第15話


視覚を閉ざされると筆の走る音が際立って聞こえた。

そしてその音になにかを躊躇するような雑音はまぎれておらず、追い風を受けたような怒涛の勢いがそこにはあった。

迷いのない、力強い、線描。

用いているのは鉛筆? ボールペン? わたしはレイディ・バードさんの作風をいずれも知らない。

実を言うと、この部屋に入る前、あの惑星上の長い廊下を歩いているとき、わたしは部屋に彼女の作品の一部が壁なんかに飾られていると予期していたのだ。歴代の大統領の肖像画が一列に並ぶみたいに圧巻の光景が待ち構えていると期待していた。

けれど、その実ふたを開けてみると部屋の奥に赤いくちびるみたいなソファがどすん、とあるだけで、そのほかにはなにも見当たらなかった。あらゆるものを取り払ったみたいにがらんとしていた。

いわば、それはわたしにとって拍子抜けだったわけだけど、こうして視界をシャットアウトして、おまけに椅子に縛られて、ほとんど面識のないひとに言われるがまま裸体にされると、ないまぜになった不確かな感情の一群が、緊張状態という、彗星のような細く研ぎ澄まされたかたちに姿を変えることで、わたしはふだんに増してセンシティブになっていた。


だから想像力がつよくはたらくきっかけになった。


わたしのむきだしの五体はあらゆるものに鋭敏にアンテナを張り、知覚をする。

今、彼女はわたしのどの部分を書いているのだろう。もう三十分ほど経過した。きっとすでにアタリはつけていて、各部位をこと細かに描き込んでいるんじゃないだろうか。

それは顔かもしれないし、上半身かもしれないし、わざわざ下半身を優先して描いているかもしれないけれど、とにかくいずれはすべてを描き尽くすのだ。自分の隠したいところも自信がないところも、もれなく線に、絵に、作品になってしまうのだ。

自分のからだがなぞられるというのはなんとも奇妙な感じだ。

なぞられる、という言葉と音の響きはわたしに「指」を連想させた。

わたしのからだは彼女の指になぞられるのだ。

白くて、細い、なめらかな指はわたしの首筋をつるりと滑っていく。それから肩に移動して鎖骨がこすられる。たぶん彼女はわたしの後ろにいて、わたしを抱きしめるようなかっこうで、わたしのからだをくまなくなぞっている。いよいよ指は鎖骨の門を通り抜け、乳房の輪郭をなぞりはじめる。氷のように冷たい指先に、わたしのからだはちいさくはねる。彼女の指はうずを描いて、外側から中心へと進んでいく。やがて硬いものに当たって、たしかめるようにつままれる。

わたしは非常にこわばっていて抵抗ができない。乳房の先は冷やした消しゴムのように硬化している。そのくせ、さわられるとやけに敏感だった。彼女の指はいつのまにか一本から十本になり、変幻自在の動きでわたしのからだを蔓のように這っていく。横腹のあたりからわきにかけて指が五本ずつ走る。からだじゅうがぞくぞくした。薄い皮膚に鳥肌が立つ。

彼女はわたしにささやくのだ。

「モット奥マデ、イキマショウ」

すばらしく甘美な響きだった。

彼女の指がするりと下腹部を伝っていく。あ、と声を出したとき、太もものあわいのふんわりしたところに指がふれた。わたしのからだがぴくぴくと震えた。わたしは彼女の腕をぎゅっとにぎる。けれども彼女の指は、もうすこし、もうすこしだけ、奥を探ろうとした。そしてわたしのあまり使われることのない、ちいさな押し入れに、ぴたとふれた。と同時に、またからだが跳ねた。

わたしは、はらはらと涙を流し、目をつぶり彼女の指にすがりついた。彼女のからだにすべて押しつけるみたいにもたれかかった。わたしは彼女の指を舐めた。なにも味はしなかった。けれどその指がたまらなくほしかった。わたしは猛り狂ったみたいに、舐めた。口にくわえてとろりとした唾液で満たした。

おかしいわよ、あなた。どうかしちゃったの。

いいえ、ちょっとだけ興奮しているみたいなんです。自分でもわからないの。

今まで多くのことを押さえつけてきたんでしょう。それを押さえ込むことで、自分はまともだって思いたかったんでしょう。けれど、押さえつけたものは押さえつけただけ反動が大きくなるの。

