第16話
無数の星の瞬く宇宙の惑星に囲まれた廊下。
わたしはバッグから飴をひとつ取り出して口に放り込んだ。ほんのりとした甘さとシトラスの香りが口いっぱいに広がった。飴を口のなかでころころ転がしながら、橋のような長い廊下をずんずんと勇ましく歩いた。
来るときの緊張はもうなかった。かすかな自信がついた。それは小学生の時に一輪車に乗れるようになって、こうすればできるんだと確信したときとおんなじ気持ちだった。
そんなことを思うと自然とにやけてしまった。まるはだかにされただけなのに。
おかしなものだな、ひとって。
一面に広がる南極のペンギンが好みそうな澄み切った深青色の空のやや下のあたりにエレベーターの扉があった。わたしはそこまで行き、地上着のボタンを押した。扉が開いたがなかはからっぽだった。そりゃあ、そうか。ここは最上階だもの。
ひとりで乗るエレベーターの安心感は格別だった。わたしは時間の許すかぎり、ガラス張りのエレベーターの外側に移るまっさおな空を眺めた。
空の青は切なかった。ほかの色の記憶がかすんでしまうくらい。
誰も邪魔をすることができないからかもしれない。さびしくて、物足りなくて、けれどほんとうはじゅうぶんで、でもやっぱり足りなくて。
地上がモザイク状に見えるほどにエレベーターが降下したところでエレベーターは停止した。それから扉が開いてひとりの男性が入ってきた。海外のサッカー選手みたいに先の尖った頭髪、着こなしたスーツ、振りまく雰囲気は一級のビジネスマンを思わせる彼はわたしのほうをちらりと一瞥すると、とくに興味なさげに手元の手帳にペンを走らせた。
わたしは後ろから彼の背中や横顔などを見た。つんと張り出した頬骨から顎にかけて、耳がぴくぴく動いているのがわかった。わたしはそのような機微を見逃さなかった。そしてそれを見て楽しむ人間だった。くすくすと。
ひとりがエレベーターに入ると、それからエレベーターの停止する間隔は徐々に狭まった。停止するたびに乗り込んでくる人数も増加して、一番はじめに乗っていたわたしはすみっこのほうで身をちいさくすることしかできなかった。ぎゅうぎゅう詰めになって、もうこれ以上入らないだろうと思っていてもエレベーターは停止してやはりひとが乗り込んできた。そのたび壁にぐっと押し付けられて、痛い! と叫んでしまいそうになる。
苦痛から解放されたのはエレベーターが一階に到着したときで、最初の男性が入ってきてから十五分も過ぎたあとだった。扉が開くと土砂崩れのようにひとが吐き出されていった。わたしはへろへろになっていたけれど、最後に出ると決めていたので根気強く待った。そうしているうちに数がまばらになり、左手に最初の男性がいるのを見とめることができた。彼は涼しい顔を決めており、やはりわたしになんか見向きもせず、エレベーターからスタスタと出て行った。なんだかひどく負けた気分だった。
次にも搭乗してくるひとがわんさかいたので、わたしはすたこら逃げるようにしてエレベーターから飛び出た。彼の姿はもう蟻ほどにちいさくなり、ビルの出口に消えていった。
わたしはやりきれない心持ちで、受付のほうにおもむき入室パスを手渡した。彼女はひととおり確認すると、はい、結構ですと笑顔で歯を見せてくれた。
わたしはこれ以上このビルで用事がなくなったので、おとなしく外に出ることにした。時間的に昼を過ぎたあたりで、わたしはすこしおなかが空いていたから、ちょっとぶらぶら歩いて気になったところに入ろうかしらと考えた。
しかし空模様はお生憎様、行きがけにスージーさん言っていた予想はみごとに当たり、雨が降っていた。しかしこのときわたしは傘を持ち合わせていなかった。
やれやれ、これじゃあ外を歩くこともままならないじゃないか。わたしが曇天を見上げてどんより辟易していると、足元のほうからどこかで聞き慣れた声が聞こえてきた。
