烏色の侵入者

 静かな時が、海底に鈍い光を孕んだほこりのように降り積もる。ブリュンヒルデが瞳の水面を震わせたそのときだった。

 何か大きな音がした。泡が割れるような、はっきりとした音。

 

「何やつ!」

 

 イザベルは目を見開き、音のした方角に目を向ける。

 ジークフリートたちも、あまりにも大きな音に驚き、首を背後へと巡らせた。

 ばたん、ばたん、と何かが破裂する音が、連続して響く。その響きは徐々に大きさを増していき、こちらへと近づいてくる。

 ブリュンヒルデが気配の変化に気づき、はっと目を向ければ、イザベルは白い歯を食いしばり、両腕を胸の前で交差させ、己の上半身を抱きしめていた。歯が、かたかたと鳴っている。彼女は恐怖を感じているのだ。

 フレデリックが眼鏡を中指の第一関節を曲げて直し、体制を整えようとする最中であった。

 

 パリッ。

 

 鈍く重い扉に、斜めに雷光が走った。

 何か、と皆が思った刹那、扉は左右へばらり、と剥がれるように落ちる。

 淡い逆光を背に受け、現れたのは、一匹の人魚であった。

 鱗は真紅で金魚の尾鰭をし、髪は射干玉の黒。ゆうらりと扇のように広がったそれに守られるように、金の髪をしたひとりの少年が、その白い肩から驚いた顔を覗かせるのが見えた。

 

「ふぅ。てこずらせおって。城の場所を数年前と変えたか? こぉんなでかいものにするとはな。あぁ、久しぶりだな、イザベル」

 

 右手にした日本刀をかすかに振り、銀の礫の光をちらつかせて、刃を見つめた後、前方に視線を映す。

 イザベルは瞳を眇め、逆光を睨む。恐れと怒りのないまぜになった視線で、相手を射殺すように。

 

「ロゼ・十六夜・ダルク……!」

 

 イザベルの歯軋りの音が、海底にこだまするかのようだった。

 十六夜はそんなイザベルに対峙し、まるで興味のなさそうな表情で、彼女よりもさらに

 あかいくちびるをうっすらと突き出している。筆で描いたような黒の眉を寄せ、いささか不機嫌そうだ。 

 

「つまらぬものを斬ってしまった」

 

 吐き捨てるように言うと、すっと刀の柄を

 握っていた片腕を下ろす。切先を静かに見つめると、ジークフリートたちを確認する。はっと乾いた笑いをこぼす。

 

「そなたら、無様にも捕らえられたか」

「え!? 司令官!? ブリュンヒルデさん!?」

 

 十六夜の白い肩から浮き上がるように、少年の顔が出る。先ほどよりもくっきりとあらわになったそのおもてに、ブリュンヒルデは腰を伸ばして歓喜を浮かべた。

 

「ブレン!」

「わぁっ。ブリュンヒルデさん、ご無事だったんですね!」

 

 ブレンも笑顔の花を咲かせる。明るい雰囲気になる幼いふたりに対し、イザベルと十六夜の間に流れるものは冷えていた。

 

「ロゼ。貴様、どのような顔でここに姿をみせた。2度と海の中で再会することはないと、喜んでいたのにのう」

「はっ、どの口が言うか」

 十六夜はフレデリックを一瞥し、ふたたびイザベルに戻す。

「イザベル。そなた落ちぶれたのう。あのようなゴミデブメガネの人間の男と、あろうことか手を組んで、人間に攻撃を挑むとは。覚悟はできておろうな?」

「ゴミデっ……」

 フレデリックは顔を赤くして十六夜を睨む。

 だが、十六夜は彼に一切の興味を持っていないそぶりを見せる。そして、己よりも低い位置にいたブリュンヒルデをしばし見つめる。

 ブリュンヒルデは、十六夜に見つめられるとどこか落ち着かないような心地になった。十六夜はブリュンヒルデが海の中で目にしたどんな人魚よりも、色香があり、妖しげなうつくしさを持っていたからだ。

 

「イザベル、私がいた頃も、まぁそれはそれはムカつくやつであったが、今はさらにムカつくババアになってしまったなぁ」

「黙れ! 野良落ちした人魚が口答えするでないわっ!!」

 

 薄い腹の底のいったいどこに潜んでいたのかというほどの大声で、イザベルは叫んだ。十六夜を威嚇するようにも、彼女にどこか怯えているようにも聞こえた。

 十六夜は短くため息をつく。瞬きし、じっと瞳を伏せると、くちびるを薄く開き、眉を顰めた。


「ーーローレライの人魚たちを操ったのも、そなたたちの仕業だな」

「えっ……?」

 ブリュンヒルデが驚いて目を瞠る。

 イザベルは決まり悪そうにたじろぎ、半歩後ろに下がった。


「海を泳いでいて、この城から人魚が発生する自然と溶け合うようなものではない周波数を感じた。ーーひどく肌触りが悪く、気持ち悪く、不愉快ななーーあれは人間が鉄を用いて生み出したものだ。あの周波数は、人魚の精神を狂わせる。それをそこにいるゴミデブメガネに作らせて、ローレライの人魚を操ったのであろう? な、ゴミデブメガネ?」