今、あなたの新鮮な想像力が押さえつけていた重石をとっぱらったのよ。その結果としてあなたにもわからないくらい肥大してしまった情動があなたを犯しているんだわ。

わたし、自分がこんな人間だったなんて、知らなかったから。

大人になってから、新しく気づく自分っているわよね。

それは意外な場面で現れるし、意外な素顔をしていることが多い。

だから戸惑ってしまう。そしたら自分に問いかける。これはほんとうのわたしなんだろうか、って。

自分のこと淡白な女だって、思い込んでいたんです。たとえば恋人ができても、しょっちゅう連絡を取らなきゃいけないようなきまりが理解できなかったんです。淡白だからみずから相手を求めようとか思わなかったし、行為も済んでしまうと穏やかに眠りこけてしまう。恋人にとっては行為のあとも起きていたかったみたいだけど、わたしにはそれができなかった。

恋人からするとそのような自分勝手さに付き合っていられなくなったんでしょう。わたし、恋愛とか性について、あまりいい思い出がありません。

——そう、だからこそ、わたしは今の自分に驚いています。どうしてこんなにも興奮しているんだろう。相手を求めているんだろうって。間違いなくこれは、性的な興奮なんです。わかるんです、自分のからだだから。


だけども、わたしではない感じ。


あなたの新しい側面なのよ。

それはこれまでのあなたと相反するかもしれないけど、サイコロの一の目の裏に六の目があるようなものよ。あまり深刻に考えないことが無難だわ。わたしにはあなたを納得させるだけの真理は持っていないので、あしからず。

ふと、ため息をついてみる。先ほどよりは興奮もややおさまっただろうか。

深呼吸をすると胸がふくらむのがわかった。どんな感じに? さあ。あるいは、おしり。ずっと堅い椅子に座っていてつぶれているんじゃないか。どんな感じに? そう言えば、レイディ・バードさんはわたしにたいして、なんらかのポーズを要求しなかったけれどもそのままでよかったのだろうか。

なにかのイメージ(蠱惑的だとか、悲愴的だとか)があれば、それに応じてからだのかたちを定めることもできただろう。でもどんな感じに? あれこれ想像をめぐらせてゆくと、自分のからだがどういうものなのか、わからなくなってしまいそうだった。

途端に自分のからだを抱きしめたくなった。

しかし、わたしの両手は椅子に縛られてふさがっているから、からだをぺたぺたさわることはできない。

自由ではないからだ。制限されたからだ。誰かにとってのからだ。いつかはやさしく愛されるはずのからだ。全部ひっくるめてわたしのからだ。

美しくはなくとも、これがわたしの唯一。

「ねえ、あなた」見えない窓の向こうから一頭の羊がわたしを呼んでいる。「あなたのからだって、とってもきれいなのね。何枚も絵にして残しておきたいくらい、すてきなんだけど、あなたは誰かにそのからだを褒められたことはある?」

 わたしは過去の記憶をたどった。

 成長期をのぞけばほとんど褒められたことはありません。しいて言えば勤め先の男性に胸のことをなじられたくらいです。とは言ってもぜんぜん的外れなことでしたから、数には入れません。

「恋人にも褒められなかったの?」

 恋人は褒めてくれませんでしたよ。そうじて男のひとは大きいとかちいさいとかしか言いませんからね。すごくアバウトでほんとうに褒めているつもりなのかって思っちゃいます(もちろん、口にはしませんけど)。

「ところで、あなたってもう済んでいるのよね」

 ええ、っと、はい。そうですね。

「実はわたし、恥ずかしながら、この年で処女なのよ」

彼女は唐突に告白をした。いきなりわたしにそんなことを言われても、どう反応をしろということなんだけど、わたしは視界を閉じられていて彼女の表情を推測できなかった。ので、わたしは黙って、彼女の次の言葉を待った。

「なんかね、あるラインを超えた瞬間から、わたし処女を失うのが怖くなったのよ。恋人ができても、行為は絶対しないというきまりを自分に課したのね。

何度か、このひとなら許せるかもしれないと思ったこともあったけれど、とうとうやらずじまいでここまで来ちゃった。——それで、あなたに聞きたいのわね、処女を失う瞬間は怖くなかったか、ということなの」

 失う、瞬間。あの、高三の秋。遠い記憶を、するすると引っ張りだす。

 あのときのわたしは、あらゆることに無我夢中だった気がする。

 自分の力量をうまくコントロールできないで、振り回されて苦しんで自暴自棄になって、そういうさなかの告白と初の行為。なにもかも光線のように過ぎ去って行き、それから数日感は放心状態だった。そのことは友達にも母親にも言わないようにした。

 なぜだか、怒られる気がしたのだ。

 今となってはどうしてそんな心境だったのか判然としない。

「もしも昔に戻れるなら、また同じ相手にはじめてを許す?」

 どうでしょう。もしかしたら、もうすこし慎重になるかもしれません。

「そう、それはよかった」と彼女は言った。「あなたの言葉で確信したわ。わたし、これからも処女を貫くわ」

 そんな大決断を、いいんですか?

