恐怖
「ああ……! もう、嫌だぁっ……!!」
ブレンはその音の意味を理解すると、両手を震わせ、己の柔らかな頬を両方から挟んだ。
そして膝から崩れ落ち、何かに祈るように頭を動かしたが、トラウマが彼の脳裏を襲っただけであった。
黒い海で起きたトラウマ。それがあってから、時間はさほど経過していない。人の心の傷を再び開く音。ブレンの脳内には、黒い海に笑いながら飲まれていく仲間たちの姿と、軍服で彩られた無骨な腕を引っ張る、白く滑らかな女の腕。それが、嫌というほどくっきりと浮かび上がっていた。
桜色の、若くぽってりと艶やかなくちびるから、透明なつばの筋がコンクリートの地へと流れ落ちる。ぽたぽたと落ちるそれは、時間の流れがゆっくりであるかのように錯覚させた。スプリングシャワーのように、綺麗な灰色のシミを作る。ただ、それは悲しいシミだった。先ほどまで希望に満ち溢れて、涙の膜を潤わせて、煌めいていたブレンの眸は、瞳孔が開き、血走って、乾いていた。
「おいおいおい……。冗談がすぎるってえの……ははっ……」
アルベリヒは己の額を片手で抑えながら、乾いた笑いを浮かべて海を見つめている。口元は八重歯が見えるほど微笑んでいたが、瞬き一つしないその瞳からは、感情が失われていた。
ジークフリートは、己の全ての血流が止まってしまったのではないかと思うほど、微塵も動くことができなくなっていた。代わりに、全身の毛穴から、汗が吹き出す。こめかみを伝うそれは、彼のあごの先へと落ちていき、ここ数日で生えてきた、近づかなければわからないほどに微量の、髪色と同じブロンドの髭をわずかに濡らす。ジークフリートは震える手を伸ばし、中指と人差し指の先で、己の顎に触れる。顎も指も震えていることが、触れたことによってわかる。
「……っ」
何か話そうとしても、言葉にならない声が吐息となって漏れるだけであった。
彼らの耳を犯していたのは、人魚の歌であった。
それは、ローレライ岩で聞いた歌と同じ、いや、それよりももっと不安定で、高い響きであった。
鼓膜に直接吐息をかけられて、震わせられるような、強いとも、弱いとも言えぬ響き。
「あぁ……。これは……」
ジークフリートは思わず声を漏らしていた。
自分の声が、人魚の歌声にかすみのように交わり、すぐに掻き消える。
拳を口元で丸め、額に強くつける。何かを耐えるように眉を顰めて震え始めた。そして、再び深く呼吸をして落ち着きを見せると、さまざまな感情が剥がれたような面を上げた。
人魚の歌声は、徐々に彼らに迫ってくる。それは彼らの血流を揺らし、つま先から心臓までの血脈を逆流させるのに十分であった。
体が熱い。自分の鼓動の音が、耳の奥深くから唸って聞こえてくる。それは、痛みを伴っていた。ジークフリートは咄嗟に片手を上げ、耳を押さえた。体はひどく熱いと言うのに、耳の上だけは、何故だか冷えていた。
凍るように。
「おいおいおい……。向こうから高波が押し寄せてきやがるが、あれって、なぁ……。まさかよぉ……。やっこさんじゃねえよなぁ……」
アルベリヒの語尾は、徐々に下がって薄くなっていった。
存在を確認しないように、目にしてしまえば心に閉じた蓋がはっと開いて傷が溢れ出してしまうからと、本能で背後を振り返ることができずにいた。だが、ジークフリートはがくがくと蠢くと、何かの帷から解放されたように、瞬時にさっと背後を振り返った。
彼の蒼い眸に、さらに濃い海の青さが、平筆で塗られたように、視界全体に広がる。それは、穏やかではあったが、針の先で刺されて、血が滲むような痛みを伴っていた。
「来る」
ジークフリートの背後で、誰かが呟いた。それはブリュンヒルデだった。いつも甘やかで輪郭を持たないように感じる、彼女の羽のような軽い声は、その時、質量を伴い、銃の弾丸のごとく、彼の耳に真っ直ぐに届いた。
ジークフリートが息を吸おうと口を開いたその時、再び沖から人魚の歌声の響きが聞こえた。その声は、沖のはるか遠くから響いているはずなのに、耳元で囁かれているような、甘い吐息のようでーー。
(ああ、この感覚を、俺の体は覚えている)
ジークフリートは、頭の奥で恐怖感をわずかに感じながらも、脳が歌声と共に快感に共鳴していく感覚を味わっていた。それは、船員たちと夜にドイツビールを飲み漁り、笑いながら泥酔していく心地よさに似ていた。
誰にも分からないほどに、うっすらと口角を上げる。
バシャン、と背中に直接波が当たったかのように、ジークフリートは揺れた。己だけなのかと思ったが、霞む視界を定めて辺りを見渡すと、アルベリヒやブレンたちも大勢を崩していた。
来る。人魚が、来る。
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