決闘裁判

 イザベルが態勢を整えた。背骨の浮くほどに肉の薄い、白い背中のすじを伸ばして。戦闘態勢に入ったのだ。

 十六夜もわずかに崩していた体の姿勢を伸ばした。すべての関節の至るところの、少しのすきまにも空気を入れて血液の巡りをよくするかのように。

ふたりとも、戦場の軍人と同じ心構えであった。ーー彼女らが纏っているのは軍服ではなく、凛とした着物と、海がもたらした女性の体を守る衣であったが。

 ジークフリートも目を瞠ったまま、うすく口を開けて背筋を伸ばして立っていた。

ブレンも、アルベリヒさえも。

彼らは軍人だった。これから何が起こるのか、本能的に悟ってしまったのだ。

 神聖な決闘が今始まろうとしている。 

 海底に来てから、どれほどの時間が流れていたのか、すでにわからなくなっていた。夜が幾重も巡り、今ここは生まれ変わった朝の白い雲が下ろした霜の光が、舞い降りてきているような気がした。

 地上の透明で暖かなひかりが、いよいよ恋しくなっていた。

 十六夜は漂い流れる星屑のような、人魚たちが勢いよく泳いできたことで生まれ出た泡が、目の前でほこりのようにきらきらと舞っているのを確認すると、一つ瞬きをして、真っ直ぐにイザベルを見つめた。戦士としての敬意を相手に送る態度だった。

 そしてすぅっと息を吸い込むと独特の低さを保つ、うつくしい大声を上げた。


「城に集いし皆のもの、よく聞けい!! 今からコロニーの女王、イザベル・マルテンシュタインに、決闘裁判を挑む! この者は、人間と手を組み、ローレライのコロニーの人魚をほぼ壊滅へと導いた。その罪は重い!」


 周囲をぐるりと見渡すように首を巡らせて吠える。

 それを見守っていたジークフリートには、幼い頃に村にやってきた、都会の楽団の座長が、さぁ今から舞台が始まるぞ、と観客に呼びかけていた姿をなぜだか思い出した。その記憶は、この場面に遭遇するまで、一度たりとも思い起こされたことのない、古い記憶のかけらだった。

 ぱっと瞬きをすれば、古く懐かしい記憶は奥へと渦潮が小舟を飲み込むように消え去り、代わりに筆で描いたような黒い眉を寄せて声を発する勇ましい十六夜の勁つよい姿が目の前にあざやかになる。彼女の紅い尾鰭が、より一層煌びやかな金色の光沢をまとっているように見えた。それは、まばたきする前と後ではかなり違った。色合いが、よりクリアになっている。彼女の放つ生命力が増しているからなのだろうか。

これから最後の戦いをしようというのだ。


  先ほどまでこちらを襲おうとしていた周囲の人魚たちは、一斉にしんと静まった。

 さざめく小さな鈴のブーケを、片手で止めたかのような静寂が訪れる。

 その沈黙の紙を、うすいナイフの切先で切り裂く波が、1人の女によって起こされた。

 十六夜が、素早くイザベルの方へと泳ぎながら、腰の刀に手をやり、鞘から刀を引き抜いた。白銀しろがねの刃は、海の薄青を受けて染まる。宵闇色の瞳はさらに黒に溶けたが、その中央は月が天の真上にあるように冴えていた。

 イザベルも半歩遅れて上体をわずかに背後へ落とし、口を限界まで開けると、天へ向かって一声鳴いた。興奮状態の虎のような鋭い咆哮だった。奥にしまわれていた黄金色の牙を剥き出しにする。獰猛な獣の本性が、決闘のもとであらわにされた。

 十六夜が右手で持った刀の柄に左手を覆い被せるように添わせ、下から上へ、海を割くように刃を回していったのと同時に、イザベルは十六夜の斜め上空から舞い降りる鷹のように、両手の爪を尖らせ、彼女へ襲いかかっていった。その刹那、彼女の鋭利な爪はまだらな薔薇色に光を帯びる。瞳の瞳孔は開き、真珠色だったまなこには血の小雨がいく筋も浮き、走った。

 彩豊かなふたりの影が重なり、黒く消えた刹那。両手で別々の方向へ扇をぱんと合わせたように、黒と紅の豊かな髪が、電気が走ったように蒼の中を波打つ。

 ふたたび現れたのは、白い肌に鱗を持つ女の鮮やかな姿がふたつ、離れていった。

 蒼だけの色をした空間に、一拍遅れてむわりと血の色が水彩をこぼしたように広がった。それはイザベルの周囲に発生したものだった。どちらかが切られた。または、斬られたか。致命傷を負ったか。

