第20話


夜になった。

わたしは囲炉裏のそばで仮眠を取って実行の三十分前におじいさんに起こされた。

狼を呼び寄せるために使う血はなるべく新鮮なほうがよいということで起こされて痛覚が鈍っているすきに、おじいさんは包丁でわたしの左腕の皮膚の表面をさらりと切って、そこに二十センチ平方くらいの鼠の毛皮をぎゅっと押し当てた。どくどくとあふれる血が毛皮を赤黒く染めていった。鼻を近づけてみると、獣の匂いと血のまじった生々しい臭さが嗅覚を刺激した。

その毛皮はビニール袋に入れられ、現在雪の上に突っ立っているわたしの手にある。左腕の傷は包帯が巻かれていて、意識を集中すると包帯の内側が微弱に活動しているのがわかった。さまざまな細胞がはたらいているに違いない。

夜の外はすこぶる冷えた。

昼時は氷をも溶かす日射しがさんさんと降り注いでいたが、今は子どものような底抜けに明るい無邪気さや朗らかさを暗闇が覆い尽くしていた。

またこのとき、ちょうど雪が降っていた。しかも、かなり。

目に見える大きさの粒をした牡丹雪で、天使のように地面に降り積もり痩せこけた地肌の表面の傷を薄白く隠していく。そうして厚みを増していくましろな深雪の反射によって、空間の明度は徐々に上がり、暗闇であるにもかかわらず幻想的な青白い雪あかりを演出した。

牡丹雪と青白さは、まばらに交錯しつつ世界の音を零に近づけた。

やがて音がまったくなくなり、まさしくしんしんと雪が降るだけの世界に成り果てた。

視界にちらつく雪片はわたしの衣類や髪に居所を決めると、無遠慮に引っ付いてきた。最初はほこりのようにはらりと落としていたけれど、だんだん多く降ってくると間に合わなくなってしまい、とうとう諦めることにした。雪は薄い頭皮によく染みたし、まつげに乗っかったひとひらの花びらは、しずくに変化すると一直線に頬を伝った。

とりとめのない雪の果敢なさは、夜と同化して肺全体に息苦しさをもたらした。

夜が死ぬときわたしも死ぬ予感がした。

雪の郷は終わりきった世界だと、おじいさんは言った。

すべての予知、期待、羨望はとことんかき消され、それに代わる果てしない空虚さだけが生の端っこに組み込まれた。

かくしてよどみを濾過した生は、この地で雪と同じく無へ帰すのだ。

ちょっと前まで見えていた山の稜線は降り注ぐ灰のごとき雪によって見えなくなってしまった。前方はまだ数十メートルは目視できるが、このまま行くとさらに見にくくなって、ついには自分がどこにいるのかすら判然としなくなるかもしれない、わたしはそのようなことを考えた。

わたしが立っている場所はおじいさんの家から数キロ離れたところだった。だからもはや後ろを振り向いても家は見えないし、別の家屋の輪郭もかすかに見える程度になっていた。

視覚の頼りになるのは、それこそ降り積もった雪の青白いあかりだけだと言っても差し支えなかった。ほかは全部心もとなかった。気持ちだとか思い出だとか、そういうものは慰みにならなかった。

とにかく今祈るのは、一刻も早く雪の郷の土地神と言われる狼にまみえるということのみだった。

数メートル先の足元に置いた地を染みこませた毛皮は、まだ、けがされていなかった。憮然としてそこにあった。それが動くとき土地神が現れたことを示す、とおじいさんは言っていた。

「ともかく、土地神は雪の降る夜、足音を立てずにふところに入り込んできます。そこを逃してはなりません。いいですか、毛皮が動くようなことがあったらすぐさま土地神の名前を呼びかけてください。ただし、土地神をおどかさないように静かに呼んでください」

名前はえーと、なんでしたっけ。ああ、そうだ。モリス・ミズメーロ。

雪郷の土地神、モリス・ミズメーロ。ほんとうに現れるのだろうか。

そのとき視界にぴかぴか光るものを感じた。目を凝らしてじっと見てみると、わたしとおじいさんが出会ったあの坂道のあたりを、ぼやけた白い光のようなものが砂漠の蛇のようにじりじりと這っていた。

胸がざわめいた。湧き上がるなにかが階段を一段ずつ上がっていくようだ。その先にはなにがあるのだ。

坂道を下ってくる白い光は、平地に差しかかる直前で姿を消した。と思うと、また別のところに現れた。ものすごい速度で動いているのだ。点滅するまばらな粒子はさながらさそり座の星のようで、一番星のごとく輝くひとつの大きな光は確実にこちらのほうへと接近しつつあった。

