人魚の城

 視界が揺れていた。

 それも虹色に。

 ブリュンヒルデからもらった、顔を覆うシャボン玉が、割れてしまうのではないか、と感じたが、彼女の作ったそれは、ぐわんぐわんと複雑な揺れを見せるだけで、割れることはなかった。

 代わりにジークフリートの目は見開いて、赤くなったブリュンヒルデを捉え続けていたが。


 「ブリュンヒルデ……」

 

 ジークフリートは唖然としたまま彼女に声をかけた。その呼びかけは、無意識に彼の口からでた言葉だった。彼の顔を包む泡の揺れは治ったが、いまだに周囲の波は揺れている気がする。海底にいた小魚やカニが、周りからいなくなっていた。恐れをなして、どこかへ逃げてしまったのかもしれない。それか、大きな音が生み出した波動で飛ばされたか。

 どちらにしろ、彼女の声にはそれだけの力があった。

 彼の声が泡の粒となって彼女の耳に気づいたのかどうかわからないが、怒りを額や頬に張り付かせていた彼女は、目の前で光を弾かれたようにはっと前を向き、次に横を見る。

 ジークフリートとブリュンヒルデの視線がかち合う。

 すると、何かが目の前で蠢くような音がした。最初、地鳴りかと感じたが、それは、目の前の扉が地を削りながら表へと動く音であった。

 

「扉がーー」

「開いた」

 

 ジークフリートが無意識に放った言葉を、ブリュンヒルデが繋いだ。ひとつの塊のようになって海の底まで潜ったことで、それまでとそれからと、彼らの間で違った絆が生まれていた。

それは、彼らに良い距離感をもたらしていた。

 ゆっくりとジークフリートが視線を隣に移す。

 ブリュンヒルデも同時に彼に視線を向けていた。

 

(入るか)

 

 互いにそういった意味を含んで。そしてその答えはイエスしかなかった。ここまできて、

 引き下がるわけにはいかない。たとえ、危険が待ち受けていることが、わかっていたとしても。

 ジークフリートが長い足をゆっくりと前へ突き出すように動かすと、周囲で白い砂埃がふわっと浮いたが、それも気にせず、歩みを止めなかった。

 やがて鋼色の岩でできた框に上がり、響きは、海の中であったが、硬いものに変わる。

 ブリュンヒルデは、堂々とした態度の中に、しずくひとつぶの恐れを隠している傍らの地上の生き物に、寄り添うように泳いでいった。


 館内の壁は、深紅の薔薇の色をしていた。そこに金の縁取りや草花の模様が描かれている。

 ジークフリートはその古風な美しさに驚いて周囲を見渡していたが、ひとすじの緊張も忘れてはいなかった。

 

(ここが人魚の砦。俺たちの仲間を屠った生き物の住まう場所。出会った人魚は、全員敵だと思わなければならない。気を抜いては、ならない)

 

 ジークフリートは、懐に隠した小銃にそっと右手を当てた。黒く滑らかに光るそれは、アルベリヒと揉めた時に使用したものだった。

 戦士たるもの、どこで敵と出会うか全くわからない。常に弾丸を込めることを怠らないのは、彼の主義であった。

 胸元にしまっていることを、もう一度確かめるために、そっとグリップに手をかけ、トリガーに指を添わせる。これでいつでも銃を取り出せる。そう思った。だが、今更ながら決定的なことに気付き、愕然とする。

 

(ここは、海の中じゃないか……)

 

 ジークフリートが急に歩みを止めたので、ブリュンヒルデはそれに気づいて心配そうに泳ぎを止めた。

 

「ジーク。どうしたの? 大丈夫? 具合が悪くなったかしら。ごめんね。私ってば、必死で海底に行かなきゃって思って、ぐんぐんスピードを増して泳いでしまったから。あんなに早く泳いだのって、久しぶりだったわ」

「いや、大丈夫だ。何でもない。お前の泳ぎは、海軍兵の誰も真似できないほど完璧なものだった」

 