 ジークフリートたちは、誰も何も言えず、ただふたりの人魚の女の決闘を、目と口をかすかに震わせながら見つめていた。

 血の赤が春の霧のように海へ溶けて消えていく。

 そして、硬直していたイザベルが、かはっと天を一瞬仰いで大きく開けていた口から血を吐いたのと、きん、と氷を銀の匙で叩いたような、冴えた音を立て、十六夜が刃を鞘に戻した。そのふたつが目の前に同時に起きて、彼らは時が動き出したのを肌で感じ取った。十六夜が刃を戻す刹那、鈍い月の暈のような光が、横に輪を作って静かに消えていった。

 ブリュンヒルデはその光を、なぜだかその時一生覚えているだろうと、呼吸を止め、オパール色の目を瞠りながら静かに感じた。


 イザベルは女座りをするように、天を仰いで白目を剥いたまま膝をかたりと落としてから、数秒を経て床へ頽れた。彼女の腹から、生まれたばかりの赤黒い血が流水紋のごとく流れ続ける。紅色のゆたかな髪が、傷を負った体のあるじを守る毛布のように、彼女の骨の張った白い背を覆う。そこにもやのように薄らいだ血が重なる。

 

 十六夜が勝った。

 

 その場にいた誰もが、そう思った。

 

 床に這いつくばったイザベルは、指のふしぶしが細い両手をつき、さざなみのように震えながら上体を起こしたが、やがてつるりと滑って顎を床へ打ちつけた。

 十六夜はそのさまを、水色の影を宿した表情でただ見下ろしていたが、やがてゆったりと彼女の方へと近寄ると再び、刀を構える。戦闘態勢だった。


「まだ生きている」


 低くつめたい声音で、そう呟く。

 十六夜の瞳は月影のような金色の粒が宿り、それは獲物を捕らえた黒狼そのものだった。

 なんの感情も感じられない。ただ目の前の人魚を屠る。

 イザベルはとうに覚悟を決めていたのだろう。彼女にも、フレデリックと手を組んでから雫ひとつ分残っていた人魚の誇りがあった。

 吐血で赤く汚れた顔を上げ、荒い息をつきながら十六夜を見上げる。白い肩がむき出しになった片腕を梃子に、枯れた花のようにしなだれた体を支えて。それでも彼女の体はこまやかに震えていたが。

 十六夜とイザベルの視線がかちあう。夜と昼の色をした、互いの瞳。互いにないものを持つ虹彩の花弁を。


「……殺せ」


 イザベルは血の唾をまじえて、低く吐き捨てた。

 十六夜はそれを聞くと、瞳の瞳孔を開いたまま、ぶん、と刀を振り上げ、音もなく静かに、イザベルの白く柔らかな肩と落としていった。その刹那、十六夜の脳裏に、はるか昔にイザベルと仲が良かった頃の記憶が、桜の花弁が散っていくようにひらひらと思い起こされ、静かに消えていった。

 

 その時、彼女らの間に、純白の羽が舞い降りたーーいや、羽だと思ったものは、1人の人魚だった。

 ばつり。

 女の皮膚が切断される音。そして、魚の硬い鱗が切断される音が続く。

 ふたりとも、目の前の状況に脳が追いつかず、瞠目する。

 それは周囲にいた人間と人魚たちも同様であった。

 ジークフリートの隣で静かに決闘のゆくえを見守っていたカスターニエが、イザベルが刀で斬られる刹那、駆け寄るように泳いで行き、彼女らの間合いにその身を潜らせたのだ。

 

「ーーカスターニエ!!」

 

 十六夜とイザベルの間に、生まれたばかりの血の波がもやのように広がっていく。

 イザベルはその血で顔を静かに染めていきながら、瞳を震わせる。腰を折り、ゆるやかにこちらへ倒れてくる臣下を、無意識に両腕で抱き留めた。カスターニエの背中は背骨が浮き立ち、ひどく痩せて細かった。 十六夜は刀の勢いを制御できず、間に入ったカスターニエを斬ってしまった。それほどに、カスターニエの泳ぎは素早かったのだ。