 

 不敵な笑みを浮かべて、十六夜がフレデリクを見やる。

 フレデリックは十六夜の方を見ず、顔に黒い影を刻んで固まった。

 ブリュンヒルデはしばらく呆然としていたが、徐々にその白い肌を、さらに白く青褪めさせていく。


「そんなっ……。どうして……?」

 

 ジークフリートは十六夜の話を聞き終わると、勢いよく立ち上がろうとした。だが、縛られている縄が、彼の動きを静止する。ぴんと張った縄が、さらに強く彼の手首を縛り上げ、鈍い痛みをもたらすばかりであった。

 縄と同じような力強さで、歯を食いしばり、

 やがて何かを諦めたかのような乾いた笑いをこぼした。

 

「なるほどな……。そういうことだったのか……」

 

 フレデリックはかすみのように動き出す。気のせいか、先ほどよりもさらに肌の色が白くなっている。彼のメガネのレンズに光が落ちて、曇りガラスのように、その小さな眸を隠した。その光は、鈍いにも関わらず、見たものの目を刺すような鋭さを孕んでいた。灰色の雨雲の中に隠された雷光の埋み火。

 わずかに俯くと、右手の中指の先で丸眼鏡のブリッジをくい、と持ち上げた。


「仕方なかったんだよ。わかるだろ? だって私たちのアーガナイトは、君たちの軍に負けてしまった。だが、復讐したい気持ちは、埋み火のように体から消えてはくれない。一度戦争に身を置いてしまうと、敵を殲滅することに自分の生きる意味を、よろこびを見出してしまう。なぁ、アドルフ司令官どの。君なら、わかってくれるはずだ。そこで負けた側の私は考えた。どうしたら君たちに苦しんで死んでもらえるかってね。異形の者と手を組み、そいつらに殺してもらうんだ。屈辱的で恐怖しかない死に方だろ?」

 

 ジークフリートは何も言わなかった。

 フレデリックは淡々と続ける。少し楽しそうだった。

 

「ほら! 僕は機械を扱うのが上手いんだよ

 。アーガナイトの軍機は、全て僕が考えたんだ」

 

 ちょいちょい、と右手の人差し指を曲げてフレデリックは己の広い額を小突く。

 破られた扉から漏れる光が、その輪郭を白く縁取る。そのせいで脂が纏われているのが泡越しに見える。

 フレデリックは腰に手を当ててつかつかと歩くと、水蒸気が出ている暖炉のような作りの箇所の横にそっと腰をかがめた。ふたたび立ち上がった時には、その両手には銀製のラッパのようなものが抱えられていた。兵士が朝の合図に片手で持って吹くタイプとは違う、大きなサイズである。

 

「これこれ。これだよ」

 

 フレデリックは嬉しそうな笑顔を浮かべた。それは彼があらわにした中でも、特別に輝いた笑顔だった。不気味なほどに。

 右手の中指を折り曲げ、第二関節でコツコツとラッパのゆるやかな曲線部分を叩く。微量な力だった。彼が撫でた部分から、脂がうつってゆくようだった。きらびやかな線を描く、銀の光沢を持って。

 

「人魚たちは、人間よりも聴覚に優れ、敏感だ。だからそこを壊してやる道具を作った。なぁに。軍人1人の心を壊す拷問だって、何度もやってきたんだから、簡単なことさ」

 

 フレデリックは瞼を伏せて、ラッパに頬を近づける、我が子に擦り寄るような仕草だった。愛おしい、という気持ちが溢れて見える。

 

 かくり、と十六夜の肩から剥がれ落ちるようにブレンが地へ足をつく。その小顔の周囲には、ジークフリートたちと同じく泡の守護が纏われていた。その色はジークフリートの泡と違い、桜の花弁のような薄紅色だった。十六夜から授けられたのだろう。ブレンはそのうすい泡と等しく、ぼんやりとした表情でフレデリックを見やる。そして、誰に言い聞かせるでもなく、まるで自分に言い聞かせるかのように。


「終わらないんだ……。終わらないんだよ。僕たちの戦争が終わっても。ずっとずっと、連鎖は続いていく。誰かを殺したら、誰かが殺されてーー。ああ、なんて世界に生まれてしまったんだろう」

 

