第14話


彼女はコンクリート壁の部屋の奥に置いてある、固まった朱色の絵の具のような表面をしたソファに横になり仰向けになっていた。

片腕は目のあたりをおおい、もう片方の腕はだらんと垂れていた。彼女のへこんだお腹の上にはてんとうむしのかたちをした目覚ましと音楽プレイヤーがあってヘッドホンが彼女の耳に伸びていた。それから足を曲げた状態でクッションを両足にはさんでいた。

 わたしは部屋の扉を閉めて猛獣に近づくような慎重さで、おそるおそるソファへ歩み寄ってみた。しかし一歩手前に来ても、気づく様子がなかったので彼女の肩をそっと押した。

「はいはい、今起きるから、待って」

彼女は口だけ動かした。わたしは諒解して一歩後ろに下がった。彼女はお腹の上の目覚まし時計を頭のほうにあるテーブルに置いてから、ふらふらと上半身を起こしソファに腰かけた。まぶたが開いていないことから、まだ起きてすぐなのかもしれない。彼女の頭だけがぐらんぐらん揺れていた。カラスにさんざん突かれて今にも頭がもげかけそうな案山子みたいに見えた。

 あの、大丈夫ですか。

「昨晩の酒だね」と、彼女は言った。「出会ってそうそうわるいんだけど、このコップに水を入れてきてくれないかな。あっこに蛇口があるんで」

 テーブルにあったコップを渡されたわたしは指し示されたところに行き、八分目あたりまで水を注ぎ急いで持って行った。ありがとう、と彼女はコップを受け取ると水をごくごく飲んだ。全部飲み干して、一息つくとおぼろな表情でわたしの顔を見上げた。

「スージーが言っていたのは、あなたで合ってるのかな? ——ん、なんだか不思議そうな顔をしているけれど、あなたはわたしの絵のモデルとしてここに来たんじゃないの?」

 あ、そうです。そうでした。どうも、こんにちは。

「こんにちは。わたしはレイディ・バードって言うの。今日はよろしくね」

 ひさびさのお客さんだからもてなしの用意なにもしてないや、ごめんねえ。レイディ・バードさんはそう言って立ち上がり床に散らばった紙くずなどを拾い集めた。

「とりあえずソファに座っててよ。絵を書くまで、もうすこし時間と準備が必要だから」

 彼女は部屋中をあちこち歩き回りながら、妹がどうとか締め切りがどうとか美容がどうとか、独りごちていた。わたしは耳を傾けてときおり相槌を打ちながら、テーブルの上の飲み残したブランデーのグラスやら走り書きのメモ用紙なんかをそれとなく見ていた。

 ちいさいものから大きいものへ、わたしの視点は変わっていくが部屋にあるものと言ったら、わたしの座っているソファをのぞくと目ぼしいものは見当たらなかった。部屋の広さのわりに、スペースがこうも余っているとなんとなく落ち着かなかった。決してなんにもないわけではないというのが逆によそよそしい感じがする。

「純粋な想像というものを求めるとさぁ、物質的になにかがある状況はむしろ邪魔になるんだよ」とレイディ・バードさんは答えた。「今回にかぎってはデッサンだから、物質的に存在するものありきのアートだけど、ふだんは想像したものを目の前の白い紙にトレースしていくんでね、この部屋にはとかく物を置かないようにしてる」

 なるほど。

「芸術の世界は言ってみれば頑固と完璧主義の集まりなんだよ。こだわりが強くて、極端。——だからわたしとか、『部屋にはなにもない状態が好ましい』というふうになると、部屋のみならず部屋のまわりもなるだけなにもないほうがいいなあ、って突き詰めてしまうんだよ。それでわたしはここのビルの最上階を選んだんだ。だって一番上にはなにもないからね。ここは最高で唯一の場所だよ」

 彼女はそう言うと、わたしの見えないところに消えた。すこしして、そこからズズズと大きな音を立てながらかなりでかい平板な台座を(側面に背中を当てて後ろに押すようにして)運んできた。わたしはそこに駆けつけて、運ぶのを手伝った。