 状況を理解した十六夜は、紅いくちびると黒曜石の瞳を震わせる。刀の白い刃から、もやが溶けるように、イザベルとカスターニエの血が混じり合ったものが、溶けて流れてゆく。

 

「……そなたっ……」

「なぜじゃ!! なぜっ……、わらわを守ったか!!」

 

 イザベルは悲痛な声音で、腕に抱いたカスターニエの顔をこちらへ見えるように体の向きを上向かせる。

 もともと白かった彼女の顔は、さらに青褪めて夜の雪のようだった。

 カスターニエはイザベルをみとめると、乾いたくちびるをわずかに上げた。微笑もうとしているのだと気づいた時、イザベルの見開いた瞳から、大粒の涙が溢れ出した。 


 カスターニエの白い鎖骨と淡く盛り上がった胸の上を、斜めに切られた刀傷から漏れ出る血が、あざやかなもやとなって覆い、舐める。

 カスターニエは感覚の乏しくなった指先で、その傷の横を拭うように触ると、僅かに付着した血液を顔の前にかざし、己の傷を遠い目で確認した。どこか人ごとのようだった。


「そなた……なぜ」


 カスターニエは己の斜め上から聞こえてくる十六夜の声音に反応し、瞳を上げる。ゆるいその動きだけで、彼女の栗色の前髪が紗を払ったかのように額から落ちた。


「カスターニエ!」

 

 ジークフリートも身を乗り出して、彼女の名を呼ぶ。短い間だったとはいえ、彼女は味方で、自分たちをここまで導いてくれた。

 カスターニエはくちびるを漣のように震わせると、掠れた声を出した。その声は吐息のように、透明で儚かった。

 

「十六夜さま……。どうかお気になさらず。こんな方でも、わたくしの主人なのです。どれだけその真白ましろだった手を汚そうとも、遠い昔に、はぐれ人魚だった私をこのコロニーに受け入れてくれた事実は変わらない。恩人であることは、永遠に変わらないのです」

「カスターニエ、お前は……っ、お前は……っ」

「イザベルさま。いつかこうなるだろうと思っておりました。私の命は、救われたあの日からあなたのもの。あなたの命が危ういときは、ただ一度ばかりのこの命を捧げようと心に決めておりました。どうか、どうか心変わりされますことを、お祈り申し上げます」

 

 カスターニエは見慣れた主人の顔を見上げる。

 先ほどまで鬼のような形相で戦っていたとは信じられぬほど、その相貌は崩れ、涙で濡れた子供のような潤んだ瞳と下がったまなじりが視界にあらわになる。

 カスターニエはそれを見やると、なぜだか安心し、柔らかな花のような笑みを浮かべた

 そして、震えるイザベルの片手をそっと取る。力の抜けた手で力の抜けた手を取るのは、案外簡単だった。羽のように軽いもの同士が、触れ合っただけの。

 イザベルの尖ったまだらな薔薇色の爪の先に宿る、鈍い光を瞳に映すと、そっとその人差し指をつまみ、己の白く細い首へと突き刺した。

 イザベルが抵抗する時間もないまま、カスターニエは喉奥に深く刺さった主人の指先を真横にぐっと撫でるように動かす。

 皆が「あっ」と思う間もなく、カスターニエの首すじから、さらなるあざやかな血が溢れる。


「ーー何故なにゆえ……っ!」


 人魚は死ぬと、泡になって消える。

 ジークフリートは見開いたまなこの奥で、幼い頃に読んだ絵本の話をうっすらと思い出した。

 カスターニエの体から、金色と水色が入り混じった細やかな泡が湧き上がり、彼女を抱くイザベルごと包み込む。イザベルの赤毛と、カスターニエの栗毛が舞い上がる。その髪の筋を、泡が覆って撫でてゆく。イザベルは瞳を見開いたまま、カスターニエを両腕に抱えて見つめるばかりだった。ひときわ強い光を放つ中で、動かなくなったカスターニエの腕が、一瞬だけ動き、イザベルの頬を撫でたように見えた。 

 カスターニエの体の泡は徐々に静まっていき、最後に海面へ登るように、一粒一粒割れて消えていった。最後の一つが消えた時、薄紅色に光り、はらはらと花弁のように残り香のようなものが落ちて行くのを、イザベルは目を瞠りながら、十六夜はくちびるを引き結びながら、黙って見つめていた。 カスターニエの体の泡は徐々に静まっていき、最後に海面へ登るように、一粒一粒割れて消えていった。最後の一つが消えた時、薄紅色に光り、はらはらと花弁のように残り香のようなものが落ちて行くのを、イザベルは目を瞠りながら、十六夜はくちびるを引き結びながら、黙って見つめていた。