 ジークフリートはブレンを見上げた。彼の横顔は白く、何かを諦めたかのような色合いをしていた。そこに漂うものは、戦争でPT SDを発症して、いつも怯え、震えながら夜を過ごしていた仲間の兵士と似たものだった。若いブレンにその気配が漂ったことに、ジークフリートは静かな絶望を感じ、奥歯に痛みを覚えるほどに噛み締めた。

 ブレンはひとしきり茫としたまなざしで前方を見つめていたが、やがて俯き、小刻みに震えると両手で目元を覆った。

 フレデリックはそれをさも気にも止めていないように、軽く片手でラッパの軍機を持ち上げると、ぺちぺちと片手に羽を下ろすように叩く。

 気だるい空気を破ったのは、十六夜のさらに後方から現れた男だった。

 

「ーーさっきから聞いてりゃあ、まぁーーグボっ」

 十六夜は腰に手の甲を当て、眉を寄せるとさも鬱陶しそうに背後を見やる。

 

「すまん。泡の守護をかけるのが、そなたはブレンよりもいささか遅かったからな。わずかに海水を飲み込んでしまったかもしれん」

「はっ、わずかじゃねえだろうよ……」

 

 男ーーアルベリヒは右腕でくちもとを拭おうとしたが、自分の顔の周りにブレンとひとしい、薄紅色の泡の守護があったことを思い出し、舌打ちをして顔をゆるく振る。

 

「ったく。ずっとロゼちゃんのおっぽにしがみついて泳がされてきたんだよ。誰の為にかって? お前らの為だよ! はぁ、でも女の尻を掴みながらずっと泳いでたってことだよな。つまり、サーフィンデート? 良い人生経験になったぜ。しかもこんな美人とな!」

 

 アルベリヒはくねる前髪を払うように、ぱっと顔を上げた。あかるい笑顔だ。いつも鬱陶しいその自信に満ち溢れた笑顔が、今はこの仄暗い海底の中に差し込む天からの陽光のようだった。

 

「アルベリヒ……」

 

 ジークフリートは旧友の顔を目にして、自分でも無意識に口角を上げていた。アルベリヒの顔を見て、自分が今までとても不安だったのだということがわかった。

 アルベリヒはジークフリートを見下ろすと、

にかりと気持ちの良い笑顔を浮かべる。

 

「行こうぜ。アオイたちを連れて、地上へ還るぞ!」

「ということだ、イザベル。私の陸の友人たちを返してもらおうか」

 

 黙って手を組んで話を聞いていた十六夜が、からみをほどき、スッと片腕を上げてイザベルに物を乞うような仕草をする。

 イザベルはただ、十六夜を罵る言葉を吐き、身をすくめて瞳の中央にぎらつく威嚇のともしびを増しただけであった。


「イザベル。そなたのことは大嫌いであったが、唯一好んでいたところがある。それは私の和名と、そなたの名前が似ているというところだ。皆から揶揄されると、嫌がっていたが、本当は、そなたの名前だけは好きだった」

「今更好感度をあげようという無駄なあがきか!! 聞きたくもないわ!! 人間にくちびるを授けた、薄汚い野良が! 高貴な妾に話しかけるでないっ!!」

 

 いかずちが落ちるような女の怒声だった。

 十六夜はうすく瞳を眇めて彼女を見つめていたが、やがてその鮮やかな紅いくちびるから、諦念の吐息をこぼした。肩をすくめ、まるく白い瞼を閉じ、うっすらと笑む。それは、話しても無駄だという相手に対する仕草だった。


「ジーク」


 突然名前を呼ばれ、ジークフリートはかすかに驚いて顔を上げ、十六夜を見やる。

 十六夜はペーパーナイフで切った程にうすく瞼を開けて彼を見下ろした。その瞳には、真珠のような小粒の光が滲んでいる。強い光だと思ったそれは、瞬時にゆらいで消えた。

 

「こいつらと話しても、無駄だ。頭が硬いまま、200年も、閉鎖された群れの中で生きているのだからな。新しい情報を取り入れなかったおかげで、こんなくだらない人間に騙されてしまった」

 

 視線は向けず、回した腕の親指の先でフレデリックを指す。はーっと息を吐き、腰に差し戻していた刀の柄に片手を置いた。 

 イザベルは俯き、紅い髪を逆立てた。彼女の周囲に細かな泡が下から上へと上がっていく。それは徐々に勢いを増して。

 イザベルの怒りによって、周囲の海水が、沸騰しているのだ。


「ーーこの城におる全人魚に告ぐ……! 裏切り者、ロゼ・十六夜・ダルクが敵の人間を引き連れて帰ってきた!! 全員、今すぐ私の部屋へ集い、ロゼたちを屠れ!!」


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