ロゼ・十六夜・ダルク 

 潮風で焼かれてしまったのか、わからない。だが、ジークフリートの喉はいつになく渇いていた。

 あたりは湿っているというのに。

 海は枯れることはないというのに。

 ジークフリートが答えられずにいると、黒髪の人魚は、音が鳴るのがわかるほどに舌打ちをした。そして嫌そうに形の良い眉を歪める。さらに彼女の眼光は鋭くなる。細い、鋭利な光が、その瞳に炎のように宿っていた。その炎は、月の光と同じ色をしていた。鈍い雫のともしびが、ジークフリートをまっすぐに射抜く。


「……人間はいつもそうだ。答えられない質問は、都合よく無視する」

「俺は」


 ジークフリートは一歩踏み出して口を開けた。

 黒髪の人魚の体に、一際強く潮風が当たる。

 冷たいそれは、彼女の真っ白な肌を撫で、肩から胸にかかっていた豊かな黒髪も舞い上がらせる。昔絵本で目にした人魚のように、貝殻のブラジャーも身につけていない、剥き出しの乳房があらわになる。

 ジークフリートはその頂から目を逸らそうと視線を彼女から逸らした。こめかみに、体温よりも熱い汗が流れる。


「……海の軍人だ。先日海から久しぶりに陸に上がってきた」

「ほう、名は」


 人魚から発せられる声が、幾らか高い音に響いた。ジークフリートはそこに明るさを感じ、逸らしていた瞳をそっと上げて、再び彼女を捉える。

 人魚は手を顎に添え、体を少しばかり乗り出していた。つめたく伏せていた瞳は、大きく見開き、先ほど見えなかった明るいともしびが、爛々と光っている。

 ジークフリートは数秒、彼女の瞳に吸い寄せられるように見つめていた。女の瞳の中に映る自分の顔を初めて見た。白い顔に、蒼いふたつの瞳だけがぼんやりと浮かんでいる。それはひどく疲れている顔だった。前髪は潮風で乾き、月色に光っている。切長の瞳の下には、影ができていた。頬は渇いており、とても滑らかとは言えない。少しばかり髭が浮いていた。髪のブロンドと同じ色の髭。彼は片手を上げると、そっとその髭を触った。ざらりとした感触は、白い砂と同じであった。


「人間。お前に興味がある。何か困ったことがあれば、この先手助けしてやらんでもないぞ。私は群れから離れた、孤高の人魚。一人でこの混沌とした海の中を生きる存在。私が人魚の中で、一番強いのだ」

「孤高の人魚……」


 ジークフリートは唖然としたまま、人魚の言葉を繰り返し呟く。

 彼女の言葉からは、自分に対する確かな自信が感じられた。その自信は、決して嫌な感じがするものではなかった。

 風が、海からさらなる力を持って吹いてくる。

 黒髪の人魚の横顔を濡らすように流れたそれは、先ほどよりも温かかった。豊かな黒髪はみどりに煌めき、夜を背景にさらに黒く流れていく。先で絡まりそうになるが、彼女の滑らかな髪質により、それはほどけて、一つの筋を描く。

 人魚はただ何も言わずにしばらく神妙な顔をしていたが、やがてさらに身を屈める。よく見れば彼女の前髪は、いつか見た日本人形のように真っ過ぐに切りそろえられ、背に流れる豊かな黒髪も、先がまっすぐに切り揃えられていた。お辞儀をするように屈められた彼女の前髪は、風によって少しばかり開き、その白い富士額がちらりと覗いて、卵のように光っている。伏せられた睫毛は長く、白い頬に影を落としている。やがてゆっくりと開いた瞳は、金の虹彩を宿し、ジークフリートの顔を楽しそうに映していた。彼女がわずかにまなじりを動かすだけで、瞳の表面は潤んで泉の水面のようになる。いつの間にか、鼻と鼻が触れ合うほどの距離まで顔を近づけられていた。


