海と空の間
「ブリュンヒルデ……お前は」
ジークフリートはしばらく驚いて青い海と、青い空の境界が水色に混ざって溶けていくわずかな線を見つめていたが、はっと我に帰ると、ビート板のように掴まっているブリュンヒルデを見下ろした。白い肩が、海面に剥き出しになっている。それに掴まっている自分の大きな手は、ひどく無骨な岩のようだと刹那に感じた。
彼の半身も、彼女と等しく海に沈んでいる。海は意外にもあたたかく、体が冷たく固まってしまうことはなかった。だが、足の先は海の深みに落ちているので、適度に動かしていないと感覚がわからなくなる。体全体に浮遊感を感じている。
(陸に立っている時に感じる、体の重みが消えている……)
もちろん、海に入ったことは、これが初めてではない。子供の頃は遊びでよく泳いでいた。
(アルベリヒに誘われ、泳ぎの勝負に出たことも何度かあった。その度にジークフリートが勝つので、アルベリヒはうるさく悔し泣きしていたが)
海軍に入る前の訓練兵時代に、入軍試験で海で泳いだこともある。その時も子供時代の遊びが幸いして、苦を感じることはなかった。
陸軍の兵卒がほぼ徴兵であったのに対して、海軍ではその多くは志願兵であった。みんな海が好きで、海で戦う男に憧れたものばかりだったので、泳げない者の方が少なかったのだ。
たぷん、と海面の波が背を叩き、ジークフリートはブリュンヒルデの方を再び見やる。
(ブリュンヒルデ……)
彼女の顔は真剣そのものであった。
左右に顔を動かし、瞳は火を直接宿したように虹色にぎらついている。
背を通り、尾鰭の先に届きそうなほど長いそのふたつのおさげは、左右に広がり、2人を守る細い注連縄のようである。もっともその色は、朝の陽光を凝縮したような輝く金色をしていたが。
(ブリュンヒルデがアオイとアカネと接触したのは、籠越しであったが、それだけで彼女は、彼の匂いや気配を覚えられたというのか……)
軍人としては、羨ましいほどの能力である。
ジークフリートは瞳孔の開いた夜の猫のようになって集中しているブリュンヒルデを、背後で海に濡れながら見守っていた。
(アオイ、アカネ……。どこ、どこにいるの)
白い富士額から、アンテナを伸ばすように神経を研ぎ澄ませていた。これは兄と海の中ではぐれてしまった時、はぐれ人魚になって野良とならぬよう、兄に教えてもらった知恵でもある。
額の内側からこめかみに向かって、ピリピリとした小さな電流が走るような感覚がした。
これだけ神経を研ぎ澄ませるのは、久しぶりだったからだ。
だが、これだけ広い海、全ての範囲に神経を張り巡らせるのは、まだ成熟していない少女人魚には難しかった。急に人魚の能力を発動させたため、意識が時おりプツン、プツン、と途切れ途切れになる。急速に眠くなりそうなそれを、なんとか保つのは苦しかった。
(どうしよう……。このままだとアオイとアカネを見つける前に、私とジークが海に沈んでしまう)
顎の先が、さきほどよりも数センチ海に沈もうとしていたその時、ブリュンヒルデは、額の前髪の生え際に小さな青い稲妻が落ちたような衝撃を感じ、ぱっと顔を上げた。
「いた!!」
彼女の高く透き通った声が、海と空の間を響く。
「本当か!」
ジークフリートも顔を上げた。
ブリュンヒルデが見つめている先を捉えようとする。
瞳を眇めるが、そこに広がるのはやはり紺碧の海と水色の空。そしてその境界の薄ぼんやりとしたヴェールだけであった。
「ジーク。違う。そっちじゃない。あそこ、あそこにいる」
「あそこ?」
ブリュンヒルデが指差す先を、ジークフリートは追う。そこは、海面の先ではなかった。
そこはーー。
「海の……中……?」
ジークフリートはその青い目を見開いた。彼のサファイアを覆う金のまつ毛が、潮風に吹かれ、ふるふると震えていた。
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