黒髪の紅き人魚

「行っちゃいましたね……」


 呆然と坂の影に消えていく二つの小さな後ろ姿を見つめていると、背後にいたブレンがいつの間にかジークフリートと並ぶ形で横に立っていた。

 ジークフリートは一瞬だけブレンに眸を向けたが、さっと前に戻した。


「ああ……」


 ブレンに聞こえているのかいないのか、わからないほど小さな声で囁く。やがて空は暗い青から桜色の夕焼けへと染まり、青と薄紅が入り混じったようなグラデーションを描き、この美しい浜の街をかすみがけて覆っていった。

 ジークフリートとブレンは、己の体の表面が夕日に溶けていっても、去っていった姉弟の影から、目を逸らすことはなかった。

 海から離れたというのに、耳の奥へと潮騒が入り組んでくるような音が聞こえていた。

 

 空は青く暮れ落ち、筆でぼかしたような白い星々が浮かんでいる。

 ジークフリートはその星と同じ白い色をした砂浜に、一人佇み、夜をその青い瞳に映していた。彼の渇いた頬を、潮を含んだ夜風が撫でる。その冷たさに、彼は瞳を眇めた。

 ブレンは娼館に行ったアルベリヒを迎えに行った。本来なら大人であるジークフリートが向かうべきところであるが、大変な思いをした後で朗らかな顔をしたアルベリヒと再会して怒りが湧き出してしまうかもしれない、と懸念したブレンが、気を利かせて名乗り出てくれた。待ち合わせ場所と時間を示し合わせた後、まだ街を見たがっていたブリュンヒルデをブレンに託し、ブレンと別れたジークフリートは、一人夜の浜辺で佇んでいた。ゆるく拳を握りしめ、顎を軽く空へ向けて。

 額を流れるブロンドの髪が、夜風によって揺れ、きらきらと淡い光の粒を放つ。ジークフリートは前髪越しに見える、筆でぼかしたような白い星々を、ただじっと見つめていた。


(長い船旅だった)


 そう思った途端、胸の内側に疲れが降りてきた。長い船旅だった。本当にそうだ。仲間を失って。ブリュンヒルデと出会って。そうしてやっと、陸を踏みしめている。ジークフリートはゆっくりと俯いて足を見下ろした。天空に広がる星と同じ色をした白い砂が、つま先にかかっている。その小さな粒子を見ていると、途端に靴を脱ぎたくなる衝動に襲われた。踵に指を引っ掛け、右足から靴を脱いでいく。中に履いていた薄い白の靴下も脱いで、コートの右ポケットに、両方とも無造作に仕舞った。夜風で少し出た靴下の先が細かく揺れる。

 久々に裸足で触れた砂浜は、さらさらとして、想像以上に気持ちが良かった。ジークフリートは、喜びから、口角が上がるのを止めることができなかった。その喜びは、幼い少年のような汚れのないものだった。久々に生命の内側から溢れ出た感情だった。舌先が、痺れるほどの甘いうずき。

 足を一歩ずつ、ゆっくりと踏み出してみる。

 指先に触れてかかる白い砂が、痺れるほどに嬉しい。とがりのない、痛みのない、たださらさらとした心地のよさ。

 ジークフリートは、気付けば速度を上げて歩いていた。少しばかり爪先にかかるだけであった砂は、跳ね上がり、宙を舞う。夜に溶けて白く淡い光を放ち、静かに消えていく。

 体は傷ついた頑丈な男の体。

だが、今、すべてのしがらみから解放されて、遠い昔の、少年の夏に戻っていた。

 いつの間にかコートを脱ぎ捨てていた。ばさりと音を立てて砂浜に落ちたそれは、やがてゆったりとくずおれていく。彼はそれに目も止めず、ただ満面の笑顔で砂の上を駆けていく。砂はしぶきを上げて、舞い落ちていく。夜の闇に、白で絵を描くように。


「  」 


 彼の喜びは、冷たい刃のような一声によって、ぷつりと切り裂かれた。無垢な笑顔は瞬時に軍人としてのそれに戻る。眉間に皺を寄せ、声のした方を振り返る。


「  」


 ジークフリートは体制を整えた。背筋を伸ばすと、声のした方へまっすぐに視線を向ける。眉は寄せられ、眉間には、先程は艶やかに伸びていたはずのところに、深い皺が刻まれる。

