけ足腰を鍛えるための道具です。あとは大雪が降った際に雪を運ぶくらいでしょうか。特別、荷物を運ぶ用ではありませんね。小屋のものは車輪の片方が馬鹿になってしまったので、今は使えませんで無用の長物になっております。今頃蜘蛛の巣でも張っておるでしょうな」おじいさんの笑声は屋根まで響いた。

ひとしきり談笑したところで、わたしたちは本題(この雪の郷から抜け出すという目的、その方法について)に入った。おじいさんはわたしの顔をじっと見つめて神妙に語りはじめた。

「多少話が雑になるかもしれませんが、許してください」

 ええ、構いません。

「ゆっくり噛み砕いて説明します——その土地にはその土地を守る神というものが存在することは、あんたも知っていると思います。あっしらの暮らすこの雪の郷にも、同様に土地神がおります。そしてその土地神は、信仰上の便宜として見なされる抽象的なものではなく、じっさいに住んでおるのです。この雪山のどこかにかならず」

 もしかして、なにかの動物なのですか。

「いかにも」おじいさんはこくりとうなずいた。「はっきり言いますと、それは狼なのでございます」

 狼、という言葉の響きはなんとなくわたしの奥底を震わせた。

「しかもその狼はかなりの大型で、家ふたつぶんくらいあると言われております。そのくせ身のこなしは軽やかで、通った道には足跡すらのこらない。また、毛はつららのように尖り、眼は鷲のように鋭く、尻尾は刃物のように逆だっている。これらはさだかではない目撃情報に基づいた外形のイメージでございます。あっしがこう言いますのは、その姿を明確に見たものはいまだかつておらん、ということなのです。遠くに見かけたと言うものもおりましたが証拠はありません」

 おじいさんの言葉が途切れると、囲炉裏の薪がぱちりと弾けた。おじいさんは囲炉裏の隅の一本の薪を火箸で掴むと、五徳の下に滑り込ませた。

「狼は雪の降る夜に現れると昔から言い伝えられておりますな。ここらの平地まで降りてくることは滅多なことではありませんが、たまさかそういうこともあるみたいです。たまたまそれを見かけたというものは、幻想的な白い灯りとか雪の花と言い表しました」

 幻想的な、白い灯り。雪の花。

「この狼が現れる理由はまだ解き明かされておりませんが、食事のためのようですわ。山中よりはまだ平地のほうに作物がありますから。飢えをしのぐために村落に化けて出る狸のようなものでしょう」と言って、おじいさんは一度区切った。「ただ、どうやらそれだけが理由ではないようなのです」

 それはどういうことでしょうか。

「ここからがあんたにとって重要になるのですが、先ほどは狼の姿を確認したものはいないと言いました。が、しかし、聞くところによると、夢のなかに狼が現れたと言い張るものが何名かおりましてな。これがなにを指すか、おわかりですかな。ほとんど推測の域なのですが、狼はあっしらにお告げをするために郷に現れているんじゃなかろうか、とあっしは思っておるのです」

 お告げを?

「さいでございます。夢を見たものは一様に託宣を告げられたと申しておりました。それらの内容は口外することを禁じられておるようですが、いわくひとびとがこの雪の郷とうまく共存していくようにいっそうの努力を要せよ、ということのようですね。狼は土地の神、この雪の郷をつくったとも言われております。雪の郷が雪の郷の性質を保っていくには、ひとびとの暮らしがその風土から外れてはなりません。狼はそのつりあいを崩さないようにするために、行動の主体であるあっしらになすべきことをお伝えしにやって来るのでございましょう」

 それはとても興味深い話です。

 その狼は雪の郷とひとびとの間に介在して秩序を調律しているというわけですね。

「おっしゃるとおりです。さて、話を巻き戻しすることにしましょう。前提として今のあんたの存在がこの郷から外れているというのは、もちろんわかっておりますね」

 ええ、わかっております。

「それが狼にとって、居心地のわるい対象であることもおわかりですね」

 はあ、なるほど。

 たしかに、違和感たっぷりだ。

「そうすると狼は今日の夜あたり、あんたの前もしくは夢のなかに現れる可能性が高いと考えられるわけです」

 ふむ。すると、わたしはどうしたらいいのでしょうか。

「あんたの目的はこの雪の郷から出ることですね。そして、それは郷にとって引いては狼にとって好ましい状態になります。ここまで言えば、あとは言わずとも理解できることでしょう」

 つまり、その狼に会って事情を話すと。

 おじいさんは二度うなずいた。

「差し当たってこれからあんたには、やってもらうことと覚えてもらうことがひとつずつあります。まず、やってもらうことですが、狼は獣の匂い、こと血の匂いに敏感です。なのであんたの血をちょっとだけいただきます。それを鼠の剥いだ毛皮に染みこませて、今晩の土地神の狼をおびき寄せるための道具にいたしましょう。いいですね」

 はい、わかりました。

「それから、狼は鼻は利きますが視力は弱いと言われております。そうなると、せっかくおびき寄せたのに、あんたの存在を認識してもらえないで逃げられてしまう懸念があります。これを避けるために、あんたが狼に会ったら、まずまっさきに名前を呼んであげてください。あの狼には、ちゃんとした名前があるのです」

 名前を呼んだらいいんですね。

「はい。お願いします」

了解しました。

して、その名前はなんと言うんですか。

「雪郷の真神 モリス・ミズメーロ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る