「いいのよ。わたしが決めたことだから」と彼女は言った。言い切った。

 

おしまいのほうは、紙に擦り合わせる鉛筆の音もとぎれとぎれになっていた。やがて筆の音が一切止まり、世界中がしんとしたときに、わたしは終わったのかも、とひとりで悟った。なんとなく胸の奥底でつまっていたものが軽くなったような気がした。

それから数秒して扉がバタンと閉まる音がした(いや、開く音だったかもしれない。とにかく扉の音)。たぶんレイディ・バードさんが部屋から出て行ったのだ。彼女の気配はまったく感じられなかった。

せめてわたしの目隠しのスカーフとか、両手を緊縛している縄とかを先に解いてから出て行ってほしかった。あのー、すみませーん、と声にしてみてもなんの音沙汰もなかった。

 客観的に見て、誰もいない部屋に両手を縛られ目隠しをされたたはだかの女性が椅子にじっと座っているというのは、ちょっとした悪夢ではなかろうか。

というか、わたしだった。

 正直つらい。

 誰にも受け止めてもらえない無尽蔵のかなしみが、いっきに放流されてわたしは泣きそうになった。

 あとほんのわずかで涙があふれるというとき、ふたたび扉のバタンという音がした。同時にコツコツと地面を歩く音も聞こえてきた。どうやらレイディ・バードさんが戻ってきたようだった。彼女はふう肩が凝った凝った、と悠長なことを言いながらわたしのほうへ歩み寄ってきた。

「長らくお疲れだったねえ。縄を解いてあげるから、ちょいとお待ちねえ」

 レイディ・バードさんは椅子のあたりをちょこちょこいじくって、きつく縛った縄を解いてくれた。こうしてわたしの両手はぐーぱーできるようになったので、彼女から了承を得てスカーフも解いた。晴れて自由の身になったわたしは、太陽の光を浴びるひとでみたいに大きく伸びをした。

この新鮮な感覚はなにかに似ていた。なんだろう、晴れた日の海を一望できる丘の上の、わたしの背丈ほどあるみかん畑のなかにいるような。

 もう服を着替えてもいいのよ、とレイディ・バードさんに言われてはっとした。わたしはため息をひとつついて、身近にあった自分の衣類をふたたびまとった。そうすると羊水のなかにいるみたいにとても落ち着いた。あたたかで、ふわふわしていて、どことなく浮遊感がまとわりついていて、心地よい感じ。けれどコートの表面が毛羽立っているのを見て、みっともないのと現実感を覚えた。

 ちょっとだけ、しょげた。

「わたしに描かれているとき、どのようなことを思った?」

 いろいろです。

「いろいろ」

 ええ、いろいろ。最初はなんだかなあと思うところもあったけれど、時間が経つにつれてだんだん奇妙なよさや想像をめぐらせることの深みにはまっていったような気がします。そうして、気持ちよくなって、胸のつかえていたものがぽとりと落ちた。そんなふうな感覚です。

「いい感性だと思うな。わたしも描いていて、楽しかったし」

 こちらこそいい経験をさせてもらいました。ありがとうございます。

「今度またこのような機会があったら、そのときはあなたとわたしの妹を抱き合わせて描いてみたいよね」レイディ・バードさんはそう言って、にこにこした。

 ええ、その際は、ぜひよろしくお願いします。

 よければ、わたしの妹もモデルにしてみてはどうですか。いい身体をしているんです。

わたしはその後かんたんなあいさつを済ませ、いよいよ部屋を退出することにした。

レイディ・バードさんはわたしを部屋の扉のところまでついてきてくれた。

扉の先にはひとりで行けないんだよね、怖くて、と彼女は言い、そこでお別れをすることになった。

「さっきの絵はこれからもうちょい手直しをすることにして、そのうち完成したらあなたのお家に送らせてもらうね」

 わざわざありがとうございます。

「それじゃあね、また来たかったら、いつでもどうぞ」

彼女はそう言って手を振った。

 さようなら。失礼します。

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