第13話




朝九時。わたしはアパートに附設するちいさな空き地(車三台分ほどのスペース)で、お迎えを待っていた。目の前には細い道があって、五分に一度くらいの間隔で車や自転車が通った。

わたしも手伝って小奇麗になった妹は、およそ三十分前に家を出ていき駅へ向かった。

「じゃあ、がんばってくるね」

意気軒昂として寒空の下を歩いていく彼女を見送ったあとで、いったいなにをがんばるのだろうなあ、と面白くもない想像をでたらめにしてみた。けれど不毛だった。

もとより宇宙人とのデートすら想像しにくかったのだから。

わたしは膝あたりまであるロングコートに身をつつみ白い息をはいていた。空は快晴で日中は二十度を超えるという予報だったけれど、この時間はまだまだ寒く、鼻をつんとさして涙とあくびが同時に出た。

と、そのときだった。かなり遠くから騒がしげな音が近づいてきていることがわかった。おそらくそれは車の走行音で、ときおりキュイキュイという音が混じった。

彼女はいつだってとつぜんにやってくるのだ。

どこかで聞き覚えのある耳をつんざくようなブレーキをかける音が白いアウディとともに登場した。

今回はわたしの手前で無茶なドリフトをしたりすることはなくて、道路のわきにぴったりと停止した。その際、車体が若干浮き上がった気がするが問題はなさそうだった。ハザードランプが点灯したあと左前側のドアががちゃりと開いて、女性が降りてきた。

「おはよう。今日は天気がいいわね」

 おはよう、ございます。

「ここに来るときにね、道路に黒いひよこがいたのよ。あとすこしのところで、ひき殺しそうだったけれど、ぎりぎりで避けることができたわ」

わたし、そのひよこに心当たりがありますとはさすがに言えなかった。まったくひやひやしちゃったわ、とスージーさんは汗をぬぐう素振りをした。

 スージーさんは全身黒づくめと言ってもなんら差し支えがなかった。シンプルな黒のトップスに腰の位置の高いタイトなデニムを合わせ、その上にレザージャケット(しなやかに隆起する筋肉の美しい、上品な黒い馬の表皮を思わせた)を身につけていた。デニムと黒いブーツの境目はもはや区別ができなかった。遮光用なのかおしゃれ用なのかわからない大きくて黒いサングラスは、彼女の目もまゆも隠してしまった。

 ここまで彼女のスタイルは黒を黒で飾るような黒づくしだったけれど、口元だけは違った。彼女のくちびるは薔薇の花弁のように赤く、太陽の下のはりつやのあるトマトのように潤いがあった。そこだけ異彩を放ちわたしの目を引いた。というよりはむしろ、全体的に黒が強いからかえって赤が目立ったと言うべきかもしれない。いずれにしても、黒に赤という組み合わせは、わたしがもっとも気に入っているカラーデザインでまさしくスージーさんは、わたしの完成された理想だった。

 圧倒的な美のかたちの前に釘づけだった。たぶんそれは誰が見たって、納得させてしまう美しさだったし、そのようなひとがわたしの手の届くところにいて、なおかつおしゃべりができてしまうのだとしたら、それを幸せと呼ばずになんと表現したらよいのだろう。

 このときのわたしは感激のあまり動くことができなかった。

「ねえ、どうしたのよ。こんなに寒いからからだがこわばってるんじゃないの」

 スージーさんはわたしの後ろに回り込むと、筋肉をほぐすように肩を揉んでくれた。その体感があってようやくわたしは気楽になった。

「残念ながらわたしたちはこんなところで油を売っているひまはないのよ。あまり言わなかったけど、わたしの姉はすうごく時間に厳しいから、一分でも遅れるようならかんたんに門前払いされちゃうわよ。ささ、早く助手席に乗ってちょうだいね」とスージーさんは耳元でそうささやいて、手をつかんで車に引っ張っていった。

 わたしは押し込められるように助手席に乗せられた。あたふたとシートベルトを締めているときには車は急加速で発進してしまっていた。狭い路地をありえない速度で飛ばしていくスージーさんは、涼しい顔をしたままわたしに話しかけてきた。

