猫目の少年

 ジークフリートは先頭の少年がこちらを睨み上げ、何か言おうとする前に、ふわりと片手を彼の小さな唇に当て、口を塞いだ。


 そして赤子を立った状態で正面で抱きかかえるように、2人の少年を両腕で軽く抱きしめ、耳元に口を近付けると「静かにしろ」と小声で囁いた。


 少年は吊り上がった猫目をこちらに向けて、睨み上げてくる。近くで見ると琥珀色の瞳の大きさが際立つ。遠目で見た時は気付かなかったが、美形であることもわかった。着ている衣服も、他のクルワズリの住民たちといささか趣が違っていた。


(これは、もっとプロトタイプの着物なんじゃないか……?)


 クルワズリの住民の着ている衣服は、上衣は先ほどジークフリートが店で購入した着物と同じような構造をしているのだが、下は西の国の住民が着ているのと同じ構造の、麻のズボンやスラックスを履いている。

 だが、この少年たちが着ているものは、上も下もひとつながりで、太い帯を帯紐で締めて留めているような、古代からの「着物」を着ていた。

 対してもう一人の少年は常に顔を伏せており、顔色が伺えなかったが、帽子から覗く瞳は猫目の少年に比べて垂れ目であるように見えた。小さな鼻が愛らしかった。少年たちはジークフリートに抱きかかえられても、繋いだ手を離さなかった。猫目の少年の方が強く垂れ目の少年の手を握って守っているように見え、猫目の少年が兄で垂れ目の少年が弟なのかと思わせる兄弟愛を感じた。

 吊り目の少年が夕焼けを彷彿とさせるような紅い色をした着物を、垂れ目の少年が、澄み渡る暁を思わせる薄い水色の着物を着ている。


「ちくしょう! あいつらどこ行きやがった……!! 待て、この野郎共! ぶっ殺してやる!!」


 男の怒声が通りから聞こえてくる。


 ジークフリートは視線をちらりと通りへ向けると、再び腕に抱いた少年たちに戻す。そして店を覆う白い布に、通りからこちらが見えなくなるまで体を沈めた。


 男が遠ざかっていく気配と、腕に抱いた子猫のような兄弟の、ばくばくという大きな心臓音が聞こえる。数秒静かな空気を味わい、踵を揃えて前へ踏み出し、姿勢を元に戻すと、腕を再び見ると、2人のつむじが目に入った。気付かない内に少年たちを自分の固い胸に抱きつぶしてしまっていたようで、腕の力を緩めてやると、猫目の少年が目の端に涙を溜め、頬と鼻の頭を赤くしていた。


「何すんだよ!」


 ジークフリートは迫力に飲まれて「すまない」と一言謝ってしまいそうになったが、唇を軽く湿らせ、その必要はないと自分に言い聞かせた。そして腕の力を完全に解くと、少年たちはよろめきながらも地に足を立たせる。


「お前らが追いかけられていたのを助けてやったんだろうが。あのままだと普通の話し合いも出来ないくらい取って食われそうな勢いだったからだ。礼くらい言え。それとも本当に盗人だと言うのならば憲兵に突き出してやるが。その袋の中身は何だ」


 ジークフリートは猫目の少年の持っているサンタクロースの袋を指差した。猫目の少年は、はっと瞳を見開くと、その袋を背に隠す。


「……なんでもねえ」


「おい、中身を見せろ。場合によっては盗人に加担したことになりかねんからな」


 ジークフリートは少年の背に回ると、彼が手にしている袋を掴んだ。


「あっ、やめろ!」


 少年は手を伸ばして袋を掴もうとするが、ジークフリートが高く掲げた袋は彼の小さな背では届かない。近くでよく見れば、その袋は少し黄ばんでおり、古いことがわかった。


 袋の口に結われていた朱色の糸を解き、中を見る。紐の手触りは先ほど触れた紫の着物と同じ種類だった。布の方は薄い牛の革で出来ている。


(金貨でも盗んできたのか……)