「そなた、名は」


 紅く熟れたくちびるが、目の前で動く。

 ジークフリートはその色彩から目を逸らすことができなくなった。渇いた喉はいつの間にか潤い、生唾がひとつ、ごくりと彼の首を通って消えていく。

 彼と彼女の視線が一直線に交わり、そこにはまた別の闇が生まれていた。異種の者と交わったような、長年の友と再会したような、どっちつかずの、不可思議な。


「ーー俺は、ジークフリート・アドルフ」

「ふん、つまらない名前」人魚は鼻を鳴らして首を揺らす。

「お前は」


 ジークフリートがつぶやくと、人魚はよくぞ聞いてくれたというように、妖艶に微笑んだ。くちびるが、半月の形に咲(え)む。


「私は、ロゼ・十六夜・ダルク。ロゼもしくは十六夜、好きな方で呼べ。姓は、炎で焼かれた姫騎士と同じ名だから好きじゃない。この紅い金の魚の鰭と、射干玉の髪を、覚えておけ」

「イザヨイ……」

 ジークフリートは咄嗟に和風な名前を呟く。ジャポニズムな彼は、そちらに勝手に心が惹かれたからだった。


 ジークフリートが俯くと、黒髪の人魚ーー十六夜は、くちびるが触れ合うのではないかというほどの至近距離で、彼の顔を覗き込んでいた。


(また、女の瞳の中に映る俺を見た)


 ジークフリートはそう思った。くっきりとした陰影で、彼女をまっすぐに見つめる自分の顔が見えた。

 十六夜はくっと口角を上げると、どこか邪悪な笑みを浮かべてジークフリートから離れていった。彼と彼女のくちびるの間に、冷たい風が流れる。背後へくずおれるように、十六夜は倒れていった。白い砂浜の上に、扇のように黒髪が広がる。口元は艶やかに笑み、頬は桜色に染まっている。これから男に抱かれる女のようであった。胸の頂は、ちょうど彼女の黒髪の房で見えなくなっている。

 十六夜は腰から緩く広げていた腕を、夜空へ向けて伸ばした。

あまねく白い星々は、彼女のためにあるかというように、漆黒の中に浮かぶ榛の間に、その煌めきを映している。


「ふう……」


 十六夜はうっとりと瞳を伏せ、吐息をこぼした。墨色の空に、直接触れるかのような。

 星も月も、白い砂浜も、海も、今は全て十六夜のものであるかのようであった。

 ジークフリートは彼女を見下ろしながら、瞬きも出来ず蒼い眸を揺らした。


「お前は……」


 十六夜は星を眺めていた視線をくっと逸らすと、ジークフリートを見つめ、深紅の薔薇の花が咲くように、たっぷりと余裕を浮かべて微笑んだ。


「じゃあな。人間、いや、『ジーク』といったか」

「はっ……」

「また現れてやる。縁があれば、だがな」


 十六夜はそう告げると、腰を跳ね上げ、鼻先が触れるほど近く、ジークフリートに顔を寄せた。彼はまた、女の瞳に映る自分を見るはめになった。その顔はひどく気の抜けた顔をしており、自分でも恥ずかしくなるほどであった。薄く頬を朱に染める。

 十六夜はジークフリートの目の前で、くっと口角を上げた。八重歯を見せて微笑むと、首の力を抜いて、ジークフリートに顔を寄せる。彼が少しでも首を動かせば、くちづけできるのではないかと思えるような距離だった。

 だが、十六夜は再び首をしなやかに俯かせると、再び小声で「じゃあな」と呟いた。吐息のような、かすみの声。

 ジークフリートが瞬くと、十六夜は一瞬のうちにその身を翻し、夜の海へとすっと潜って消えていった。

 彼の瞳に残ったのは、彼女の紅い尾鰭の残像だけであった。

 引いていく潮騒の先端が、真珠のつらなりのように、鈍く光っていた。

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