人間と人魚の歴史
「かつて、人間と人魚は共に暮らしていた」
フレデリックは部屋にあった深紅のベルベットのソファが付いている丸椅子をジークフリートたちの目の前に持ってくると、そこに腰をかけて話し始めた。上体を落とし、両の二の腕を肩幅まで開いた両足の膝にそっと置いて。指先を体の中央で組んで。
その淡々とした口調と態度は、歴史教師のようであった。
「共に暮らしていた、という言い方は語弊があるかもしれないな。白い砂浜。海と陸が交わるところで、人間と人魚は同じ時を過ごすことが多かった。人魚は人間に海の幸と美しい歌声を届け、代わりに人間は人魚に陸の幸と逞しい筋肉を施した」
フレデリックはどこつく顔でほくそ笑む。
「穏やかで愛おしい時間だった。どちらにとってもだ。だが、その細い細い均衡は、いつの間にかマグマに向かって垂れ落ちた、天女がぶら下げた蜘蛛の糸のごとく、ぷつり、と途切れた」
フレデリックの眸に、夜に向かっていくような空の色が微かに灯る。
「ある日、人間と人魚の間に諍いが起きた。それは些細な諍いであったが、その小さな粒はやがて大きな波紋となって広がる。人間は人魚を「友」としてではなく、「肉」として求めるようになったのだ。人魚の白く柔らかく甘い肌を食らえば、不老不死になれるという
フレデリックは笑った。嫌な含み笑いだった。
ーーそんなこと、確証を得たものがいれば、不死として名をなすというのにね。
まぁ、それで港の人魚たちは次々と銛で刺されて襲われたのだ。白く美しい浜辺は、一瞬で鮮やかな血の色へと染まる。人魚の透き通る歌声は、絶命の音頭へと変化して。
みんな、屋根の下へ巣を作る
翌日のことになる。薄汚れた老婆が海を徘徊していた。何か金目になるものが落ちていないかって油の抜けた白髪を、潮風になびかせながら。腰をかがめて。瞳を眇めて。砂浜に何か光る物が見えたと気づいてーーまあ、それはただのシーグラスだったわけだがーー老婆が枯れていた瞳を輝かせたその時だった。
すみやかな青のヴェールを重ねたような穢れなき海が、じわりと下の層に赤黒いインクをこぼされたように、色が変化していった。
老婆はかがめていた腰をあげ、まばたきもできずにその様子を眺めていた。
ついで浮かんできたのは、人間の断片がまばらに散らばった肉片だった。ぷかり、ぷかりと静かな波が浜へ打つごとに、それらは老婆へ押し寄せる。
老婆は『ヒッ』という掠れ声と共に、両腕を地へつき、腰を抜かせた。老婆の白髪が、ぱらりと開く。
まぁ、今までの話聞いててなんとなく察しただろう? この肉片は、先程の男さ。人魚に襲われ、人魚の牙で食われて殺されたんだよ。
戦いは戦いを生み出し、復讐は復讐を生む。そんなの、軍人のあんたたちにはわかりきったことだろう?」
ジークフリートは少し首を俯けてフレデリックの話を聞いていた。前髪が溢れて、表情は見えずらくなっていたが、横目に彼を見やったブリュンヒルデの眸には、彼の頬から目の下にかけて灰色のうすい影が出来ているのを感じた。その影が孕むものは「虚しさ」だった。
フレデリックがひといきつくと、腕を組んでそばでじっとしていたイザベルが緩く動いた。そして微かにジークフリートたちに近寄る。
「人間が人魚の肉を求めるようになるのと、少しばかり遅れてから、人魚も人間の血肉を求めるようになった。海や陸、どこで獲れる幸よりも、一番うまいのは人間の血肉だということに、我らも気がついたのだ。そこからはもう、互いが互いの肉を求める、獣同士の関係よ」
ジークフリートが隣ではっと瞳を見開いたのが、ブリュンヒルデには感じられた。彼は、こちらに視線を移そうとしている。だが、こちらを見やるのは、何か彼の中で御し難い物があるらしく、神経を目の前のふたりに注いでいた。
「昔の人間は、人魚側にとっては都合が良かった。人生に絶望した者たちが、海の底に第二の世界があると信じて入水してくれていたからな」
イザベルはわずかに口角を上げる。形の良いくちびるの艶やかさが増した。ああ、人間を食ったことがあるのか、とジークフリートは虚な瞳で彼女の覗いた白い歯を見ていた。
「だが、今の人間は、そこまで海に己の身を投げることはのうなった。人間も軍事力を持ち、女の方が多い人魚が戦って勝てる相手ではのうなってしもうた。なので、わらわは」
イザベルは組んでいた腕をとき、片腕を緩やかな曲線を描く腰に、もう片腕をまっすぐにあげて隣のフレデリックにぴっと突き刺した。彼女の爪は鋭利に伸びていて、それで引っ掻かれるととても痛そうだ。その爪が宿す色は、くちびると同じ血のような深紅だった。
薄暗く蒼い海の中で、その色はひどく目立った。熾火の中で燃える炎の中心のように。
「ここにいる、海軍司令官フレデリックどのと手を組んだ」
「……覚えているぞ……。アーガナイトの司令官……。フレデリック・ツィマーマン。俺たちの宿敵の国……」
ブリュンヒルデがジークフリートの方を見やると、彼は漣のように全身を震わせていた。
ブリュンヒルデは驚き、目を瞠る。
先程まで薄灰色の影を落とすばかりであったジークフリートの眉間には、宵闇のごとく黒い影が刻まれていた。上げた瞳は、深い青をたたえながらも、きつい光線が隠しようもなく水面に浮かび上がっている。それは怒りだった。どうしようもなく、生命から湧き上がる。
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