「あなた、傘は持ってきてる?」

 いいえ、持ってきてないです。今日の天気予報だと、日中は雲ひとつない青空だって言っていましたから。

「あら、そう。わたしの『予報』だと、昼から大雨が降ることになっているのだけど、あなたはどっちを信じるのかしらねえ」

 スージーさんは『能力者』で、かなり先の天気を予知することができる。またこの能力は災害を事前に察知することにも長けている。彼女はそれを利用して、災害を未然に食い止めるための『サイレン』として、各地を飛び回っては情報を伝達する仕事をしている——という話を、彼女の口から直接聞いていた。

 ので、というわけではないけれどわたしはスージーさんの『予報』を信じることにした。しかし傘は手元になかった。天気がわかるのなら出発前に教えてくれてもよかったのにとわたしは肩肘をついてふくれて窓の外を眺めた。雨雲は、どこにも見当たらなかった。

「他人の能力なんて最初は信じないものよ。なかんずく霊とか予知なんてのはね。べつにわたしのこと、疑っていいのよ。そういうの気にしないから」

 決して疑っているわけではないんです。と言ったきり、わたしは押し黙ってしまった。なぜなら疑っているわけじゃなかったら、なんなのだろう、と反対に自分に疑問が湧いてしまってから。

「持っていないものに憧れる。知らないものは否定する。自分だけに特別ななにかを見出したい。けれどもやっぱりなにもなくて、間に合せ、有り合わせ、そんなもので代替して、嘘をついて。人間って、こざかしい生き物よね」

スージーさんは言った。わたしも例外なく、と付け加えて。

 こざかしい、か。あまり気持ちのよくない響きがした。けれど、気持ちのよくないと言っている時点でわたしは人間を美化しているのかもしれない。こざかしくて当然、と言い切れない自分がいた。自分だって、こざかしいのに。

「振り幅の問題なのよ。全部じゃないわ」

 ええ、わかっています。わかっているけれど、こざかしいと言われると、やっぱりすこし気持ちが滅入るというか……うまく言えないです。

「きっとあなたのまわりにいたひとたちは、みんな優しくて心が豊かだったんでしょうね。そんなすてきなひとたちに囲まれていたから、なんとなくこざかしいという言葉が胸の窪みにつかえてしまうのよ。あなたって素直でいいわねえ」

 愚直すぎて、いろんな物事をうまいことかわすことができなくて傷ついてばかりですよ、とわたしは苦笑した。

「傷つくことは痛いわ。痕も残ってしまうし、切なさと自分への怒りとむなしさで胸がいっぱいになってしまうわよね。けれどわるいことばかりじゃない。なぜなら傷にはいろいろな感情が総動員されるのよ。いろいろな感情が子どもみたいに、でたらめにはしゃいで振り回されるあなたはたまったもんじゃない、と思うかもしれないけれど、逃げずにいたらいずれ彼らのパターンがわかるようになって、ちゃんと制御できるようになるわ」

スージーさんはわたしに微笑みかけた。グロスのリップがつややかに光った。

「傷つかずに世渡りばかりうまくなって、肝心なところから逃げ出すひとは子育てから逃げたおとなと同じ。どちらにも待ち受けるのは不幸よ。誰も不幸からは絶対に逃げられないんだから」

 その一方で、幸せはいともかんたんに逃げていくものね、と彼女はくすくすと笑った。

 わたしもおかしくて笑った。

 スージーさんは、幸せに逃げられたんですか?

「さあ、どうだったかしらね」

彼女は左手を伸ばして、フロントミラーの位置を調整しながらうそぶいた。

「そう言えば、あなたって彼氏はいるの?」

 唐突な質問だった。わたしはまごまごして、ひとまず『いない』ということだけ言おうとした。が、わたしの意思はスージーさんの携帯電話の着信音によってくじかれてしまった。

 ちょっと失礼と一言あって、彼女は電話に応答した。それから電話の向こう側のひとと親しげな会話が数分間続いた。その間わたしは沈黙していたけれど、耳はちゃっかり澄ましていたし、会話の端々に、姉さん、展覧会、絵、などのワードがふくまれていたことから電話の主は彼女のお姉さんのようだ、と推測できた。