 平べったい直方体の台座を所定の位置まで運んだあと、彼女はそのへんにあった突っ張り棒を手に持つと、天に突き上げて先端部を細かく動かし天井の照明の角度を台座に合わせた。

まばゆい光が左右に揺れるなか、わたしは台座の上に立ってみた。

「そこがあなたの舞台だよん。わたしがデッサンしているあいだ、あなたは照明の光に当たりっぱなしになるんで、からだが熱くなるかもしれない。そのときは無理しないで休憩を挟んでもぜんぜん構わないからね——それじゃ、まあ、準備ができたところで早速はじめましょうか」

 はい、わかりました。わたしはどうしたらいいですか。

「服脱いで」

 え。

「服を、脱いで」

 それは、その、どこまで?

「ぜんぶ」

 全部……

「羞恥心は捨ててね。邪魔だから」

レイディ・バードさんは非情だった。

 たしかに絵のデッサンとなれば裸体をモチーフにすることがあるのは知っている。しかし、よりによって最初がこれとはいかに、さすがに予期していなかった。とは言うもののもとより自分で決断したことだった。ある程度覚悟も必要だった。認識の甘かったわたしがよくなかった、というだけで。

 ひよこさん、力を貸して。勇気を。ひるまぬ勇気を。

 わたしは服に手をかける。まず靴を脱いで、それから下とものと上のものを交互に脱いでいく。順番としてはスカート、コート、ストッキング、ニットのセーター、インナーシャツ、パンツ、ブラジャーという流れで、脱いだものは丁寧に折りたたんで台座のそばに一箇所にまとめた。

 脱ぐほどに露出度は高まり、わたしはレイディ・バードさんに始終その様子をじっくり眺められた。彼女はまったく動かなかった。足を組んで手にあごを乗せて、セミが羽化するのを待つみたいにただじっとわたしを見つめた。

 彼女の視線が気になって、なんだかそわそわした。

 彼女はなにも言わない、なにも指示しない。わたしに脱げと言って、わたしが脱ぐのを見守っている。

 お腹のちょっと下のところがひんやりした。今、パンツを脱いだからだ。わたしは彼女の視線からのがれるように背を向けてリノリウムの床に正座をし、面積のちいさいそれを四つ折りにしてシャツの上にそっと置いた。

 わたしの頭のなかに、砂が流れる音がしている。これはわたしの気持ちなんだろうか。ほんとうはどうかわからない。けどもなにも不思議じゃない。

いよいよ残すは、ブラジャーだけになった。わたしは正座をしたまま後ろにレイディ・バードさんがいるのを意識しながら、かちりと背中のホックを外した。ブラジャーはすとんと膝に落ちた。

これでわたしは、身ぐるみ失ったのだ。

パンツのそばにブラジャーを置くと、そこにわたしの衣類がすべてかたまった。それを見つめているとわたしは物体から飛び出した幽霊になってしまったような気分になった。

はだか、と口にしてみた。ひどくむなしかった。これがなにもない、ということなんですね。ふいに髪をさわってみるけれど、昨日短くなったやつはうんともすんとも言わないし、やせ細った鹿の毛みたいにごわごわしていた。

わたしがちらと後ろを見やると、レイディ・バードさんが両手の指をからめて大きく伸びをした。そうしてあくびをひとつすると、口を『い』のかたちにしたりして顔の筋肉をほぐした。

「レイディ・バードさん。服を脱ぎました。次は、どうしたらいいですか」

わたしはどうやら可憐な少女にでもなったみたいだ。みすぼらしい姿になると、なんとなくしおらしくなった。従順で、大和撫子のような儚さ。ふだんのわたしとではまるきり異なっているが、このときばかりはおかしな気持ちになっていたのだろう。