それと同時に、こちらに近づけば近づくほど光のたまの光量は乏しくなっていった。銀世界の白熱電球はついぞわたしの数十メートル先に来ると、あとは大きな挙動を見せなくなった。

かわりに光のたまは蛍のように、光の明暗を交互に繰り返しながらすこしずつわたしの置いた毛皮に向かって歩み寄ってきた。

光のたまだと思っていたものには四本の整った足があり、やや細長いかたちをしていることがわかった。さらに言うと、おおかた予感が外れることはないだろうという確信があった。

わたしは肩をすくめて息をひそめ、そのときを待った。


やがて、ときは来た——土地神がわたしのもとへ来たのである。


まごうことなき狼(体躯はたしかに家ふたつぶんぐらいありそうなほど巨大で、かなり威圧感があった)の姿をしたそれは周囲を警戒しながら、血を染みこませた毛皮に興味を示した。

彼が雪を踏み込んでも音はしなかった。まるで凍結した道を滑るようになめらかに、さながら空をスキップするように狼は毛皮に近づいた。そして納得したように毛皮を大口にくわえた。真珠のような白眼はあたりを確認するときびすを返そうとした。

わたしはそのタイミングで息が止まりそうな雪景色に叫んだ。

「も、モリス・ミズメーロさんですか!」

 ふと土地神は声に反応してか、しっぽを振り両耳をぴくぴくと動かした。土地神はこちらを振り返って全身の毛を逆立てて戦闘態勢に入った。彼がもし、わたしを敵と見なせば一息で食いかかってくるだろうな、と思った。

 胸がひりひりした。鳥肌が立つ。お願いだから襲わないで。

「モリス・ミズメーロさん」ともう一度、呼んだ。

「そこにいるのは人間か」

土地神は答えた。彼はぐるぐるとうなっていた。

「はい。人間です」

「この毛皮は、儂を呼び寄せるためであったか」

「姑息な手を使って、申し訳ないと思っています。ただ、どうしてもあなたとお話したいことがあって」

わたしはすべて正直に打ち明ける所存でいた。

「その方、姿が見えぬがどこにおる。面目ないが儂は目がほとんど見えぬ。触れられる程度まで、こちらへ寄れ」

「お、襲ったりしませんか」わたしはおずおずと訊いた。

「するか、たわけ」

土地神は一笑に付した。わたしは失礼します、と一言置いて、雪に足を沈めながらその魁夷たる体躯にゆっくり近づいた。それから、おそるおそるからだに触れてみた。布団のような柔らかい感触だった。それと同時に土地神の顔がわたしのほうにぬっと接近すると、生温かい舌がわたしの横顔を這った。

「ほう、これはなかなか。うまいうまい」土地神はなぜか舌鼓を打った。「その方、若いのだな。若き分際で儂と差し向かうとは良き心意気だの」

「僭越なふるまい、お許しください」

「いやいや構いはせぬ。ただ、若かったので、ちと意外に思っただけ。それのみか、女だったのでな、儂は大当たりでも引いてしまったかの」

土地神はさらに哄笑した。

 ほっとしたことは、案外話がしやすいということで息はともかく獣臭かったけれど、こういう状況を鑑みるとやむなしだろう。わたしは今、かりにも神様と対等にお話しているのだから。

「女性は珍しいんですか」

「珍しいというよりも、儂は基本的に郷の丈夫にしか話しかけん主義であったからの」土地神はそこで一度区切り、話題を転換した。

「ところで、その方、儂をわざわざ呼び出したということは、よほどの理由があってのことだと忖度するが。いかがした」

「はい。そのことについて、これからお話したいと思います」

 わたしはおじいさんから聞いたこの雪の郷の謂れと、それに照らし合わせた自分の事情についてかいつまんで説明をした。わたしがあらかた説明しおわると、土地神は内容を咀嚼するようにうなずいた。それから話はおおすじ理解したと言った。

「その方は、この雪の郷から脱出するために儂を頼ったということでよかろう」

「はい。そのとおりです。なにか方法はありますか。わたしはもとの世界に帰りたいのです。できるならば妹と暮らすあのアパートに」

「妹君がおるのだな、ひとりにしておくのは心配でならぬであろう。儂も古い仲間とも離れたときは心配でたまらなかったの。それはともかく、この事態はその方にとって一刻の猶予を争う一大事なわけだ」

