美しい不協和音 

 そのあと、アカネはわんわん泣きながらおでんを食べた。桜色の頬は、すでに熟れて真っ赤に染まり、その上を溶けた氷が滑るように、涙が伝い落ちていった。

 残されたおでんたちは、彼女が口に入れる前に、アオイが隣でふうふうと優しく息を吹きかけながら、姉の口元へと持っていった。アカネは桜色よりもなお赤く潤んだ、ぽってりとしたくちびるの前にそれらをかざされると、薄く緑がかった透明な水槽にいる金魚が、餌をぽちゃりと水の中に落とされた時のように、潤んだ目をしながら、何も考えずにぱくついていた。そのたびに一瞬熱そうな顔色をしたが、すぐに口の中をもぐもぐと動かして、ごくり、と飲み込んでいた。

 ジークフリートたちはそれを見て、良い食べっぷりだと感嘆していた。3人とも口を丸く開けていたが、やがてブレンが微笑みだしたのを筆頭に、一同は温かな笑いへと導かれた。


 店を出て、ジークフリートから金を渡されたブレンが代わりに会計を済ませているときに、ジークフリートはアカネに話しかけた。

 扉を開けて外に出ると、波の音と潮の匂いが濃くなった。青に薄く白を水墨で混ぜたような空には、カササギの群れが飛んでいる。

 ジークフリートの傍にいたアカネは、空を見上げていた。その口元がわずかに笑んでいるのを、彼はなぜだか切なく感じた。


「今はどこに住んでいる」


 アカネは一瞬、睨むようにジークフリートを見上げたが、やがて口を開く。出会った時よりも、食事を共にしたことと、泣いた姿を見られたことで、彼らとの間に張っていた不可侵の緊張の絹糸が、震え、熱で溶けていったのかもしれない。

 アカネは、すっと右腕を上げると、東の方を指さした。


「……ムラサキノウエ。この商店街の東の外れにある。海辺につながるちっせぇ村」

「お前たち2人だけで暮らしているのか」

「ああ」


 アカネが平坦な声音でそうこたえると、ジークフリートは声を一段小さく、低くした。彼の鼻と眉の間に、灰色の影が灯る。


「嘘をつけ。本当のことを言え」

「嘘なんかついてねえ」

「ーーお前たちが盗んだ袋の中に入っていた女ものの下着。あれは、アカネ。お前が使うにはまだ早い大人用のものだった」


 ジークフリートが囁くように、アカネに顔を近づけて言った。


「……っ!」


 アカネは痛いところを突かれた、というような反応を見せた。そして即座に上げた眉を下ろし、ジークフリートを睨む。

 ジークフリートは「やっぱりお前が使うものではないんだな」と言おうとしたが、今の一連の話は、この娘にとって性的に不快になるものだったかもしれないと思った。心に濁った澱が重なる。訪れたそれは、年頃の娘を別の方向から不快にさせてしまったかもしれない、という後悔だった。またしても、アカネの顔にリリューシュカの姿がうっすらと重なった。

漆黒の娘に、金色の娘が。

 アカネはジークフリートとの間に、咄嗟に薄いヴェールを張った。それは、自分ではない、誰かを守るバリアであった。先ほど店内のぬるい温度のせいで溶けて流れていたそれは、すぐに「関わりたくない」という文字を伴った薄氷となって現れてしまった。

 ジークフリートは切ない気持ちになったが、蒼い眸でじっと彼女を見つめていると、彼女の凪いでいた琥珀色の瞳がわずかに震え、張っていた薄氷が揺れていくのを感じた。


「……親がいなくなった後、俺たちの面倒を、っていうかーー話し相手みたいになってくれてた人がいる。孤独だった俺たちにとって、その人との交流は、本当にありがたいものだった。心の支えになってた。その人にあげるためのものだった」


「そうだったのか」ジークフリートは鼻を鳴らした。


「……その後、盗んだものはどうした」

「違う! あれは盗んだんじゃないっ!」


 勢いをつけてアカネがジークフリートの方を向いた。反動で彼女の黒髪がさらりと揺れてさみどりに光る。琥珀色の瞳の奥に、また熾火のちかちかという明滅が見える。


「あれは、盗んだんじゃねぇ。あれはアオイとふたりで村の子供の子守りを少しずつして、稼いだ金を貯めて買ったものだ。それを、世話になった人にあげようと思ってたんだ。なのにーーあの親父、酔っ払ってて、俺たちが金を払ったことさえすぐに忘れやがって」