「すぐに送り届けるわ。うん、わかった。またね」

話にまとまりがついたのか、スージーさんは性急に電話を切るとさらにアクセルを踏み込んで車を加速させた。わたしは、年甲斐もなく、きゃっと悲鳴をあげた。

 昨日の運転はなんら危なげのないものだった。しかし今日はなかなかのやんちゃぶりだった。事故は起こさないだろうが、乗っていてひやひやするような運転だった。

 ひやひや、ひりひり、はらはら。ひどく落ち着かない。朝で交通量は少ないものの内心はおっかなびっくりでござい。

「あとちょっとの辛抱よ。我慢してね」

 はあ。ふう。

 わたしは諦めて目をつむり、とにかく平穏無事に彼女のお姉さんのところへ到着することだけをひたすら祈った。

 このときわかったことは、自分のペースはひとのそれよりもかなりゆっくり進んでいて、夏の日にすぐ溶けてしまうアイスキャンデーみたいな人生はまっぴらごめんであるということだった(あずきバーくらいがちょうどよいでしょうね)。


 スージーさんのお姉さんのアトリエは摩天楼のような高層ビルの最上階にあった。

 わたしは、そのビルのフロントの受付の女性にひととおり状況を説明した。女性は少々お待ちくださいと言って、電話をつないだ。彼女が受話器から伸びるコードに指をぐるぐる巻きつけたまま、二十秒ほど無機的な呼び出し音が鳴ったあと、ようやく応答があった。それからいくばくかのやりとりを経て、ついにOKサインが出た。

「こちらがお客さまの入室パスになります。くれぐれもなくさないようにしてください。レイディ・バードさまは最上階の奥の部屋にいらっしゃいます。あちらのエレベーターからお乗りください」

受付の女性はそう言ってわたしにパスを手渡し、ジェスチャーでエレベーターの場所を指し示した。わたしはありがとうございますと一礼をして、そちらに向かった。

床がカーペットになっている広いフロントは非常に多くのひとで溢れていた。そしてそのほとんどがエレベーターの扉の前で行列を形成していた。わたしもそのうちのひとりとして、二箇所ある扉の左側の列に並んだ。まず先に右側の扉が開いた。それにより行列がごそっと減った。次に左側の扉が開いた。わたしは後ろのひとにせっつかれながら、ぎゅうぎゅうづめのからくり箱に身をよじるようにして入り込んだ。そうしてすぐさま背伸びをしながら、えいっと最上階のボタンを押した。

一定数ひとが入ると扉は自動で閉まりアナウンスとともにエレベーターは上昇をはじめた。エレベーターはビルの外にむきだしになるように作られていた。だから高さが上がっていくにつれ、街が一望できる仕組みになっていたのけれど、内部で冷めたナンのようにぺしゃんこになっていたわたしは、外の景色を見るどころかちゃんと立てているかどうかも怪しかった。

 しかしエレベーターが次の階に止まるごと、確実になかは空いていった。そこはまるで終点に向かう電車の車内のようであり、ある地点を超えたときに一気にひとがいなくなった。そこには音のない静寂が漂うようになった。かろうじて裾のすれあう音がしたくらいだった。

 わたしは外の景色をなんとなく見たり、ポケットに手を入れパスをまぜこぜするなどして時間を潰した。その間にもひとは減った。

 四人が三人になり、三人が二人になり、最終的にエレベーターに残ったのはわたしひとりとなった。なおもエレベーターは上がりつづけた。

 もしかするとエレベーターは永遠に止まることなく、上がりつづけるんじゃないだろうか。そうしたら最上階に待ち受けるのは天国かな。わたし天国に行くのかな。エレベーターの壁に張りついてみるけど、もはや上も下も見分けがつかなくなった。天壌無窮という言葉がぴったりとはまった。

水平線は彼方のかぎりすさまじい青が冴えていて、自分の存在が透けてしまいそうなほどでついついここがエレベーターのなかであるということを忘れてしまいそうだった。手のパスをにぎる感覚がよみがえってかろうじてはっとする。

そうだ、わたしはこのパスを持って最上階まで行かないとならないんだった。

いけない、いけない。

わたしはもう外を見ないで、光るボタンがどんどん上に進んでいく様子に意識を向けた。最上階はすぐそこだった。

そしてついに、わたしは最上階にたどりつく。

 エレベーターの扉が開くと、わたしの目の前に長い廊下があった。そのほかにはなにもなくて、まるで定規の上に立っているような心地がする。廊下はガラス張りになっていて地上を見下ろすことができた。いいや、わたしの下にあったのは赤い惑星だった。

惑星の輪郭をなぞるような廊下をわたしは歩いていくと、ちょうど惑星の真反対にさかさまになった扉を見つけた。扉にはパスを認証する装置がついていた。

わたしは、装置にパスをかざした。


PippoppiPi


扉の開錠する音。

わたしはちゅうちょなくs扉を開けた。

                      →幻想・赤

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