第18話




猫さんと別れ、わたしは雨をしのぐため中に入った。

建物は四階から構成されていて一階はボーリング場になっていた。遠くからカコンカコンとピンを弾く小気味よい音が響いてきた。正面の受付に聞いてみると、すでにボーリングのレーンはすべて埋まってしまったそうだ。ついさっき、最後の一レーンに予約が入ったらしい。

申し訳ございません、お客さま。ふだんはこんなに混雑しないのですが、この雨ですからと受付のひとは申し訳なさそうに言った。また空き次第お伝えすることも可能ですが、いかがしましょうとおもんぱかっていただいたけれど、そこまでしなくて大丈夫ですと手を振った。

 わたしはボーリングを諦めてエスカレーターで二階に上がった。ここの階と三階は俗に言うゲームセンターになっていた。フロアにはところ狭しと箪笥のようなゲーム筐体が立ち並んでいた。クレーンゲーム、ダンスゲーム、ミュージックゲーム、メダルゲーム、どれもかれも幻想的なランプの光と雑多な音で満ちていた。フロア全体が無秩序な歓喜で溢れていた。

 わたしはひとまず、そのあたりのクレーンゲームを二回プレイした。お目当ては中高生の間で人気だとかいう不思議なラクダの人形だったけれど、これがまったく取れる気配がなかった。まさしく箸にも棒にもかからないといった様子でクレーンのフックがラクダの腹を抱えるように潜り込んだが、数センチ持ち上がっただけでぽとりと落ちた。

 そりゃ、まあかんたんに取れるなんてさほど期待はしていなかったけども。なんでしょうコツとかあるんですかねえ。引っかけて取れないのならどうすればいいと言うの。

 ぶつくさと文句を言ったあと、メダルゲームをすることにした。メダルゲームならば当たりが出る確率は高いし、もし一発当たればメダルは増殖して長時間継続してできるし、時間つぶしにはちょうどよいだろう。などと打算的なことを考えつつ、メダル換金所で千円分のメダルを手に入れた。

 わたしは当たりの出そうな場所をうろうろと探した。するとひとりのおじいさんが目についた。彼もメダルゲームをしていて、手元にはふちから零れてしまいそうなほどメダルでいっぱいになったカップが四つも五つもあった。何度も大当たりを叩き出している証拠だった。

 このおじいさん、かなりの手練なんだなあと感心して見ていると、しわの多い柔和な表情がこちらに向けられた。わたしはふいのことで意味もなく会釈をした。おじいさんもぺこりと頭を下げた。それがきっかけで、なんとなくおじいさんのとなりの席に座ることになった。

 さっきのクレーンゲームの失敗を挽回するぞ、といさんで席に着くやいなやとなりに座っていたおじいさんはからだをこちらに向けて、話しかけてきた。

「ここはもう当たりませんよ。今日ぶんの当たりは、あっしが吸い尽くしてしまいましたからねえ」

 そう言って、おじいさんは自分のたっぷりのカップを誇らしげに指さした。

はて、当たりを吸い尽くす? それはつまり、ゲームから運気を吸収したからこれ以上当たりが出ることはないということか。

彼の言葉はにわかに信じがたかった。

 なのでわたしは彼の言葉を無視して目の前のゲームに集中した。しかしおじいさんの謎めいた言葉はそのとおりになった。千円分のメダルを注ぎ込んだけど、大当たりどころかちっぽけな当たりすら出なかった。

 それに代わって目下のメダルの吐き出し口からコットンがしこたま出てきた。石けんを泡立てたみたいに、もくもくとあふれて、やがてちいさな雲になり、わたしの視界をまっしろに覆った。

 おじいさんはわたしが等身大のコットンの海に飲み込まれていく様子を哄笑して見ていた。

 ちょっと助けてくださいよ! とわたしは雲のなかで叫んだ。

「年寄りのたわごとだと思って、甘く見ておりましたかな」

見えないところからおじいさんの声が聞こえた。わたしはすでに自分がどういう状態になっているのか皆目だった。まるで酩酊したみたいに足元がおぼつかず方向が定まらない。

「ほんじゃ、ま、あっしはこれにて退散するといたしますかな。——哀れなものにツキの巡らんことを」

 これにて足音はどこかに去った。

 わたしは真っ白い雪原に包まれた気分でそこはかとなく不安になった。いったい、わたしがなにをしたというのだ。

ほんとうにツキがない。アンラッキー。

わたしはもう、あれこれ思い悩むのをやめて見渡すかぎりましろで埋め尽くされた雪原をざくざくと歩きはじめた。上白糖をまぶしたような表面にたしかに足跡が刻まれていった。ときおり、雪の重さで地面が落ち込む音がした。あとは静謐で閉ざされていた。

冴え渡る空の下の白樺の林を抜けると、そこには郷邑が広がっていた。

木造の民家は数えるほどしかなくて一箇所に集合していた。そのほかは畑や山になっていて、まがりくねった細道は自然によってつくられたものばかりだった。

この郷は標高千数百メートルの山々に囲まれていて、位置的に隔離されているといった、うらさびしい印象を受けた。山は雪をかむっていて、灰色と白と黒が混ざったようなくすんだ色をしていた。

背後の林からひゅうひゅうと風の流れる音がしていた。風は目に見えており、郷の底に吸い込まれるように吹いた。その風を目で追っていると林の出口からぐんと下ったところの道を、ひとが歩いているのが見えた。そのひとはリアカーを引いていて、なだらかな坂道を下った先の平地(ちょうど郷の底にあたる)に向かっているらしかった。

