最終話 メリーバッドエンド

 彼女が目覚めたのは、一連の騒動から実に一年が経った頃だった。


 あの日、彼女が階段から突き落とされたあの日と同じ、鮮やかな夕焼けが空一杯に広がる夏の夕暮れに、彼女は目を覚ましたのだ。


「クロエ!!」


 この一年、暇があればずっとクロエの傍についていたジェイドは、目覚めたばかりで状況を把握できていないクロエの体をすかさず抱きしめた。消毒液の香りと、世界中からかき集めた医術の道具に囲まれた部屋の中で、クロエはただ狼狽えていた。


「……ジェイ、ドさ、ま」


「俺が分かるか、クロエ! 良かった!! 痛むところはないか? 目はちゃんと見えているか?」

 

 甲斐甲斐しいほどに世話を焼いてい来る恋人を前に、クロエは持ち前の朗らかな微笑みを浮かべる。その笑みを目にしたジェイドは、厳格な彼からは考えられないことに、涙を流したのだ。これには、目覚めたばかりのクロエも驚いてしまう。


「ジェイド様……泣いているの?」


「っ……済まない。もう一度、君の笑顔が見られたことが嬉しくて」


 人から心配されることに慣れているつもりのクロエだったが、これには何とも言えない気恥ずかしさを覚えた。


「……心配かけてごめんなさい」


「君が謝ることじゃない。全ては君を突き落としたあの女が悪いんだから」


 ジェイドは涙を拭い、早速使用人を呼び出すための鈴を鳴らそうとした。だが、クロエの細い腕がそれを阻む。


「……クロエ?」


「あの女、って、誰……?」


 クロエは淡い赤の瞳で戸惑うようにジェイドを見上げる。


「もちろん、アドリエンヌ・マクロンだ。君に……散々ひどいことをしたあの女だ」


「アディが私を……? 違うわ! 違うのよ……」


 クロエは軽く混乱したように視線を彷徨わせると、やがて痛みを思い出すように顔を歪めた。


「私を、私を突き落としたのは……そう――」


 クロエはとてつもない恐怖を思い出したと言わんばかりに、身震いした。


「――エリオットよ」


「……は?」


 ジェイドは使用人を呼ぶことも忘れて、クロエの告白に目を丸くする。段々と状況を把握し始めたらしいクロエは、焦るように視線を彷徨わせた。


「そう、私、あの日エリオットに突き落とされたの。私は、邪魔なんだって。アディを戸惑わせてばかりいるから、要らないんだって……」


 クロエははっとしたように、目を見開くと、咄嗟にジェイドに縋りついた。


「っ……ジェイド様、私に対する一連の嫌がらせもエリオットが……彼がやったのよ。アディに罪を着せて、厳格なあなたが、アディを手放すように……アディを一人ぼっちにさせて、エリオットだけに依存するように――」


「落ち着け、クロエ。確かにエリオットはアドリエンヌに惚れていたが、いくら何でもそこまでするような人間じゃないだろう。彼がいかに穏やかで優しい人物か、君だって知っているはずだ」


 ジェイドは恋人の尋常ではない様子を前にして、苦笑いを零す。彼女の言葉を否定するのは心苦しいが、あまりにも突拍子がない。


「アディだってそうだったわ。誰より優しくて素敵な人を、私たちは苛んだのよ。全ては、エリオットの策略によって……」


「……目覚めたばかりで混乱しているんだろう。ゆっくり休めば落ち着くはずだ」

 

 ジェイドはクロエが錯乱状態に近いのだと考え、すぐさま使用人を呼ぼうとした。一年も眠っていたのだ。無理はない。


 だが、クロエは話を終える気はなかった。縋るような眼差しを、ジェイドに向ける。


「……アディは? アディはどこにいるの? エリオットの傍にいちゃ、いけないわ」


「アドリエンヌなら、君の事故をきっかけに学園を去り、今はエリオットと結婚してロル侯爵領の屋敷で暮らしているはずだ」


「っ手紙を出すわ! ペンと紙を用意して!」


 クロエは鬼気迫った表情でジェイドに頼み込んだ。


 結局医師の診察を受けるのが先だとジェイドに諭され、ひとまず一通りの診察を受けることになったのだが、その夜、クロエは上手く力の入らない手で、必死にアドリエンヌに宛てた手紙をしたためたのだった。






