浜辺での攻防

 体が沖へ、沖へと引っ張られる。

それに抗おうと、背後へと意識を持っていくのだが、上手く体を動かせているのかすら、わからなかった。そばにいるアルベリヒに「なぁ。俺は今正気か?」と尋ねてみたかった。だが、アルベリヒも辛そうだった。赤茶色の前髪を額に張り付かせ、眉をきつく寄せながら脂汗をかいている。


「アルベリヒ……」


 ジークフリートは意識せずに、幼馴染の名前を呼んだ。

 するとアルベリヒは瞼を震えさせ、目の前でうずくまり、辛そうにするジークフリートの方を見る。


「ヒルデの嬢ちゃんは大丈夫なのか」

「……ブリュンヒルデは、俺の背中で、かわいそうに、小刻みに震えている」

「……そうか。……お前が勇気づけてやれ」

「……」


 アルベリヒの口から、そんな言葉が出るとは思わなかったので、ジークフリートは少し驚いていた。だが、かけてくれて嬉しいと思える言葉だった。冷えていた心が、わずかに熱を帯びた気がした。

 

「……ああ」


 背負った籠を見遣る。

 籠はやはり、小刻みに揺れている。覗くブリュンヒルデの頬が、わずかに見える。真っ白で、感情を感じられないほどだった。冷静になってよく考えてみれば、彼女は人魚が怖いと思っているのだろうか、自分達人間は、人魚に対して恐れの感情を抱いている。それは、先にローレライ岩での攻防があったからである。だが、ブリュンヒルデはどうなのだろう。

 こうしている間にも、人が大勢浜辺の方へと歩んで来る。彼らと対するのは海の人魚たちと、訪れては引いていく、白濁した青い波。


(このままではまずい………。あの船での二の舞になる! 街の者たちを止めなければ……)


 ジークフリートは片足を動かし、鉛を詰めたように重くなった体を、ゆっくりとだが動かして、浜辺へと向かおうとしていた。大勢の人間を、自分1人の腕で止められるとは思えなかったが、天に向かって銃声の一発でも鳴らせば、誰か1人でも正気に戻ってくれる人が出てくるかもしれない。


(無駄なあがきなのかもしれない……。そんなことをしても、誰1人助けられないかもしれない。そうなった時、その悲しみ、虚しさを抱えるのは俺の自己責任だ。だが……)


 あの悪夢の夜の無念、それからの眠れない夜、墨を吐いたように暗い空を眺めながら、眸に涙を膜をうっすらと張り、手の甲でそれを隠しながら、熱いものが乾いた頬に流れていくのに耐えていた空虚な時間を思い返すと、ここで何もせずにただ蹲っていては、もう一度同じことを繰り返すだけである、そう自分に言い聞かせていた。


「っ……」


 だが、ジークフリートの体は、石を詰められた童話の狼のように、重く、動かしずらくなっていた。無理に動かそうとすると、足の付け根や膝に痛みが走る。


(どうすればいい。どうすれば)


 そう思っていた時であった。


「アオイッ!?」


 同じくうずくまっていたアカネが、弟の名を叫ぶ。

 ジークフリートはアカネの方に目を向けた。

 アカネは、琥珀色の目を瞠り、口を丸く開けて海の方を見ていた。そのくちびるは、青褪めて震えている。彼女のそばにいたはずの、アオイはいなくなっていた。


「アカネっ……。アオイはっ……」


 ジークフリートが呼びかけると、アカネは泣きそうな顔で彼の方を見た。そして、震える肩を動かし、腕を上げると、すっと人差し指を海の方へ向ける。

 ジークフリートはその動きにつられて、彼女の指先が示すものを見た。


 ジークフリートはその動きにつられて、彼女の指先が示すものを見た。

 視線の先、白い砂浜の上に、アオイが立っていた。背筋をまっすぐ伸ばし、わらわらと来たる街の人たちと真っ向から対するような位置にいる。

 ジークフリートは固まりつつある体を無理に動かしてでも、アオイに首を向けた。


「アオイッ……」

「アオイ……。何を」

「そうか……。そういうことか」


 大人2人が訝しむ中、ブレン1人だけが何かを悟っている。


「おいブレン。何だ……? もったいぶらずに教えやがれ」


 アルベリヒが切れたようにブレンを睨む。

 ブレンは顔を上げ、アルベリヒを見る。その表情はどこか明るい色を帯びていた。


「アオイくんは、耳が聞こえないんです。だから、彼だけが、この場で自由に体を動かせる。なんの枷もなく!」

 


 

 



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