「なめぱ、くお、まあ、ぱ」
声の主は猫だった。毛は栗色で、どこか不遜な顔つきで、飼い主のようにいつも唐突だった。わたしは驚いて目を丸くしながらその猫を見下ろした。
「栗毛の、猫さん?」
わたしはその猫さんを見紛うことはなかった。スージーさんの飼っている言語を話す猫さんだった。
「猫さんだ」
「よおよお。雨に濡れちゃ冷えるぜ。傘持ってきたから、これ使えよ」
猫さんの背中には黒い傘が取り付けられていた。わたしは嬉しくて黒い傘を受け取り、猫さんを抱き上げた。
「猫さーん」わたしは猫さんに頬ずりをした。
「やめろ! 人間のにおいがうつる!」猫さんは抵抗したけど、わたしは構わなかった。
あ、そうだ。
「わたしこれからお昼ごはん食べに行こうと思うんだけど、猫さんも一緒にどうかなあって」
「おむらいす」
「おむらいす。うん、わかった」
雨で濡れたアスファルトは黒く湿り、二車線の道路を走る車は水しぶきを上げていた。ビルの高さの半分にも満たない街路樹から水滴がぽたぽた落ち、傘の上に音を立てて落ちた。街路樹はよく見ると蔦のような電飾が巻きついていた。夜になるとすてきにライトアップするのだろう。
わたしは片腕に猫さんを抱きかかえ、雨降る並木道をとことこ歩くことにした。
雨はしっとりと降った。一日やそこいら続きそうな長雨だった。やだなあ。授業参観前日の陰鬱な気分に似ていた。天気は曇り、だけど雨やまぬ。
外を歩いているひとは少なくて、ひとびとはバス停のちいさな屋根の下で雨に濡れないように片身を狭くして列を作っていた。猫さんを抱きかかえたわたしは黒い傘をさして、バス停のわきを通り抜けた。
スージーさんの飼い猫である栗毛の猫さんはわたしの腕のなかで、うとうとしていた。ほんとうはお話をしたいのだけどこれじゃ話かけづらい。
しかもよく見るとわたしの胸元のうずまき貝のペンダントを口にくわえていた。昨日に続いて隙を見て、奪い取ろうという魂胆なんだろうか。けれど昨日はあっさり返してくれたし。もしかするとおしゃぶりみたいに、口にくわえていると落ち着くのかもしれない。それならば猫さんに悪意はないので、このまま放っておいてもよいだろう。
ところで猫さんはどうしてあのビルの下にいたのだろう。
ばったり会ったにしては、かなりタイミングが絶妙だし、なによりこの傘だ。持ってきた? ふつう水気を嫌う猫さんが雨のなかわたしのところに来るしら。もしやスージーさんにおつかいを頼まれたのかな。スージーさんはあのビルの場所は知っているし、雨が降ることも知っているし、じゅうぶんに考えられることだ。
——ねえ、猫ちゃん。この傘をあの子のもとに届けてくれないかしら。
どうして、俺が行かなきゃいけねえんだ。外、ほら、外を見ろよ。雨がばしゃばしゃ降ってる。俺はやだね、濡れたら寒くて凍えちまう。
そんなこと言わないで、お願いよ。わたしが行けたらそれが一番いいけれど、今日は午後の便でインドネシアに飛ばなきゃならないって言っていたでしょ、ねえ、時間がないのよ。頼めるのはあなたしかいないんだから引き受けてちょうだいよ。それにあなた、ひがな一日ひまなんでしょ。
もう、しかたねえな(前足で、顔をがしがし掻く)。わかったよ、俺が行けばいいんだろ。そうと決まったら、早く傘を寄こしな。今から行けばにゃんとか間に合うよな。
ええ、きっと大丈夫よ。それじゃ任せたわね……
このようなやりとりが、わたしの頭のなかで繰り広げられた。流れ的には大幅に間違っていないような気がする。猫さん、言葉ではああ言っているけど、なんだかんだやさしいものね。
「ありがとう、猫さん」
