カナメ

「鳴き声がーー」

「と、止まりやがった……?」

 

 あたりは先程の喧騒が嘘のように、凛と静まりかえっていた。


(体が、自由に動く)

 

 ジークフリートは、鉛を入れられたような重たい体を動かしてみた。両手を目の前で開いたり閉じたりする。ゆっくりと2、3度足踏みしてみる。そこに先程ねばつくように合った不快感や甘いうずきは、何も感じなかった。 

 

(まさか、アオイの声で……?)

 

 はっと顔を上げ、浜辺の方を見る。そこには白い砂浜の上で、我に返ってぽかんとする人々と、声を枯らして上体を倒し、蹲ってぜぇぜぇと荒い息をついているアオイの小さな姿しかなかった。


「アオイー!!」

 

 傍で悲鳴のような少女の呼び声がすると感じた途端、アカネはアオイに向かって駆け出していった。涙を流していたのだろう。彼女が走るのと同時に、雫が煌めいて、流星のように流れていく。

 浜辺へと泳いで近づこうとしていた人魚たちは、びりびりとした痺れに全身が囚われていた、それに負けて、海の底へと泳ぎ帰っていこうとする者もいた。

 皆の中央を泳いでいた人魚・イザベルは、うっすらと筋肉を纏った薄い腹を波につけ、なんとか体制を整えようとしていた。片手はガンガンと鳴る頭痛をわずかでも抑えるために、頭の横につけている。

 紅い珊瑚のようなつやかかな髪に、黄金色の眸が睨む先には、アオイの小さな背中があった。


「『カナメ』は、あの少年にあったか……」


 女性にしては低いがまろやかな声で、憎々しげに呟いたその言葉は、寄せては返す海の潮の響きにかき消される。


「イザベル様、どうします。あの少年、あのまま人間たちに渡しておくわけにはいかぬはず」


 イザベルのすぐ右側にいた彼女の側近の人魚・コヨーテがきぃんと鳴る耳を押さえながら、イザベルに話しかけるため、彼女にそっと近寄った。

 

「渡しておける訳がなかろうがっ!!」

「ぐッ」

 

 イザベルはコヨーテの肩を片手で強く掴むと、引き寄せ、彼女の白く滑らかな首筋に噛み付いた。艶やかなぽってりと厚い橙色のくちびるの内側に隠された、鋭い鍵爪のような刃が、真っ直ぐにコヨーテの柔らかな肩を貫く。鮮血が吹き出し、ぶるぶると震えが走り、コヨーテはイザベルに手を冷たく離されると、

呼吸も整わないまま、海の藻屑と消えていった。

 イザベルは沈んでいく側近の水色の髪が、紺碧の海の中で煌めいていくのを、何の感情も宿さない冷たい視線でただ見送っていた。


「はぁ。汚い汚い」


イザベルはぴっ、と左手の人差し指を立てると、億劫そうにそこに息を吹きかけた。指先についていた血が、深紅の薔薇の花弁が散るように風に乗っていく。



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