フレデリック
満足したのか、イザベルの尾鰭がジークフリートから木の葉のように剥がれていくと、ブリュンヒルデは俯いたまま、肩を小刻みに震わせた。小さな身のうちに、真っ白い怒りが、渦を巻くように吹雪いているのだ。
「イザベル。あなた、なんでこんなひどいことするの……?」
「はっ、ひどいじゃと? どの口が言うか。人間共に、最もひどいことをされたのは、お主ら人魚ではないか」
ブリュンヒルデはくちびるを引き締めて、何も言葉を紡がなくなった。隣のカスターニエが彼女を見やったが、下りた前髪が金色のとばりとなって、月にかかった薄墨の雲のように、表情を隠してしまっていた。
イザベルが、もうひとビンタくれてやるというように、彼女の肢体よりも大きな尾鰭を海中でぶんと音が唸るほどに振った時である。
かたり、と部屋の扉が開く音がした。
俯いて真珠の涙をこぼしていたブリュンヒルデは、その音に反応し、ゆっくりと首を起こす。
「いや〜すまない。イザベル。調べるのに時間がかかってしまってね。さぁ。落ち着いたから、お茶にしよう」
男の声だった。
ジークフリートはその声を聞いて、薄れかけていた景色が徐々に眸の中央に収束して戻ってくるのを感じていた。それは海の深くに潜ってから海面に顔を出し、ふたたび
「人間」
さっき散々イザベルに殴られながら呼ばれた言葉を、ジークフリートが掠れた声で呟く。
それは扉を開いて現れたものに対しての言葉だった。
イザベルの部屋はいささか薄暗い。開いた扉から漏れ出る光はここよりも青く、澄んだ水色だった。その色を背に纏って現れたのは、ジークフリートと同じ、陸の生物・人間だった。
イザベルが最も嫌う生物が、彼女に対して親しげに話しかけている。
(これは……どういうことだ)
ジークフリートは腫れて赤くなった瞼をうっすらと開けて、切れたくちびるで掠れた言葉をなんとか紡いだ。その声音には驚きと怒りが血のように滲んでいた。
ブリュンヒルデも、二の句がつげなくなっている。
丸く輝く大きな宝石のような瞳が、さらに大きく見開いている。
その揺れには、不安定さがあった。
「えっ……?」
ブリュンヒルデが咳をするように声を漏らす。そしてゆっくり片手をくちもとに当て、扉の人物を見つめている。その手は、あまりの驚きで震えていた。
カスターニエはくちびるをさらに奥へと引き結び、黙っていた。眉は顰められて、その皺には、灰色の苦悩が浮かんでいる。
その男は、丸い眼鏡をかけていた。海に漂う薄水色の光を、その分厚いレンズに反射している。そこに宿った鈍い光で、男の表情は伺えなくなっていた。
白衣を纏い、ダークグリーンのシャツに紺色のスラックスを履いたその姿は、医者のように、一見きっちりとしているように見えるが、たぷんとわずかに盛り上がった下腹から生活感が滲み出ていた。
白人にしては背が低く、小柄だった。
髪は栗の渋皮煮のような濃い茶色で、それを綺麗に七三に分けている。見えた額は白く、年齢を感じさせる皺が、真横に等間隔でくっきりと3本刻まれている。
鼻は丸く、てらりと光って大きかった。
口元はたおやかな笑みを浮かべており、肉付きの良い柔らかそうな顎をしている。ぽつんと窪んだえくぼはうっすらと影を帯びている。
一見人の良さそうな笑みに見えるが、ブリュンヒルデには、彼の笑顔がいやな含み笑いに映っていた。
その顔の周囲には、ジークフリートとひとしく、人魚の泡の守護があった。
「フレデリック」
イザベルは動揺しているジークフリートたちをかすみも気にしていない素振りで、堂々と男の方を見ていた。
その口角は、わずかに上がっていた。
彼の来訪を喜んでいるようにも見える。
フレデリックと呼ばれたその男は、両腕を腰に回し、軽く指先を組んでしとしととしたリズムでイザベルの方へ歩いて行った。
イザベルはフレデリックを歓迎するように、わずかに後退り、彼の財するための空間を作ってやる。
その態度は先ほどジークフリートに対する態度とは、全く違ったものだった。
同胞を歓迎する主のような。
ジークフリートはかすみがかった眸で、フレデリックの横顔を見ていた。穏やかな医者のようなその風貌から、彼がどういった人間なのか、理解できなかった。
フレデリックはイザベルと数分話すと、こちらに気がつき、振り返る。その動作は、落ちていたゴミに気付いた者のようだった。
「ああ、なんだ。そこにいたのか」
低いが確かな重みを持ったその声。
先ほどまで穏やかな暖かさを持っていた、その色が、剥がれ落ちていくように、冷たい氷が目の前に現れる。
ゆっくりと顔を上げたジークフリートとフレデリックの視線がかち合う。
かすみがかった瞳で、男をじっと見ている。
何か、霧が晴れて行くような心地になった。
その霧の先にあったものは、不快なものだった。
「お前……お前は……」
ジークフリートは半分伏せていた瞼を徐々に開いていく。
彼の眸に、鏡のように映る、フレデリックの丸い老いた顔。
そのポーカーフェイスから、何も感情が伺えない。
「お前は……、敵の軍にいた軍医……」
「……ああ、なるほどねぇ……」
フレデリックは瞳を眇めてジークフリートを見つめると、満足げに口角を上げて親指と人差し指の腹で顎を触る。そこには嘲笑の色が滲んでいた。
背後からふたりの様子を真顔で見ていたイザベルは、隣に並ぶと、尾鰭を上向かせ、ジークフリートの顎に下から添わせるように、グッと持ち上げた。
そしてジークフリートの方には目も向けずに、フレデリックの方を見やる。
「フレデリック。こやつと知り合いなのか」
フレデリックはしゃがんで顎を上げられたジークフリートの横顔を見つめる。
「知り合いっていうか。戦場の仲間っていうか。あれですよ。戦場で殺し合った友達っ」
「貴様ぁっ!!」
目の前に迫った憎らしいほどのフレデリックの笑みに、ジークフリートのあの頃の血に塗れて、それでも敵を屠り続けて自分と自分の仲間の命を守り続けなければならなかった、極限状態の日々を思い返す。
「まぁ、いいでしょう。もうじきこの男は死ぬんだ。あんたら人魚に食い殺されて、惨めに自分の骨が砕ける音を聞きながらね」
フレデリックはよいしょ、という声と共に腰を上げると、床に尻もつけていないというのに、自分の大きな尻を払った。
「教えてあげましょうか?」
嫌味ったらしい皮肉を語尾に込めながら、フレデリックが眼鏡の縁を上げて言う。
「は?」
ジークフリートは眉と瞼の間に縦皺を刻んでフレデリックを睨み上げた。
早くこの鬱陶しいイザベルの尾鰭から顎を離したいが、身動きできない身の上がもどかしく、体内で怒りが爆発してしまいそうだった。
「人間と、人魚の歴史を。私たち人間の戦争と一緒ですよ」
そういうと、フレデリックは教え子に諭すように、腰に緩く手を当ててつかつかとジークフリートたちの前を左右に歩き出した。
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