漆黒の人魚 

 一方浜辺に取り残されたアルベリヒとブレンは、両腕を地について体を支え、ただ海を見つめていた。

 海は、穏やかな波を白い砂浜へ送り、また帰って行くだけである。その動きを追っていると、先ほど起きた出来事が、現実味を帯びず、薄ぼんやりとしてくる。

 2人は、もはや限界だったのだ。

 戦争で仲間を失い、ローレライ岩で仲間を失い、先ほど食事を共にした愛らしい幼い双子も、失った。

 そして、自分たちが信頼を置いている上官も、海の中へーー。


「ジークと嬢ちゃんにまで何かあったら、一体俺たちどうすりゃいいんだ……」

 

 アルベリヒの涙声が、背後で聞こえたのを合図に、ブレンは無為に漂っていた思考の渦から、はっと目覚めた。

 潮が引いていくように、薄く白く曇っていた目の前の視界が、クリアになっていく。

 浜辺には、先ほど人魚の歌声に引き寄せられ、アオイの叫びによって元に戻された人たちが屯していた。両手と尻をついて茫洋としたまなざしで周囲をゆっくりと見る、腹が大きく、口の周りに髭を生やした男。

 そばにいた我が子と涙を流しながら抱きしめ合う女。

 落としてしまった杖を拾おうと震えながら立とうとする白髪の老人。

 皆、それぞれの人生を、懸命に生きている者たちだった。

 ブレンはその人たちの様子をしばらく見つめ、歯噛みした。


(憎い……。人魚が、憎い……)

 

 拳を握りしめ、しばらく怒りの感情が身の内を狂うように流れていくのに耐える。ローレライ岩での出来事は、簡単に忘れられない。先ほどの一連の事件で、薄れかけていたトラウマが、いやがおうにも呼び起こされてしまった。だが、自分には、ブリュンヒルデと旅をした記憶もしっかりとある。その中に、幸福を感じなかったかといえば、それは嘘になる。

 人魚のことが、ますますわからなかった。

 

(どうしてお前らは、僕たち人間を襲う? なんのために殺す? 餌にするためか? 憎しみへの復讐からか? 僕たちが、お前らに何をした?)

 

 いつの間にか、まなじりからは透明な涙が流れていた。オレンジのそばかすが浮いた白い頬を流れ、雫となって白い砂と交わる。


「おい……、なんだ、ありゃあ……?」

 

 背後でアルベリヒが素っ頓狂な声を上げたので、ブレンはぴくりと動き、反応を見せた。

 上体を起こし、下げていた首を前に上げる。

 反動でまなじりに溜まっていた涙が溢れていったが、気にしなかった。

 それよりも、目の前に「いた」光景に驚く。

 深紅の薔薇のような尾鰭を持った人魚が、白い砂浜に下半身をぴたりとつけて居座っていた。

 雪のように白く細いが柔らかそうな二の腕を持つ両腕で体を支え、艶かしく不快そうな顔で、浜辺のあちこちにいる人々を吟味している。その背中を流れる髪は、しっとりとした適度な水分を含み、白い光沢を放っている烏の濡羽色であった。

 その顔がこちらへ向いた。

 ブレンは、彼女の眸に射抜かれたかのように硬直した。


 「少年」


 その紅い、金魚のような尾鰭を持つ人魚は、ブレンにそう声をかけた。


「クルワズリでは見慣れぬ頭をしておる。ーーああ、あいつの仲間か」


 人魚は筆で描いたような髪と同じ烏色の眉を寄せ、さも納得したようにわずかに視線を逸らした。

 そして周囲を見渡し、納得したように鼻を鳴らす。


「イルカのような鳴き声がしたと思うてきて見れば、なるほど、そういうことか……」


 ブレンは十六夜と互いに見つめあっていたが、やがて彼女に導かれるようにふらりと立ち上がると、近づいていった。彼が歩くたびに、白い砂が、ざっ、ざっ、という音を立てる。

 十六夜はそばに来た少年は見下ろした。彼女がすっと背筋を伸ばすと、頭一つ分ほどブレンの方が背が低い。

 ブレンが十六夜を見上げる。

 髪と同じ、烏色の瞳に、どこまでも吸い寄せられそうになる。

 