 わたしはうなずいた。

「わたしを助けてください」

頭を下げると、髪に積もっていた雪がばさばさと落ちた。足元の雪はさらにかさを増していた。思えばおじいさんの家を出てからすでに三時間は経過していたのだ。もうあんまり、寒さを感じなくなっていたけれど、このままぼうっとしていると凍傷にかかって問題が解決しないうちにいろいろお手上げになってしまう。

 あとちょっとの辛抱だから、がんばれ、わたし。

 光は見えている。夜明けはかならず来る。

 その先には、きっとなにかが待っている。

 けれどもう指の感触はほとんどなくなりつつあった。くちびるはがちがちに震え、肌は冷たさで裂けてしまいそうだ。真冬の海に飛び込んで全身が冷気に閉ざされて、なにも力が入らなくて、からだの熱は空気中に吸収されて、わたしは雪だるまになんかなって、坂道を駆け上がったりするのだろう。あれ、おかしい。雪だるまはほんらい、道を下るもののはずだ。絵本にそう描いてあった。けど、その絵本に狼は登場しなかったな。そこにいたのは、青虫と一羽の黒いカラスだけで、そうか、その絵本の作者がわたしだった。

 青虫はまっしろい雪のなかで黒いカラスに追いかけられていて、青虫ののろのろ歩きじゃすぐに追いつかれてしまうから、雪だるまになって坂を転がろうとして逃げたんだ。けれど雪だるまになった青虫はそのスピードをコントロールすることができなくて、最後はスキーのジャンプみたいに夜空に飛んでしまって、星になるんだ。そうそう、そういう物語だった。なんて荒唐無稽なんだろう。小学生のときに友達のために作ったやつだったなあ。友達は面白くないって言われて、突き返されたっけ。あのときはそのことがかなしくて、妹とけんかしたんじゃなかったかな。まだ小学生になるかならないかの妹相手に、やけくそにわめき散らしていたんだった。そうしてふたりとも泣きべそかいて、母親にすがりついて、困惑させたっけなあ。

 今や、そのふたりが同じアパートで十年弱ともに過ごしているんだから笑える。

 わたしはすでに結婚願望のようなものからはるかに遠ざかり、我が家の血を後世に伝えるのは妹の役目だと思っている。そのぶん、わたしは彼女の支援を精いっぱいするつもりでいるし、お仕事で稼いだお金は彼女の結婚費用に充てたいという老婆心も強く持っている。

 わたしにはそれくらいのことでしか家族に貢献できないから。妹にたいしても、親にたいしても。

 少なくともわたしの生は自分の幸福にはまるで頓着がないし、めぐり愛してもらえないことをうとむような人間ではなくなったし、とは言っても本音のところはわからないのだけど、はぐらしたい? 本音は言わないほうがかっこいいのかな。ただのいじっぱりではなくて。わたしはなにを自己弁護しているのだ。

 こまったな、思考がぐちゃぐちゃだよ。

 ほんとうのことを言おうとすると、すぐしっちゃかめっちゃかなってしまう。それはつまり、自分がなんなのか、なにを言おうとしているのかわかっていないということなのさ。けれどとりあえず言ってみてしまって、骨組みがなっていないから容易く崩れてしまう。

 まるでなってない。

 自分が幸せになることはない、だなんて単なる予防線だろう。誰だって幸せになるためには、そうおうの努力を行っている。けれど最初から幸せは訪れない、と決めつけておけば君はしゃにむに努力をする必要はないからね。なにもしなくていいやつは楽な身分でいい。

 君自身さ。

 なににおびえているんだい。自分を取り巻くすべてか。

 なんにもしなかった末路だよ。罰だと言ってもいい。

 わるいが君にはもうすこし頑張ってもらう必要がある。

 さあ、わたしはなにも言わないから、自分の力でどうにかしてごらん。

 時間のゆるすかぎり、全身全霊をかけて、うんと前に押し進みなさい。

「しかたなしの人間だのう。ほれ、ここで倒れるでないぞよ」



**********************

 大丈夫。自信を持って。

 文章を書いたひとにしかわからない世界を、たくさん知っているはずのあなただから、こんなところで腐ってる場合じゃないでしょう。

それに、あなたの帰りを待ちのぞむひとびとが、きっとこの広い世界のどこかに存在している。そのひとに、思いをとどけるために、もうちょっと、もうちょっとだけ、どうか。

**********************

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る