『アディ、元気にしていますか。


 あなたには謝らなければならないことが沢山あるけれど、急いで伝えなければならないことがあるので、単刀直入に言います。


 エリオットの傍は危険です。私を突き落としたのは他ならぬ彼なのですから。


 この目ではっきりと見ました、神と亡きミレイユお姉様に誓ってもいい。


 もしかすると、一連の事件の主犯もエリオットなのではないかと私は考えています。


 手に上手く力が入らず、短い手紙でごめんなさい――』


「『――とにかく、会ってお話がしたいです。お返事をお待ちしています』か……」


 ロル侯爵領の屋敷、薄暗い寝室の中で、エリオットは月明かりの差し込む窓辺に佇んでいた。つい先ほどアドリエンヌに届いたばかりの手紙を確認したところだ。


「そっか……目覚めちゃったんだなあ、クロエ。止めを刺しておくべきだったかなあ」


 エリオットは震える文字で綴られた手紙を見下ろし、笑みを深める。


「まあ、僕にも幼馴染に対する情ってものが僅かながらにあったからね。ジェイドが上手くあしらってくれるといいんだけど……。嫌がらせの件を僕の仕業だって疑うなんて……クロエも案外馬鹿に出来ないね」


 ね、アディ、とエリオットが微笑みかけた先の椅子には、人形のように青白い顔をしたアドリエンヌが微笑んでいる。淡い金の髪がきらきらと月光を反射して、まるで一枚の絵画のように美しい光景だった。


「でも、君が心配することは何も無いよ。君は今まで通り、僕の傍で笑っているだけでいいんだ。僕がずっと、君を守ってあげるからね」


 エリオットが微笑んで彼女の頬を撫でれば、アドリエンヌはそれに応えるように微笑みを深めた。


 二人が結婚してからというもの、エリオットは「君の心を守るためだ」とアドリエンヌに言い聞かせて、彼女を殆どこの部屋から出さなかった。アドリエンヌもまた、それを疑問に思うことも、反抗するようなことも無く、ただただエリオットの言うままに、この部屋で人形のように暮らしていた。


 このところ、彼女が言葉を発することは殆どない。ただただ微笑み続け、時折「エル」と彼を愛称で呼ぶだけだ。


 その声の可憐さと言ったら、どんな素晴らしい音楽も及ばない気がしていた。言うまでもなくその微笑みはどんな絵画を見ているよりもエリオットの心を豊かにしてくれるし、彼女がここにいて、息をしているというだけで、この世の何より尊いもののように思えた。


 そう、これが、アドリエンヌを貶めてでも手に入れたかった、エリオットの理想の幸福の形だった。


 アドリエンヌの世界にいるのは、自分だけでいい。彼女の瑠璃色の瞳に映し出されるのも、自分だけでいいのだ。


 それは、幼いころから一度もぶれることなく抱き続けていた、エリオットの願いだった。アドリエンヌがこの部屋で人形のように暮らし始めてようやく、エリオットの歪んだ恋心は初めての安寧を得たのだ。


「アディはもう、どこにも行けないね……。でも、全部ぜんぶ、君が選んだことだよ、アディ?」


 アドリエンヌは、自らエリオットの手に堕ちたのだ。その決断に至るまでにエリオットは彼女を孤立させ、自らに依存させるようには仕向けたが、最終的にエリオットの手を取ることを決めたのは他ならぬアドリエンヌだ。


 そうせざるを得なかったアドリエンヌが何とも憐れで、愛おしい。何より、最愛の人が自ら自分の手に堕ちて来てくれたという事実が、どうしようもなくエリオットを満たした。


 ひどく満足そうに、恍惚にも近い笑みを浮かべて、エリオットは月影に照らされたアドリエンヌを眺める。溜息が出るほど美しい光景だ。この瞬間が、最も彼の心を満たすひと時だった。


 この部屋に閉じこもるようになってから、次第に虚ろな目をするようになったアドリエンヌだが、珍しく、エリオットの持っている手紙に目を止める。瑠璃色の瞳が、一瞬戸惑うように揺れた。


