人魚の砦
「ジーク、海の中。潜れる?」
当たり前のようなテンションで、ブリュンヒルデが尋ねてくる。それはもう、これから海の底へ潜ることが決定事項であるかのような話だった。
ジークフリートは息を止めてブリュンヒルデを見た。
ブリュンヒルデはその顔を見て、眉を顰める。
「大丈夫? すっごい怖い顔してるわよ」
「? ……あ、ああ」
潜るのやめる? そんな言葉が彼女から聞こえてくるーーはずもなかった。
選択肢はひとつで、決めるのはふたりだ。
「この海の底に、アオイとアカネがいるのか」
「うん」
ブリュンヒルデは、こくりとひとつ頷いた。
「ゴーグルを……」
「え?」
「ゴーグルをつけさせてくれ。このまま海の中へ入ると、目がやられるからな」
ブリュンヒルデはジークフリートを見つめたまま、ぽかんとした顔をしていたが、それを聞いて、にっと笑った。
ジークフリートが懐に隠し持っていたゴーグルを取り出すと、それを被るように装着する。視界はうっすらとグリーンを帯びた。
ジークフリートは一度その薄く白い唇を柔く噛み締めると、決意したように瞳を眇める。
ブリュンヒルデはそれで全てを悟り、肩に回された彼の手の甲をそっと撫でると、一度高く海から飛び上がった。
飛沫が彼と彼女の周囲をきらきらと光の粒子を帯びながら飛び交い、やがてブリュンヒルデが頭から海の中へ音も立てずに消えていく。蒼い海面に飲み込まれたふたり。
後に残ったのは、円を描くように白いさざなみが立った紺碧の水面だけだった。
あまりにも静かだったので、空を飛び交うカモメの鳴き声だけが、やたらとうるさく聞こえていた。
閉じていた瞼をうっすらと開くと、蒼いヴェールの先に、ブリュンヒルデの金のおさげが波打ってジークフリートを守るように漂っているのが見えた。
ぐんぐんとものすごいスピードで進んでいくブリュンヒルデの背中。そして的確な揺れを見せるピンクサファイア色の尾鰭。彼女の上半身と反して、その尾鰭はとても大きかったということに、そしてその意味に、改めて気付かされる。
(これが、この娘の本来の姿なのだな)
両腕を滑空する鳥の翼のように真っ直ぐに後ろへ向けて伸ばし、息継ぎも見せずに、海の底へ底へと潜っていく。強い力で捕まっている細い背中と腕の白さが、暗い青の世界では際立っていた。
ジークフリートはただ彼女に振り落とされないように、柔らかな肩から手を落とさぬよう、しっかりと指先に力を込めるだけである。彼女が痛みを覚えない、適度な腕力を保つのも忘れずに。
海の魚たちから見て、ブリュンヒルデの体はうっすらと光の量を帯びた月のように見えていた。
ブリュンヒルデが尾鰭を縦にくねくねと動かしながら下へ下へ進んでいくと、どこまで見渡しても青しかなかった視界に一つの点が生まれ、それがどんどんと幅を広げていった。
(あれは……)
しばらく息を止めていたジークフリートは、僅かに上体を起こしたことで、くちびるの隙間から呼吸の泡の粒が漏れる。
薄い青の膜を貼っていた視界が、点のつらなりに近づくにつれて、徐々にクリアになっていく。
ブリュンヒルデが泳ぐ力を僅かに緩めたのか、ふわっと浮き上がるような感覚に襲われる。
(うおっ)
突然のことだったので、彼女から振り落とされそうになり、必死で腕に力を込めてつかまった。
海底の白い砂にすれすれの距離で急停止したため、彼女の周囲にふわっと砂埃が立つ。
(ブリュンヒルデ……)
「ついた。ここふたりは、いる!」
彼らの周囲を覆っていた細かな泡が、ひとつひとつ割れて消えていく。
ジークフリートはそれと同時にぎゅっと閉じていた瞼をゆっくりと開いていくと、ブリュンヒルデのブロンドの後頭部越しに、見えたものに目を瞠った。
彼の口の中にかろうじて溜めていた空気が、ぼこりと大きな泡になって天へ上がっていく。
それは、城だった。
屋根は紺に銀色の紗を垂らされたようなきらめきを持つ、鱗のように幾重にも重なる甍。
両端の先に、金のシャチホコのオブジェが載せられている。
壁の肌は、真っ白。ところどころ、黒百合のような模様を描く。
(……竜宮城……?)
聳え立つその大きな和風の城を見上げながら、ジークフリートはいつか遠い昔に、絵本の中で見た城を思い出していた。
タイトルは、確か『ウラシマタロウ』といったか、と。
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