 ジークフリートは、銃が使えないであろうというショックを紛らわせるために、ブリュンヒルデに向かって微笑んだ。

 ブリュンヒルデは地上のものに泳ぎを褒められたのが初めてだったので嬉しくなり、「そ、そう?」と照れ笑いした。タンポポの花弁のような笑顔だった。


 どこまでも続くかと思われるような、長い廊下。進んでいくにつれ、色彩がだんだんと薄暗くなっていくように感じる。

 隣を見ると、ブリュンヒルデの白い顔にも翳りが見えていた。ふたりが不安になっていく刹那、斜め右の方の壁が、きぃという軋んだ音を立てて開いた。

 ジークフリートは咄嗟に身構え、本能から、懐に右手を入れて銃に触れてしまう。

 開いた扉から光が漏れる。それは天から差してくる陽光とは違い、海の色を孕んでいた。

 ごぽり、という音を立てて扉の先から気泡が廊下へと漏れてくる。

 ついでふらりと幽鬼のように現れたのは、大人の女の顔をした人魚だった。

 栗色のウェーブがかった長い髪をゆったりと背に垂らし、ワンレンの前髪の間から、白い顔があらわになっている。瞳は大きくはなかったが、つぶらな子犬のようである。従順さが感じられた。海の中にいるため、本来の彼女の持つ色彩よりも、いささか青みがかって見えるのだろうと彼は感じた。

 彼女の大人しそうな雰囲気から、こちらに危害を加えようとは感じられない。

 ふたりは緊張をわずかに解いた。

  彼女の大人しそうな雰囲気から、こちらに危害を加えようとは感じられない。

 ふたりは緊張をわずかに解いた。

 栗色の髪の人魚は、ふたりを確認すると、両腕を引いて、怯えている。

 ブリュンヒルデはすいっと栗色の髪の人魚の前まで泳ぐと、己のくちびるに、人差し指を立てた。


「私たちもあなたに危害を加えようという気はないわ。攫われたニンゲンの双子を、地上へ返してほしいだけなの」

「……わかりました」

「ありがとう」


 割とすんなり話の通じる相手だった。見た目が素直そうに見える。人魚のことについてよくわかっていないが、人間と同じで、見た目の印象と内面もそうそう変わらないのかもしれない。


「で、双子の居場所。わかる?」


 ブリュンヒルデがくいっと顔を栗色の髪の人魚に近づけた。差し迫る行為に、栗色の髪の人魚はびっくりして身を硬らせる。

 視線を逸らし、再び定めると、ブリュンヒルデに対し、こう告げた。


「知っています。ふたりは今、イザベル様の元にいます。イザベル様は、この群の長。双子の1人、耳の聞こえない方にようがあるとかで、少年だけを連れていきたかったそうなのですが、そばにいたので、少女の方も不本意に連れてきてしまったそうです。なんでも少女の方はきゃんきゃんうるさい犬のようだとか」

「よかった。アカネは元気なのね」

「ええ、命を取ったりはしていないようです」

「詳しくありがとう。でもそんなに詳細に喋って大丈夫? 確かイザベルって、名前だけは私の群にいたときに聞いたことがあるわ。とても冷たい女王人魚だって。彼女が長ってことは、ここは『リリーコロニー』ってこと?」

 

(コロニー?)

 

 ジークフリートは、人魚の群の総称について初めて聞いた。

 

「ええ、歯向かう人魚に対しては容赦がないのですが、ニンゲンのことは、どこか面白がっているように感じます。傍目から見るとですが」

「そう。そのほうが、都合がいいわね」

 

 ブリュンヒルデは話し終えると、どこか納得したようにくちびるを引き結んだ。

 ジークフリートは彼女に尋ねて見たいことがいろいろあったが、まずはこの亜麻色の髪の人魚をうまく使えば、双子のもとへ辿り着けると打算的に考えた。

 

「人魚、俺は人間だが、敵意や殺意を向けてこない人魚に対しては何もしようとは考えていない。双子を地上へ返したいだけなんだ。イザベルという人魚のところまで連れていってくれ。お前の名前はなんだ?」

 

 栗色の髪の人魚は、一歩自分に近づき、話しかけるジークフリートに気づいて、一瞬怯むような態度を見せた。わっと後ろに下がって目を丸くする。

 だが、彼の態度がひどく紳士的なものだったので、やがてその怯えは消えていった。

 

「……私はカスターニエ。イザベル様の女中頭です。私も実は、ここ最近のイザベル様の在り方に、いささか疑問を抱いていました。反発の心というのでしょうか……。あなた方を案内(あない)いたします」

 

 そう言ってカスターニエは、両手を胸の前で交差させ、尾鰭を下げ、直立するような姿勢で頭を下げた。瞼が伏せられ、長い睫毛が白い頬に影を作る。

 

(カスターニエ。ドイツ語で『栗』という意味だ。ぴったりな名前だな)

 

 ふたりは彼女の品の良さに、好印象を抱いた。それは太古の武士に通じるような態度だったからだ。




 






 


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