 彼女は言った。

「あなたのからだを椅子に縛りつけるから、おとなしくしててね」

 一瞬、わたしは驚きを隠せなかった。縛るってそんな。

「ちくちくする縄とか使わないから、安心して」

 そういう問題ではなく。

 わたしがあたふたすることなどお構いなしに、レイディ・バードさんは入口付近にあった簡素な椅子を台座に運んできた。うんしょという掛け声で、椅子は台座の上に乗った。

「はい、ここに座ってね」

彼女は鼻歌まじりに、わたしを椅子につかせると、台座の後ろに回りごそごそとなにかを探した。「たしかこのあたりに……ああ、あった」

彼女が現れたとき手には縄があった。黒い縄で蛇を思わせた。

「今から椅子の背もたれの棒のところであなたの手を縛ります。いいですか」

 わたしはもはやいろいろと観念した。これが彼女のこだわりならば、それを受け入れこだわりの範疇のなかでわたしにできることをするしかなかった。

 そこにはもう喜びはなく、かなしみもなく、怒りも、楽しさも、悲壮感もなく、したくちびるを五ミリくらい噛んで後ろに回した手首が椅子に結びつくのをじっと待った。

 できたよ、と言われてわたしは身じろぎをしてみた。

 あ、縛られてるということはすぐにわかった。自分が動いたら、一緒についてくるような。手首はやや圧迫されている感じがした。指で縄の結び目があるのがわかった。

 はだかだと背もたれの固い感触がじかに伝わってくる。背中と肩甲骨のあたり、それからお尻。すごく固くってお尻の骨で座っているみたい。椅子の上に置かれた花瓶はさぞかしつらい思いをしていたのだろう。

「なかなかさまになっているね。上出来じゃない」と、彼女はわたしを褒めてくれた。

 さて、これでいよいよ本格的に絵描きに移るかと思いきや、レディ・バードさんはわたしを見たまま、またもや動かなくなった。

 どうしたんですか。

「うーん、あとひとつ足りない気がするんだよ。見ただけで幾千もの想像が沸き立ってくるようななにかが、あとひとつで完成する気がするんだけどなぁ」

 あとひとつ、わたしにはこれだけでもじゅうぶんすぎるくらいなんですよ。

「でも、わたしには足りないの。わたしが足りないということは、ほかにも足りないひとがいるんだよ。それは完璧じゃない。ぜんぜんそそらない」

 はあ、そう言われても、もしなにか足りないとすればわたし自身の問題じゃないでしょうか。わたしはとくにスタイルがいいわけでもないし、肌だってもう若々しくない。場所によっては干し柿みたいにしわくちゃでぶよぶよしているし、こうして誰かの前ではだかになると自分のからだのあちこちが気になります。こう言うのもなんですが自分は適切なモデルではないように思います。

「ううん、そんなことないよ。今のあなた、すごくいいんだから。ね、卑屈にならないの」

 ええ、すみません。けれど足りないものってなんなんでしょう。

 レイディ・バードさんは台座のまわりをうろうろしたのち、わたしのからだを上から下からまじまじと見た。そのあいだ、うんうん呻いていた。探偵のようにどこかに手がかりを探しているみたいだった。わたしは、椅子に縛られていて動けないから、とにかく彼女のひらめきを待つしかなかった。

 想像することが、なにもないところからはじまるのだとすれば、不必要な情報は徹底的に排除しなければならない、と彼女は言った。

 不必要なこと、わたしが羞恥心を持っていること、自分をさらけ出せないこと、肝心なところで引っ込んでしまうこと、行き過ぎて後悔をすること。

 どれも、いらない。

 それが生じてしまう原因はどこにあるの。

 それはもしかして他人。

 もしかすると他人の目。

 他人の目は、いらないのだ。

 それでもつきまとうなら、目を閉じるしかない。目を閉じる。視界を閉じる。

「——視界を、閉じる」

わたしがぼそっとつぶやいたとき、レイディ・バードさんが叫んだ。それだ、と。そうして彼女は光の速さでふたたびわたしの見えないところに消えて行った。

「それだよ!」

彼女が叫んで現れた。その手には紫色のスカーフ。スカーフ?

 スカーフなんか、なにに使うんだろう。

「よーし、よし、いい子におし」

 え、ちょ、なにを。

「目隠し」

 め、か、く、し。

「これでばっちり。足りないものはこれだったんだ」

 わたしは紫色のスカーフで目隠しをされた。

 当然のごとく、わたしはなにも見えなくなった。

「これから極上のものを作ってあげる。お楽しみに」

 準備が整い、どきどきの緊縛デッサンは幕を開けた。

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