「おいっ!! ブレン!!」

 

 背後から駆け寄るアルベリヒの足音と声に、頬を叩かれたように我に返った。


「あっ……」

 

 ブレンのこめかみから、汗の滴がたらりと落ちる。

 十六夜はふん、と鼻を鳴らすと、さも興味なさそうにブレンから視線を逸らす。


「お前、人魚に近づくんじゃねえよ!」

 

 がっ、とアルベリヒが強くブレンの両肩を両手で掴んだ。指先が食い込みそうになるほど、強い力だった。


「そなたらは、ジークの仲間か」

「はっ? なっ……」

「アドルフ司令官と、お知り合いなんですか?」

 

 ブレンは驚いて目を見開いた。


「アドルフ……? ああ、姓か。確かそのような名であったな」


 十六夜は白魚のような右手の指先を顎の下にそっとつけて空を仰いだ。その流麗な動作をブレンは目で追った。

 近くでよくよく見れば、十六夜は東洋的な美しさを凝縮したような人魚だった。

 白い光沢を放ち、適度な水分を含んだ、一つの絡みもない、射干玉の長い黒髪。前髪は、今までブレンが見たことのない形をしていた。

 眉のあたりで、ハサミで横から真っ直ぐに切りそろえられたかのようだ。背後に扇のように広がる長い髪も、同様だった。

 切長の瞳も黒いが、こちらは髪よりもわずかに明るい色をしている。黒の中に、琥珀が宿っているかのようだ。

 そしてーー。

 

(服を……着ている? しかもこれは、さっき商店街で司令官が買っていた服と同じ……)

 

 十六夜が上半身に纏っている衣服。それは着物だった。椿のような紅色をして、同じ刺繍糸で椿が花弁が重なるように縫われている。外に向かうにつれて、薄紅になっていくそれは、月の暈のようにぼやけていくように見えてとても美しかった。

 そして重ね襟は、彼女の髪と同じ烏の濡羽色。半襟は、月の光を凝縮したような淡い黄色に、辻ヶ花の紋様が、同様の黄色で縫われている。

 尾鰭と上半身の間に位置する、腰に纏われた帯も、半襟とひとしく、烏の濡羽色をしており、よく見ると黒の刺繍で双魚の模様が描かれていた。帯紐は月色。帯留は夜光貝を象っている。

 ブレンは着物についての知識は、クルワズリに来るまでなかったが、ジークフリートが着物を購入した後、興味を持ち、仲間と再開するまでの間、彼から話を聞いていた。

 見れば見るほど、不思議な人魚である。そして不思議な魅力がある人魚だった。西洋系の男は、東洋系の女に惹かれるという話を、先輩たちが酒を飲んでいるそばで、リンゴジュースを飲みながら聞いたことがあるが、本当にそうなのかもしれないと思わせるほどの引力がある。そしてローレライ岩で見たどの人魚とも似ていなかったので、ブレンは警戒心を解いた。

 彼女の瞳がこちらへ向けられる。外に向かうにつれて厚みを帯びる、髪と同じ色をした烏色のまつ毛が、かすかに揺れて、白い星屑のように光った。

 ブレンは先ほど、ブリュンヒルデをビート板のようにして海の彼方へ泳ぎ去っていった上官の背中をふっと思い返した。

 目の前に現れた、金魚の尾鰭を持つ人魚、自分たちに害を与えようという気は、決してないーー。

 

「人魚さん、あなた、名前は?」

 一際大きくあかるい声で、尋ねる少年に、十六夜は身をすくめて驚いた。

 

「? 私はロゼ・十六夜・ダルクというがーー」


 ブレンは両拳を胸の前でぐっと握りしめ、わずかにつま先を立てて背を伸ばして彼女に顔を近づけた。その頬は、緊張から赤く染まっている。


「じゃあ、ロゼさん。僕たちを、アドルフ司令官のところまで連れていってくれませんか?」


 十六夜は刹那、言われた意味がわからず唖然としていたが、やがてその漆黒の瞳を大きく開いた。









 



 

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