 ゆっくりと十六夜が首を落とす。

 イザベルが呼応するように彼女に視線を合わせた。

 十六夜はそれを見て、先ほど自分へと向けられた、激しい闘志や殺意が、イザベルの中からすっかり消え去っているのを確認した。


「イザベル。そなたは私に負けた。よいな」

 

 十六夜は淡々と告げた。静かで低い声だった。


「……」

 

 十六夜は真顔でひとつ頷くと、ふたたび顔を上げて周囲をくるりと見やり、すっとくちびるを縦に開けて息を吸い込んだ。

 

「皆のもの、よく聞けい!! 今日こんにちの決闘裁判、イザベル・マルティンシュタインは、ロゼ・十六夜・ダルクに負けた!!」

 

 皆、息を沈めた。

 十六夜の声音はそれほどに、聞くものの鼓動に響き、震わせたからだ。

 眉を寄せ、周囲の空気が凛とするのを待つと、十六夜はふたたびイザベルを斜め上から見下ろした。その瞳孔に、光は宿っていなかった。彼女が耳にかけていた黒髪の房が、首を斜めにしたことではらりと落ちる。白い面には薄氷を張ったような灰色の影がうつっていた。


「イザベル」

「……」

「顔をあげい」


 イザベルは感情の消えた顔で、ふたたび十六夜を見やる。

 十六夜はすっと腰を屈めてイザベルに顔を寄せた。くちづけができるのではないかと思うほどに近い距離だった。皆が息を呑んで彼女の動向を見守る中、イザベルを見つめたまま、十六夜は腰に手をやると、先ほど納めた刀を鞘から片手だけで音も立てずにするりと抜き出した。

 

「あっ……!」

 

 そばで見ていたブレンが思わず声をあげそうになる。

 十六夜はそのまま刀を滑らせるように、切先を抜き出した。わずかに泡が立つ。

 イザベルは何も言わずに十六夜を見つめ返しているだけであった。

 彼女らの視線が、かちあう。


「イザベル。そなた。このままだとカスターニエのように海の泡となって消えるだけだぞ。それでいいのか」

「……」

 

 十六夜は、イザベルにだけ聞こえる低い呟きを放った。どこか凄みのある声だった。瞳が金色に鈍く光っていた。

 イザベルは答えない。目の前で臣下を亡くしたことが、活力のかたまりのような彼女にとっても大きなショックだったらしい。

 十六夜は瞳を眇める。そして、手にしていた刀を器用にイザベルへと近づけると、その切先を、彼女の白く尖った顎の下につけた。

 わずかに力を入れ、指先で持ち上げるように、彼女の顎を上げる。


「人間となり、地上で生きて罪を償え」


 言われたことの意味を捉えると、イザベルは瞳を瞠る。

 

「貴様、何をっ……」

「このまま海底で人魚として暮らしても、決闘裁判で負けたものとして扱われるのみぞ。裁判で負けた人魚に対して、海の者は冷たい。

 惨めに生を送るのは、そなたの性分ではないはずだ。それよりは地上で人間として生き、その生命力を日の光のもとで生かした方が良い。……そなたを庇った敬虔なる臣下のことを、永遠に思い続けてな」

「ロゼ……貴様は……」


 十六夜はふっと笑う。この世のことわりに対して、嘲笑しているような笑みだった。


「ただ、人間の脚と引き換えに、そなた自慢の煌びやかな鱗。そして、美しい声は失われるがな。それでもよければ」

 

 十六夜の刀の切先に、いつの間にか真珠がひとつぶ乗っていた。淡い薄紅の色。桜の花弁を思わせる儚げな。

 イザベルはそれを、眸だけを動かして見下ろす。くちびるはいつの間にかうすく開いていた。


「この真珠を飲め」

「……」

 

 永遠にも思われるような時間が、ふたりの間にだけ流れる。

 周囲の者は何が起こっているのか理解しているものと、いないもので分かれていた。理解した人魚は、静かにイザベルの決断を見守り、いないものは、十六夜が刀を真横に引き抜いて、イザベルの首を落としてしまうのではないか、と考えていた。

 

「さぁ、どうする」

「……」


 沈黙を破ったのは、背後に夏影のように潜んでいたフレデリックだった。

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