 風が吹く。先程よりも強く。冷たい風が。彼の金の前髪を揺らし、星の光よりも鮮やかな蒼いともしびが、眸の中央に浮かび上がる。

 ジークフリートの視線の先には、砂よりも白い、純白の岩の上に腰掛けた女がいた。指で少し引っ掛けば、ほろりと崩れてしまうのではないかと思うほどの。岩肌は滑らかで、月の光を浴び、暈を帯びてぼやけている。その上に座る女の肌もまた、白くぼやけていた。

 もっとも、かけた腰は、ヘそのあたりからくびれ、腰から下はグラデーションを描くように赤く染まって金魚の尾鰭のようになっていたが。

 ジークフリートがかけられた声は、歌だった。それもひどく甘美な。女にしては低音の。響きが豊かな歌だった。

 目の前に、人魚がいた。岩に座り、夜の海を見つめながら。

 豊かで波打つ黒髪は、夜の海と同じ色をしている。光沢は少しの緑を宿して。雪のように白い肌に、似合いの色。彼女が喉を鳴らすたびに、細やかに揺れて背に線を描く。質量を持っているのに、絡まりのない滑らかな細い線。

 通った喉は、声帯がよく鍛えられているのがわかる筋力を持っていた。そこから紡がれる声は、海でジークフリートが聞いた歌声よりも深く、低い歌声をしていた。ブリュンヒルデの歌声は、甘く軽やかで、高い音程に魅力を感じた。だが、この紅い人魚の歌は、低く低く響く。心の奥底を揺り動かすような魅力ある低音を放っていた。目の前の黒い闇色の海は、彼女によって揺らされているのではないかと思うほどの。

 ジークフリートはいつの間にか、震える右手を上げて己の髪をかきあげていた。手のひらにざらりとした質感がする。はしゃぎすぎて、いつの間にか、砂が頬にかかっていたらしい。潮で湿った肌が、歌を聞いた高揚で火照っていた。海で人を誘う人魚の嬌声のような歌でもない、生きていることを思い出させてくれるような、そんな歌。黒髪の、紅い人魚の放つ声は、ジークフリートの渇いた魂を、暖かく濡らしていった。

 彼女が歌うたびに、尾鰭よりもさらに深い色を持った、ぽってりと厚い紅の唇が揺れる。

 ふと、音が止まった。語尾から消え入る。

 ジークフリートも息を止める。薄く開けたくちびるが、少しばかり震えていた。

 人魚がゆっくりとこちらを振り向く。

 ジークフリートを凝視したまま、動きを止めた。冷たい潮風に、その漆黒の濡れた髪を靡かせるだけである。

 彼女の眸は髪と同じ黒であったが、少しばかり明るい色をしていた。虹彩は筋を持った紅茶色をしている。うっすらと涙の幕で覆われたそれは、彼女が眸を揺らすごとに、きらきらと輝いて。

 やがて、その紅い唇がゆっくりと開いた。薄紅の光の粒が、表面でてらりと光る。


「ーー月色の髪」


 ジークフリートは刹那、何を問われているのかがわからなかった。

 黒髪の人魚の紡いだ声は、歌っている時と違い、普通の女の話し声のようなトーンであった。だがそこに、独特の低音が魅力を放っている。


「そなたの」

「俺の髪か……?」

「ああ」


 黒髪の人魚は当たり前のように頷いた。ジークフリートは月の光が彼女の頬を撫で、輪郭を白く煌かせているのを目の前にし、彼女の肌こそが、月色をしていると感じた。だが、それを口に出して問うことはなかった。彼女の体は小さいが、威厳を感じさせる佇まいをしていたからだ。見た目は若く、20代のはじめに見える。だが、彼女からは老成した何かを感じた。

人間の男に肌を見られても、歌っている姿を聞かれていても、動じることのない、芯の通った何か。

 黒髪の人魚が少し動くと、豊かな黒髪はさらりと動き、みどりの光沢を放って揺れる。


「人間」


 アーモンド型の大きな瞳で、ジークフリートを見つめていた人魚は、やがて少しばかり首を下げて眉を寄せた。

 彼を、睨んでいるように見える。

 茶色の煌めきを宿した眸は、半分伏せられた瞼で妖しい炎を灯す。

 ジークフリートはいつの間にか、自分の喉が渇いているのを感じた。


「何をしに来た」


 人魚の声は、歪んでいた。

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