 そう思い、袋の中身を広げる。眉を寄せて中を見て、ジークフリートは目を見開いた。


「なっ……」


 そこにあったのは、女物の下着であった。E~Cカップくらいの大きさの黒いブラジャーが、細やかなレースで縁どられてそこに2、3枚存在する。あとは米や鮭や鯖の燻製など、僅かな食料も入れられているが、下着があったことへの迫力が大きく、ジークフリートはそこにしか目がいかなかった。いつの間にか口も開いていたらしく、舌先が少し冷えた空気に触れる。


 唖然としていると、猫目の少年が顔を赤くしてジャンプし、ジークフリートの手から袋をもぎ取った。


「返せ!!」


 ジークフリートは気が緩んでおり、猫目の少年の小さな手に、袋は取られてしまう。そのまま袋を両腕に抱きかかえ、垂れ目の弟を連れて逃げようとする少年を捕らえようと、ジークフリートは咄嗟に彼の被っていた丸いハンチング帽を掴む。柔らかな手触りのそれは、案外するりと彼の小さな頭から剥がれていった。


「あっ……」


 少年は虚を突かれ、大きな瞳をさらに見開くと、両手で帽子を取られるのを防ごうとする。ジークフリートは帽子を引っ張った時に目を瞠った。何か重力のあるものに引っ張られる感覚と、そこの突っかかりが取れる感覚が、彼の手先を襲う。そして、その突っかかりから帽子がふわりと浮き上がり、自分の手に取れたと思った瞬間、少年の体を覆うように、射干玉の長い黒髪が、繊細な糸の束となって舞い降りたのだった。


「は……?」


「ああ!!」


 猫目の少年が、頭を抱えて蹲るのと、垂れ目の少年が歩みを止めて後ろを振り返るのが同時だった。


 ジークフリートは予期せぬことに驚き、一歩足を踏み出して、地につっかえたように止めた。


「おい……」


 ジークフリートが声を掛けようとした刹那、猫目の少年は振り返り顔を上げた。涙で目が潤んでいる。眉間に皺を寄せ、子猫が威嚇するようにこちらを睨んでいるが、ジークフリートは少年の長い黒髪が艶やかで、その美しさに見惚れていた。黒髪と合わせて今一度少年を見れば、その肌は雪のように白く滑らかで、爪の先と、頬、唇は桜色をしていることがわかった。


(少女か……)


 やっと確信した。今一度よくよく見ればその黒髪は妹のリリューシュカやブリュンヒルデの波打つ髪質と違い、真っ直ぐでさらりとしている。


「帽子を返せ!!」


 少女は背筋を伸ばし、ジークフリートの手から袋を奪おうとするが、膝を折り曲げて高く飛び上がっても、端に触れただけで取り返すことが出来なかった。ジークフリートはジークフリートで、猫目の少女のつむじから目を離せずにいた。右に渦を巻いた整ったつむじであった。しかも少女が飛び上がる度に、その細い髪は揺れ、陽の光に白い光沢を放つのだ。美しい少女である。


 ジークフリートが気を抜いた隙に、少女は袋の端を掴むと勢いよく彼の手から袋を奪い取った。


「やった!!」


「あ、おい!」


 少女は軽く飛び跳ね、笑顔になると袋を片手で天へ掲げ、垂れ目の少年の手を取る。


「行くぞ! アオイ」


 アオイと呼ばれた少年は、こくんと頷き少女の手を取ると、少女に引っ張られるように共に通りを駆けていく。


 ジークフリートの前に彼女たちが駆け抜けて起きた風が舞う。彼が手を前に出し、彼らを捕らえようとするが、猫のような速度で去って行ってしまう。


 ジークフリートは唇をうっすらと開け、茫然と彼らの背を見ていた。少女の黒髪が扇のように舞っているのが印象に残った。

 いつか画集の中で見た、岸田劉生という画家が描いた娘の絵を、去り行く少女の後ろ姿に重ねていた。

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