抜刀術

 イザベルの叫びは反響し、海水を伝って永遠に響き渡るかのように思われた。その響きはつい、と止まり、やがて訪れたのは、しばしの沈黙だった。不気味なまでの。しぃんと静かな。

 

「何……?」

 

 ブレンが片耳を抑えていた手を、軽く離したときだった。ぱりん、ぱりん、と薄氷が割れていくような音が、周囲に広がる、ひとつでは小さく聞こえていたかもしれないその響きは、幾重にも重なっているせいで、重奏となり、大きく聞こえた。

 ブレンが天井を仰いだとき、部屋のすりガラスの窓が割れ、それをゆるく覆っていた深紅のカーテンがひらりと内側に舞った。カーテンの裏は、呼応するように深緑色となっていた。割れたすりガラスは、パラパラと氷の花弁のように海中を漂う。

 ジークフリートたちの顔の近くにも届いたが、泡の守護によって目を傷つけられることは防がれた。本能で手を顔の前に翳し、瞳を眇めた刹那、時が止まったかのような感覚に陥った。目の前の海水の流れ、散らばって舞うガラスの破片が、しんと静かな雪の日のように、緩やかに見える。

 ジークフリートは瞳をゆっくりと瞠った。

彼がわずかに人差し指の先を動かしたとき、止まっていたかに見えた時間は、墨を含んだ筆を強く紙に押さえつけた時のように広がり始めた。

 窓から大勢の人魚が、怒りの形相を浮かべてこちらを襲ってくる。色とりどりの錦のような長い髪は、海水の青い影を宿して凄絶なうつくしさを孕んで、狂気にも見えた。

 主人・イザベルの命により、彼女の咆哮から怒りの感情が伝わったのか、人魚たちは牙を剥き出し、目を釣り上げていた。まるでどこぞの山奥で戦友たちと野宿した時に見た野犬だ。獣の本能を剥き出しにし、敵を屠ろうとしている。

 ジークフリートが立ち上がろうともがく中、

 彼の前にいた十六夜は、腹からはっ、と声を上げ、己に活力を与えた。そして、姿勢を正すと、片腕を腰の刀の柄に置き、ぐっと腰を落とす。

 

「十六夜、何をーー」

 

 ジークフリートが掠れた低い声で、十六夜に問いかけた刹那、十六夜は斜め上からジークフリートに噛みつこうとした人魚に向かって勢いよく抜刀した。

 ジークフリートは驚いた。ああ、そうだ。イザベルが怒声を上げてから? いや、フレデリックが真実を話してから? いや、もっと前、我々がイザベルに捕らえられてから?

いや、違うだろう。双子が連れ去れてからーーそれよりも、もっともっと前から、戦争だった。これは、戦争だったのだ。そういった思いが、その時彼の脳内を駆け巡った。 十六夜に斬られた人魚は、高い叫び声を上げながらもがいてくねくねと踊るように泳ぎ、下がっていく。どうやら、致命傷にはならなかったらしい。十六夜は、手加減したのだ。

 

「ははっ。お優しいロゼ殿には、同胞は殺せんということか。お得意の抜刀術の魅力も半減じゃのう」

 

 イザベルが勝ち誇ったかのような笑いをする。腹を押さえ、笑いの波に耐えている。

 十六夜はつめたい視線でイザベルを射抜くと、前歯で下唇を食んだ。ぽってりと厚いくちびるの上に、白い小粒の歯が、わずかに覗く。

 刀に付着した人魚の鮮やかな血が、海の流れと共に漂って消えてゆく。

 十六夜はその血に包まれるように、凛と立っていた。


「おい、イザベルの手下ども。ーーかつての我が同胞よ。うす汚い野心を持った人間と手を組み、人魚殺しの罪は重いぞ。私はみずから誰かを手にかけることはないが、そちらから向かってきた場合にはーー」

 

 青黒い潮水を割るように、斜め下から、ぐん、と人魚が一匹泳いできた。口を大きく開き、今にも十六夜を噛み砕かんというように。

 だが、十六夜は、くちびるを引き結んだまま、表情を変えず、目の眼光だけを鋭くする

 降り積もる白銀の雪色をした刃をふたたび鞘に戻すと、一際深く腰を屈めて、祈りを捧げるように首を落とし、静かにまるい瞼を閉じた。その仕草があまりにも美しく、また神々しかったので、ジークフリートはうすくくちびるを開き、しばしの間呆然としていた。周囲には凶暴な人魚が多くいたというのに、その刹那だけ、彼の視界には薄青い海を背景にした十六夜の姿しか映らなかった。

 人魚が跳ねるような勢いをつけて十六夜に向かって長い手を伸ばしながら泳いでくる。

 瞳孔の開いた瞳は虚だ。

 小型ナイフ並に長く伸ばした真珠色の爪で、

十六夜の薄い肌を裂こうとする。

 十六夜は人魚が触れるか触れないかというほどの距離まで近づいた頃、瞼をかっと見開いた。

 そして人魚には一瞥もくれず、動かぬまま抜刀すると、人魚の腹を縦に斬った。 人魚は腹の奥から出したかのような低い咆哮を上げると、目を開けたまま仰け反って後方へ倒れる。海がクッションとなり、地へ落ちることはなかったが、腹から吹き出した血が海水と混ざってさっと広がり、十六夜の白い肌を赤く汚していった。

 十六夜はその様を、ただ黙って見つめていた。黒い眉を寄せ、かすかに震わせながら。

 その場にいたジークフリートだけが、彼女が悲しんでいるように見えていた。

 やはり、十六夜は致命傷を避けたらしい。

 刀の傷は深みには辿り着かず、人魚を気絶させただけだった。幾日か海の中で休めば、回復する程度の。


「仲間を傷つけたくはない……」

 

 十六夜が呟いた吐息のような声は、かすみとなって海に溶ける。それをきちんととらえたのは、ジークフリートだけだった。

 周囲の人魚たちは十六夜の華麗な刀さばきに驚き、怯えて震え始めた。天から彼らの様子を伺い、降りてこようとはしない。

 十六夜はそれをちら、と見上げて確認すると、思い出したようにジークフリートたちの背後へ回り、刀の切先でぷつん、と縛られていた縄を解いてやった。

 ジークフリートたちが立ち上がったのと同時に、十六夜は引き結んでいたくちびるを開いた。


「イザベル」 

「……」


 イザベルは怒りを抑えきれず、ふー、ふー、と宿敵を前にした興奮しきった犬のように、目を釣り上げて十六夜を睨んでいた。

 十六夜は彼女には視線を移さないまま、静かに時を待つ。流れゆく潮が、地上のそよ風のように十六夜の細い髪を揺らす。さらさらと流れていく黒髪は、白い光沢を孕んでいた。

 

「このままだと、お前の仲間の人魚が傷ついていく。戦闘の深みへとたどり着けば、私も手加減はできなくなる。ただの殺し合いが始まる。私たちが全滅するか、このコロニーの人魚たちが全滅するかの」


 十六夜はイザベルの方を振り向いた。一つの絡みも見せない滑らかな黒髪が、ふわりと揺れる。

 

「けじめをつけないか。ふたりで」

「けじめじゃと……」


 イザベルはやっと十六夜の言葉に反応を見せた。興奮状態になってからは初めての。

 

「ああ、決闘裁判を行なってな」

「……なるほどな。貴様、野良になっても騎士の心は捨てられんだったか」

「決闘裁判……」 

 

 その場の誰もが思った言葉を、ジークフリートが低く掠れた声でつぶやいた。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る