わたしはそのひとに声をかけるべく、やわらかに雪の積もった草木の間の道をすべって転ばないよう気にかけながら足早に降りていった。

リアカーを牽引する速度にくらべるとわたしが下るほうが断然早くて、ものの数分でちいさかった黒っぽいひとかげは数十メートル先に見えるようになった。地面にはリアカーの車輪の跡と、間にそのひとのはかなげな足跡が続いていた。足跡はところどころ違う方向を向いていたり、同じところを何度も踏みしめたような跡もあった。まるでなにかに迷っているような足跡だった。安全なはずの平地までまっしぐらというのではなく、ときに立ち止まって清冽なさまをもってどっかりと留まる自然のかすかな息吹を肌身で感じているかのような、ゆたかな情緒がその足跡に表れていた。

声をかければ聞こえなそうな距離になって、わたしは思い切って呼びかけた。

まわりには誰もおらず自分の声は通気口を通っていくように空気を伝わり、まっすぐに届いた。リアカーを引く彼は気づいて後ろを振り返った。

「おや、あんた、どこからやってきたんです」開口一番、彼はそう言った。「もしかしてあっしのあとをついてきておりましたかな」

 ええ、そうですが。あの。と、そこでわたしは言葉に詰まった。というのもわたしの目の前にいたのは先ほどのゲームセンターにいたおじいさん、そのひとだったから。

(げえむせんたあ?)

その聞きなれない響きは、どこから来たのだろう。

 わたし、ゲームセンターにいたっけ。いつ、どんな理由があって?

ここは雪の郷なのに。

こんなところにあるはずないのに。

はて。

とすると、このおじいさんは、誰だ。

「あっしはしがないジジイです」

手ぬぐいをほっかむりにしたおじいさんは、一旦リアカーの引く部分を木の枝に立てかけると、都合のよさそうな岩を見つけて積もった雪を払いのけ、よっこらせと腰を下ろした。

「あんたもここにお座りなさい。今日は日射しが温かくてよいですな」

 やれ、わたしはどうやら妙なところに迷い込んでしまったらしい。迷い込んだとすると、どこかしらはわたしのもといた場所ということになるのだけど、さてそんなものがあるのかしら。

 わたしはずっと長い間、この雪に触れていた気がするのに。冷っこい雪に手を押し当てると熱いような痛いような感覚がやってくる。

 わたしの世間は狭かった。

 しかし、必ず果てはある。ここはそのような場所なんじゃなかろうか。

 わたしの起点、原点。

 わたしを、燻ゆるいのちと想像の手綱でつないだ世界(エッジ)。

「原点、ということは、ここはあんたの故郷になりますかな」とおじいさんは尋ねた。

 さあ、わかりません。

「ご両親のや親戚に心あたりなど、あれば。あっしは長くここに住んでおるから、もしかするとあんたのことを知っているかもしれませんからねえ」

 そうして、おじいさんはわたしの名前を訊いた。わたしはそれにたいして短く応答した。おじいさんはふうむ、とうなって思案する様子を見せた。

 けれども、「すみませんなあ。どうやらその名前に身に覚えはないようです。ここに住んでいる人間ならば、ひととおり顔も名前もわかるのですが、あんたのことだけは、ほんとうにわからない」

 そうするとこの雪の郷はわたしの知らないところになるということでしょうか。

「そうなりますな。あんたは雪の感触だとか、この景色に見覚えがあるようだけど、それは思い違いかもしれませんなあ。そもそもこの地はあんたみたいに若い身空のかたが来るところじゃないんです」

 ここはいったい、どういう場所なんです。

「幻想の切れ端。すべてから断ち切られた、終わった物語の世界でございます」とおじいさんは言った。

 きれはし。末端。

「しかし、一般的な感覚としてこの世界は空白なのだそうです」

 それは、どういう意味なんですか。

「幻想は現実に起こりえない、架空のものは空白であるということです。すなわちここという場所は、実体を持たずあいまいで、ぼやけた空間であり不均等な調律とゆがんだ思想で成り立った有象無象の物語の世界として認識されているということです」

さきほどの言葉を介してまとめると、この雪の郷は『桃源郷』なのであります、とおじいさんは付け足した。

桃源郷は心が求めるユートピアとは異なります。

飛ぶこともできませんし、食料の貧困に直面することもしばしばあります。あっしらは野菜とすこしの米を細々と食うばかりです。夜はとても寒くて外出はもってのほかですし、かと言って家におってもすることなんてありゃしません。

しかし、それでよいのです。と言うのは、年を取るとだんだんなにも要らなくなって、シンプルな生活を望むものです。それは必定の境地と言いますか脈々と受け継がれてできた人間の逆らえぬ本懐と言いますか、とにかくそういうものですから。

どんなにきれいな錦の布も、使うほどに色褪せてゆきます。ひとの一生もそう大差はありません。

 この雪の郷は色褪せてしまった世界です。

 もちろんあっしもここに住んでいるひとたちも例外なんかじゃあありません。おしなべて余生の短い、仲間に死に後れたくたばり損ない連中ばかりです。

 ここはそういうものたちにぴったりの場所でありました。無駄なものはとことんなく、自由きままにのこりの時間を過ごすことができるのですから。

「……」

 ひるがえってあんたのことだ。

 あんたはまだ若い。それなのにこんなところにいる。これは不自然なのですよ。紛れ込んだにしても、ここはあんたのいるべき場所ではないし、もとに戻らないといけない。さもないとあんたはあんたの意思は、生と死のどちらでもない中間を永久に漂うことになる。

「そんな縁起のわるいこと言わないでください。わたしはまだ生きていたいです」

 ええ、ですから手遅れにならないうちに、あんたはここを離れないといけない。

 しかし、このような雪山にかこまれたところから抜け出す方法があるのですか?

 まあ、そのようなことはひとまず平地についてからお話しましょう。あっしについてきてくださいな。

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