海底二万里とは、誰の言葉であったか

「ほ、ほんとうですか?」

 

 ブレンは瞳を瞬き、つま先を上げてさらに十六夜に顔を近づける。

 

「ああ、本当に」

 

 十六夜は腕を組んでブレンを見下ろした。自分に自信のある者の顔をしている。

 

「うわっ、やったぁ! ありがとうございます!!」

 

 ブレンはわかりやすくガッツポーズをして、腰をかがめ、あかるい笑顔を浮かべる。

 すると、背後から砂を蹴る足音が聞こえてきた。

「おい、ブレン大丈夫か!? おうい、人魚、てめえ、俺の手下に何かしたらタダじゃおかねえぞ!!」

「……なんじゃ。この小汚い人間は」

 十六夜はアルベリヒを一瞥すると、生ゴミでも目にしたかのような、絶望した顔をする。

「こ、こここここ、小汚いって、てめ……」

「ベルツさん、この人魚さん、悪い人魚じゃないみたいですよ。人間に手を下そうとは思ってないみたいでっ! 司令官と双子ちゃん達と、友達だったみたいなんですっ」


 ブレンはくるりと後ろを振り向いて必死の弁明をした。

 アルベリヒは険しい顔で十六夜を睨んでいたが、ブレンの言葉を聞き、体の力を緩めた。

 目と口を丸くして十六夜を見つめていたが、ふっとブレンを見下ろす。


「そ、そうなのか……?」

 

 目の前にいるのは、白い肌に灰色の影を宿して首を僅かに逸らし、こちらを見下ろしている美しい黒髪の人魚である。

 アルベリヒの頭には、今まで出会った人魚の姿が彼女の目の前に映され、重ねられるように見えていた。

 ローレイライの憎き人魚の群れ。

 時を過ごす毎に、愛おしさが増していったブリュンヒルデ。

 そして、目の前にいる人魚ーー確かブレンに『ロゼ』と呼ばれていた。そう、ロゼ。ロゼーー。

 彼女の首筋は真白く、薄い鎖骨に似合わず、その胸は、白い月光を灯したようにふっくらと丸い。それが、東洋の衣服の下に隠されている。不思議な魅力の美しい女だと思った。

 刀の刃のように切長だけれど大きな烏色の瞳が、こちらをじっと睨んでいる。夜の泉に浮かぶ月のように、細かな光を宿すそれに吸い寄せられそうになる。


「人間、私を見て腰を抜かしたか? 情けないのう」

 

 十六夜は腰を僅かにかがめて固まってしまったアルベリヒを見て、ふっと胸にためていた息を吐くと、呆れ顔になる。

 

「少年、名は」

「は、はいっ? ブレンですっ!」

「ブレンか、良い名前だな。今まで出会った者の中でも、上位に位置する名前だ」

  

 十六夜はブレンを見つめたまま、うっすらと口角を上げた。先ほどアルベリヒを見ていた時とは別人のような顔だ。

 

「海に連れて行くのは、そなただけだ」

「はいっ!! ありがとうございますっ! ……って、えっ……?」

「は……?」

 

 ブレンとアルベリヒはぐらりと体を前へ傾けた。急に腹の中央を拳でやわい力で殴られたようだ。だが、そこは兵士であるので、すぐに体制を立て直す。これからみんなで海へ乗り込んでいこうと意気込んでいた気持ちが、拍子抜けだ。

 

「えっ、なんで俺は居残り?」

 

 十六夜は腰に手を当ててアルベリヒを見る。 眉も寄せないポーカーフェイスなので、送られる視線と態度が、より冷たく感じる。

 

「私は気に入った人間としか関わらんようにしている。後が面倒だからな。だから先に言っておく。お前は気に食わない。だから、関わりたくない。海へも連れて行かない」

「いや〜。ロゼさんでしたっけ……。はっっきりした性格してますねえ……。面と向かってきらいって言われると、俺でも傷つくんですが……」

 

 アルベリヒの顔は、真っ青な空よりも青褪めて見えた。

 ブレンも息を呑んでくちびるを噛む。

 

(うわっ、きまず〜……)

 

 ブレンはアルベリヒの落胆した顔を見て、なんだか可哀想になってしまい、苦笑いを浮かべてひとさし指を立てると、アルベリヒにあかるい顔を向ける。十六夜に聞こえないように、つとめて小声で話す。

 

「ほ、ほら! ベルツさん、疲れてらっしゃるし、顔色悪そうだったから、きっとロゼさんも気を遣ってくれたんですよ。人魚ってそういうとこ、人間より察し鋭そうだしっ」

「そ、そうなのか?」

 

 アルベリヒは顔を上げると、白目がきらりと光る。ああ、すでに涙の幕が張ってしまっているのだ、とブレンは察した。

 アルベリヒはブレンの言うことを間に受けて、姿勢を正し、襟を片手で整えると、、自信ありげな笑みを浮かべる。十六夜に向けて手のひらを向ける笑いをする。

 

(いやな含み笑いだな〜……)

 

 ブレンは思った。まあ、アルベリヒの性格はとうに慣れているので、ブレンはなんとも思わないが、初対面の、それも女性に対してこんな態度をとれば、嫌われると言うことを彼はわかっていないのだろう。だからモテないんだよ、とブレンはそっと心の中で呟いた。