「……クロエ」


 震えるような文字だったが、アドリエンヌにとってそれがクロエの字であると判断するに支障はなかった。


 エリオットは穏やかな笑みを浮かべたまま手紙を握りしめると、傍で燃えていた小さな蝋燭の火で手紙を焼き切った。


 この部屋に必要なのは、アドリエンヌとエリオットの二人だけ。外の世界を思わせるものは、月影だけで充分だ。


 アドリエンヌの瑠璃色の瞳に、手紙が燃え盛る炎が映し出される。エリオットはその様子を見て微笑むと、席を立ち、小さな小箱を取り出した。


「そんなことより、今日は君に贈り物があるんだ。気に入ってくれるといいんだけど……」


 まるで恋人に初めて贈り物を送るかのような初々しさでエリオットが差し出した小箱の中に入っていたのは、白い骨だった。


 端的に言えば、人の右手の骨だった。骨格通りに並べられ、瑠璃色の布が貼られた台に丁重に収められている。


 それを目にしても、アドリエンヌの瞳は揺らがなかった。恐怖だとか忌避する気持ちだとかは、もうすでに、アドリエンヌの壊れた心には残されていなかったのだ。


 彼女はただぼんやりと、目の前に差し出された骨を見つめている。


「いやあ、骨格通りに並べるの苦労したよ。手の骨って意外に多いもんね。上下とか、順番とか……結構時間かかったんだよ。折角なら、君に綺麗な状態で見せたいなって思って」


 アドリエンヌは、微笑んでエリオットを見上げた。エリオットはどこか悪戯っぽく笑うと、彼女に問いかける。


「誰の骨だと思う? アディ」


 アドリエンヌは、やっぱりただエリオットを見つめていた。答える素振りはない。それはエリオットにも分かっていたので、間を置かずに答えを差し出す。


「正解は、君のお兄さんの右手だよ。君を散々殴った、あの右手」


 エリオットはアドリエンヌの左頬を労わるように撫で、くすくすと笑った。今は当然、そこに痣などはないが、かつてはそれなりの頻度で腫れあがっていたものだ。


 殴られ、頬が青黒くなったアドリエンヌが「大丈夫」と笑うたびに、エリオットは静かな殺意を募らせていった。


 そして長い時間をかけて蓄積されたその殺意は、ついこの間、ジェラルドの死によって解消されたのだ。夜盗に襲われ死亡したことになっているジェラルドだが、もちろん最後の留めはエリオットが刺した。


 アドリエンヌはエリオットの手の感触がくすぐったかったのか、目を細めて微笑みを深める。まるで猫のようなその仕草を愛らしく思いながら、エリオットは淡い金の髪を彼女の耳にかけてやった。それは幼いころから変わらない、彼の癖だった。


「お兄さんのこと殺しちゃったから、マクロン伯爵家は大騒ぎだ。あの家自体に恨みはなかったんだけど、ごめんね、アディ」

 

 エリオットはそっと席を立ち、アドリエンヌの椅子の後ろに回り込んで微笑むように囁いた。


 やがて、そっと腕を伸ばし、彼女の下腹部に触れる。


「温かいね、アディ」


 傍目にはまだわからない程度だが、アドリエンヌにお腹には新たな命が宿っていた。言うまでもなく、エリオットの子どもだ。


「幸せな家庭を作ろうね。子どもは三人は欲しいなあ……」


 新婚夫婦の会話としてはごく自然な、とても幸せな話題であるはずなのに、月明かりの差し込むこの部屋には、拭いようのない陰鬱さが漂っていた。


 月明かりを浴びながら、アドリエンヌは一粒の涙を零す。きらきらと月光を反射するその涙は、そのままぽたり、とアドリエンヌの瑠璃色のドレスに落ちていった。


「泣いちゃ駄目だよ、アドリエンヌ。ほら、いつもみたいに言って? 幸せだって、僕を愛しているって」


 背後からアドリエンヌを抱きしめるようにして、エリオットは促した。二人が結婚してからと言うもの、毎晩繰り返されてきたやり取りだ。


「……私、幸せよ。あなたを愛しているの、エル」

 

 微笑みながら告げられたアドリエンヌの言葉に、熱はない。ほとんど機械的に繰り返された文言だったが、それでもエリオットは恍惚の混じった微笑みを浮かべた。アドリエンヌの頭をひどく優し気な手つきで撫でながら、翳った紫の瞳で月光を見据える。


「ありがとう。僕も君を愛しているよ。何よりも、誰よりも、ずっと……」


 エリオットは、心の底から幸せそうに小さく溜息をついて、アドリエンヌの耳元で囁いた。 


「君の命が終わってしまうその時まで、変わらず愛し続けてあげるからね」


 瑠璃色の瞳は今夜も、月影と彼だけを映し出すのだった。

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彼とアドリエンヌの婚約破棄事情 染井由乃 @Yoshino02

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