「そうだったのか。失礼な言い方をしてしまったかもしれない。すまなかった」

「……別にいいよ。助けてくれたのはあんただったしさ。ーー礼言ってなかったっけ。あん時は……ありがとう」


 そう言うと、アカネは膨れたように俯いた。前髪に両目は隠れて見えなくなっていたが、そこから覗く薄紅の頬がさらに赤く色づいていた。まるでさくらんぼのようだ。ジークフリートはその滑らかな頭を片手でわしわしと撫でてやりたくなったが、冷静になってやめた。代わりに、紺色のスラックスの中から、ゆるく折り畳んでいたハンチング帽を取り出すと、アカネの頭にそっ被せる。


「えっ?」

 

アカネが頭を見上げる。


「お前が落としていった帽子だ」

「ああ、ありがと……」


 アカネは乗せられただけのハンチング帽を、自分で手を使って器用に被り直すと、何か体に喝を入れられたかのように、元気な顔色を見せてにっと笑った。彼女の白い八重歯が薄紅のくちびるから覗いた。


「……アオイの耳は生まれつきだ。どっかの誰かにボコられてああなったんじゃねえから」

「ああ、わかった」

「……あんたらみたいに、アオイを見てハナから変な目で見ないで、普通に接してくれた奴らは、初めてだった」

「そうか」

「うん」


 アカネは柔らかな微笑みを見せた。その笑顔は、彼女と初めて会ってから、今に至るまでに見た表情の中で、一番優しいものだった。


 一行が街の通りの門を潜ろうとしていた頃である。

 ブレンから預かり直した背中のブリュンヒルデが、何かに気づき、怯えて震え始めた。


「……ブリュンヒルデ?」


 ジークフリートは、訝しげに首を逸らして背負ったリュックを見る。

 リュックごと揺れている。小刻みに揺れるそれは、籠の中に浸した、彼女の腰の位置までの水も、薄い膜越しにたらりとこぼれそうなほどに見えた。さみどりの水滴越しに、彼女の震える白い肩が見える。


「……おい。どうした」


 ジークフリートは歩みを止めた。後ろを歩いていたアルベリヒとブレンも、異変に気付いて足を止め、体を横に落として、訝しげにこちらを覗く。


「おい……。ヒルデの嬢ちゃん、具合悪いのか」


 アルベリヒがいつにもなく冷静な声で、眉を寄せている。

 ジークフリートは一回転して彼の方に体を向ける。


「陽光がまともに当たりすぎて気持ちでも悪くなったのだろうか。木陰で休もう」

「ああ、それがいい」

「僕が彼女をおぶるのを代わりましょうか?」


 ブレンが身を乗り出すが、ジークフリートは首を左右に振った。


「いや。俺がおぶったままでいい。無理に今の状態で高さを急に変えない方がーーいや、ブレンがチビって言ってるんじゃないぞ」

「……どうせチビですよ!」


 ブレンは唇を噛み締めて眉を寄せた。どうやら彼の気にしていたことを口走ってしまったらしい。年頃の少年に対してすまなかったなと思い、ジークフリートは己の頸の刈り上げを片手で掻いた。

 海に背を向けているため、逆光となり、彼のブロンドは漣の如く、さっと金に煌めいた。だが、それを目にしたものは誰もいない。ただ、海の凪だけが見つめていた。


「おら、早く行くぞ。海辺から離れるんだ」

 アルベリヒがイライラした様子でジークフリートに胸を寄せる。

「ああ……」


 ジークフリートが頷き、軽く籠を背負い直して踵を返して街の裏手の木陰へ向かおうとした刹那であった。

 

 膝が、感情と連携せずに震え始めた。

 視界から、色彩が消える。濃い青の空は、灰色に。雲は黒く。街は朧な墨に変わる。

 そこにいた者、全員が、呼吸を止めた。

 この感覚は、皆経験がある。

 この恐怖はーー。

 

 沖の向こうから、悲鳴のような歌声が響いていた。はじめはひとつであったそれは、やがて重なり、複雑な音響となる。

 その調べは、美しいはずなのに、彼らにとってはひどく不快であった。

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