猫さんはわたしの声が聞こえたのかわからないた。まあ、それはともかく、お昼ごはんだ。猫さんの要望でオムライスがあるところを探すことにした。ぶなんにファミレスでもよさそうだけど、猫さんを店内に連れ込むのは気が引けた。まわりから不思議そうな目で見られるのはとても恥ずかしい。そうなればおちおち食事も楽しめない。となると、テイクアウトできるのがよいだろう。わたしはスマホで検索して近辺でオムライスをテイクアウトできそうな場所を探した。
『オムライス テイクアウト』
わたしのいる場所から300メートル離れたところに、テイクアウト可と表示されたレストランがあるのがわかったので早速そちらに向かった。
道中、腕のなかの猫さんの体温を感じることで気分は落ち込まずに済んだ。これがただの雨ならこうはならない。雨は薄情ですから。
やがてお店の前に到着し、わたしは猫さんを起こした。
あのね、猫さん。ちょっとここで待っててくれない? そう言って猫さんをお店のすみのレンガのあたりに開いた傘と一緒に置いた。傘下の猫さんは顔をしかめたけど、しぶしぶ了承してくれた。わたしはお店に入って、席にはつかず厨房に直接注文をした。そして五分くらいすると、受け取りカウンターで白いタッパーをふたつ手渡された。中身は見えない仕組みになっていたけれど、重さからすると結構な量がある気がした。
わたしはお店から出て猫さんのところに戻り、近くでくつろげる場所を求めてさらに歩いた。猫さんは次はみずからひたひたと歩いた。ようやくお話ができそうだった。
猫さん、猫さん。
「くまな、めぱ、まなむ」
もう、それはいいから。気を取り直して、猫さんはスージーさんのお姉さんのことは知っているの?
「ああ、あいつか」
猫さんは曇天を見上げながら、いやな過去でも思い出したかのような、しぶい表情をした。
「俺、あいつのこときらいなんだよ」
へえ、またどうしてよ。
「俺、何度かあいつのを絵のもでるになったことがあるんだが毎度注文が多すぎんだ。あんなぽおずしろだ、しっぽを二本にしろだ、逆立ちしろだ、そんなことできるわけないだろう」
しっぽを二本、は無理そうだね。
「しかも完成品が送られてくるんだがよ、こいつが俺に似てねえのなんの。はにーに絵を見せるだろ。そしたらこれは誰だって聞くわけよ。はにーはわからない。これは俺だって答える。すると、くすくす笑われる。あなた、こんなに凛々しくないでしょうってさ」
猫さんもたいへんなんだね。
「なによりだな、数時間拘束されるのが俺には心底たまらないんだ。お前も知っているだろう。猫は寝る子、眠気に耐え、まして同じぽおずをつづけるなんて、無茶もいいところだぜ。思い出すだけでぞっとするよ」
わたしは笑った。猫さんがあの台座の上で大仏みたいにどっしりと構えて、ほんとうは落ち着かないのを我慢しつつぷるぷる震えるさまを、レイディ・バードさんが真顔で描くという構図はとても微笑ましかった。
「しかもあのえれべえたあはなんだ!」猫さんはいきなり憤慨した。「ひとはぎちぎちだし、においは臭いし、最上階は遠いし、ありゃ設計がわるい」
たしかにそれは猫さんにとっては苦痛以外のなにものでもないだろう。ずっと自由気ままで、のんびり屋だと思っていた猫さんも人間のペースには合わないらしい。
ところで聞きたいのだけど、猫さんって椅子に縛られたことある?
そう言うと猫さんはぎょっとして、わたしから距離を置いた。
「やぶから棒に、おそろしいこと言うなよな。まさか、お前も俺を」
違うわよ。そんなことしないってば。むしろわたしがそれをされたのよ、彼女に。
「おいおい。お前もあんがい苦労してんのな」
猫さんは目に憐憫を湛えて、わたしを見上げた。ははは、お互いさまですよ。挙句はだかにされて、目隠しまでされたんだから。
「あいつの要望もその領域まで来たか」
猫さんは雨が糸のように降りしきるなか、「世界が終わる」とでも言うかのようなニュアンスでぼそりとつぶやいた。
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