 アルベリヒは彼女の名前を脳内で反芻した。

 ロゼ・十六夜・ダルクーー。

 

「あんたさぁ。ロゼさん? イザヨイさん? だっけ、ま、どっちでもいいわな」

「は?」

 

 十六夜はさらに眉を顰める。


(うわぁ〜。不機嫌になっちゃったよ。これ以上彼女の神経を逆撫でしないでくれ〜)

 

 ブレンは両手を握りしめ、身を縮こまらせると、神に祈り始めた。

 

「あんた、ジークに和名の方で呼ばれなかったか?」

「和名? 十六夜のことか」

 

 十六夜は一瞬押し黙り、斜め上に視線を向けると、何かを考えたが、再びゆっくりとアルベリヒに戻す。

 

「まあ、そうだが」

「あったり〜〜!!」

 

 アルベリヒはあからさまに喜ぶ。

 ブレンはもう目も当てられなくなり、瞼をぎゅっと閉じて、聖書の第一ページから心の中で朗読し始める。全身の毛穴から汗が吹き出しそうだ。

 十六夜は目を丸くして固まっている。

 それに気付かず、アルベリヒは、得意げに胸を逸らして己を右手の親指でさすと、鼻を鳴らした。

 眉をあげ、声のトーンを一段あかるくする。

 

「あいっつ、日本趣味だから、そっちに反応してやがんのな……。あ、お姉さん。今のは気にしないでおくれや」

 

 手のひらをひらひらと十六夜の前でかざす。

 十六夜はただ固まってアルベリヒを見ているだけである。

 なんだ、この男は?

 

「じゃあ俺も『十六夜』って呼ばせてもらうわ。十六夜、紹介が遅れたが、俺はアルベリヒ・ベルツ。ジークフリートの上官であり、幼い頃から死線をともにしてきた無二の親友だ」

 

(もう嘘ばっかり!)

 

 ブレンは声には出せず、体を丸めて祈り続けるだけである。聖書の朗読は150ページまで進んだ。

 

「はっ、口ではいくらでも言える。真実かどうかわからんな」

 

 十六夜は舌打ちをして、冷たい視線を送る。

 

「言うねえ……」


アルベリヒは瞳を眇める。

 

「お前も、ジークに会いにいきたいというのか」

「いや、会いたいっていうか、あいつがどこに行ってどうなってんのかが気になってるだけだよ」

「なるほど、心配なんだな」

「……」

 

 アルベリヒは決まり悪そうに頭をかくと、十六夜から目を逸らした。

 

「わかった。そなたも連れて行ってやろう」

「えっ、本当かよ!! ロゼちゃん!!」

 

 アルベリヒは十六夜の前に跪いて、両手を重ねて頭を下げた。

 

「ああ、ロゼさま、神様、ありがてぇ〜……」

 

 ブレンはそれを真顔で見つめていた。

 

「ただし条件がある」

「は?」

 

 十六夜はアルベリヒを見つめると、何かを企む子供のように、眸と鼻の間に影を宿してにやりと微笑んだ。

 

 

「ねえ、ロゼちゃん!! 俺、こんな風に海を泳ぐことになるなんて、聞いてないんですけど〜!!」

「ベルツさん!! あんまり喋ると、口に海水が……」

「あ、あわっ、ごぼごぼごぼ……」

「チッ、うるさいのう。黙ってしっかりとつかまっておれ。振り落とされて、海の藻屑と消えても私は知らんぞ。そなた、海の男なのであろう。ぐだぐだと文句を言わず、波に身を任せておればよいのだ。そうすれば、波は自然と己の味方になってくれる」

「ふぁ、ふぁい……」

 

 ブレンは十六夜の白い肩につかまりながら、後ろを振り返っては可哀想だなと言う思いを感じていた。

 なんせ、アルベリヒは十六夜の美しい尾鰭につかまって、泳がされているのだから。

 彼女が尾を叩いて進路を変えるたびに、アルベリヒは飛び上がって叩きつけられる。白い飛沫が顔に当たり、瞼を伏せる僅かな間、アルベリヒが白目を剥いて涎を垂らしているのが見えた。

 十六夜はアルベリヒのことを気にせず、前を真っ直ぐに向いたまま、垂直に手を体につけ、泳ぎ続ける。彼女の着ている着物は、海水を含み、すでに重い鎧と化していた。

 ブレンは、アルベリヒに対する同情心から離れると、前を向く。十六夜の黒い後頭部が、深い青の海面から浮き上がって見える。

 強い風が吹き、彼女の長い黒髪がぶわり、と舞い上がる。ぺちんという音を立てて、ブレンの柔らかな頬を打ったので、彼は一瞬片目を瞑った。


「ロゼさん! 司令官たちの気配、感じましたか?」

「ああ」

「どこに?」

「北西へ。北西の海底に、あやつらはおる」


 十六夜はゆるく背後を振り返る。烏色の瞳が刹那にきらりと琥珀のともしびを映した。

 ブレンはそれを目にして唾を飲む。

 獲物を見つけた烏のように見えたからだ。



 




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