第10話 決別

 決定的な事件が起こったのは、本格的な夏が到来した、ある夕暮れのことだった。


 その日、アドリエンヌは授業を終え講義室から出ようとしたタイミングで、名前も顔も知らぬ生徒から一通の手紙を受け取った。


 このところ、生徒たちの方からアドリエンヌに関わることは殆どと無かったと言ってもいいので、この出来事だけでもアドリエンヌを動揺させるには充分だった。


 講義室から離れ、人目を避けた廊下でアドリエンヌは手紙を開封する。


「……っ」


 手紙の主は、クロエだった。特徴的な丸みを帯びた字も、便箋から僅かに香る薔薇の香水も、全てクロエを連想させるには充分だった。


 内容は、至って簡潔なものだった。


『話があるの。今日の放課後、図書館裏の螺旋階段で待っているわ』


 図書館裏の螺旋階段。そこは、婚約破棄騒動以前、アドリエンヌがクロエと共によく過ごしていた場所だった。大きな窓があり、長い時間外にいられないクロエでも、外の景色を堪能できる二人だけのとっておきの場所だった。

 

 図書館裏に階段があることすら、殆どの生徒は知らないだろう。普通に生活していればまず、見つけようのない場所だったのだから。アドリエンヌとクロエがその階段を見つけたのは、本当に偶然だったと言ってもいい。


 人目のない場所ならば、アドリエンヌにとっても抵抗感は薄かった。クロエと二人きりで話すのは気が重いが、邪険に扱うほど嫌いになれたわけでもない。


 それに、もしもこの呼び出しにジェイドが関わっていて、アドリエンヌがクロエの誘いを無視しただなんて騒がれたら、余計にアドリエンヌの肩身は狭くなるばかりだ。


 つまりアドリエンヌには、断るという選択肢はなかった。手紙を上着に仕舞い込み、本が詰まった革製の鞄を片手に早速図書館裏の螺旋階段へと向かう。




 図書館裏の廊下は、窓から差し込んだ夕暮れによって真っ赤に染め上げられていた。眩しいほどに鮮やかな夕暮れだ。


 アドリエンヌは何度か目を瞬かせながら、こつこつと靴音を響かせて螺旋階段へと向かう。クロエは既に来ているだろうか。


「クロエ……?」


 螺旋階段の影が見えてきた辺りで、アドリエンヌはそっと彼女の名を呼んだ。良くも悪くも無邪気な彼女は、アドリエンヌの呼びかけを無視するなんて真似は絶対にしない。


 だが、一向に返事はなかった。子爵家以下と伯爵家以上の講義室は違うので、クロエの受けている授業が長引いている恐れもあった。


 それならば、かつてクロエとそうしたように、螺旋階段の上から外の景色を眺めて居よう。学園生活の終わりを見据えていたアドリエンヌは、どこか感傷的な気持ちと共にそう決意した。


 だが、薄く埃の積もった螺旋階段の前に足を運んだとき、アドリエンヌは感傷も夕暮れへの賛美も忘れて、息を呑むことになる。


「……ク、ロエ……?」


 燃えるような夕暮れの光を反射する螺旋階段の踊り場で、彼女はぐったりと横たわっていた。


 ふわふわとした真っ白な髪には少量の血が付着している。


「クロエ!?」


 アドリエンヌは鞄を床に投げ捨て、咄嗟に螺旋階段を駆け上がった。踊り場で眠るように横たわるクロエの体をそっと抱き起す。


「クロエ……? クロエ……!? どうしたのです? しっかりしてください!!」


 どくどくと、耳の奥で心臓の音が響いていた。クロエの前髪を掻き上げれば、額が僅かに切れている。出血の原因はその傷であるようだった。


「クロエ!!」


 いくら大声で名前を叫んでも、クロエはびくりともしない。どうやら息はしているようだったが、力なく投げ出された手足がどうにも不安を煽った。


 ……どうして? 階段を下りる途中で体調を崩してしまったのかしら。


 どのくらいの高さから転がり落ちたのかは分からないが、一刻を争うことは確かだった。このままここで嘆いてばかりもいられない。アドリエンヌはクロエを再び床に横たえると、再び立ち上がった。


 ここは、運よく誰かが通りかかってくれるような場所ではないのだ。アドリエンヌが人を呼びに行かなければ、いつまで経っても助けは来ない。


 クロエを一人ぼっちにするのは心苦しかったが、今は感情に振り回されている場合ではない。


「……ごめんなさい、クロエ。すぐに戻ります」


 眠るように瞼を閉じたクロエを一瞥して、アドリエンヌは螺旋階段を駆け下りた。手っ取り早く、図書館の司書を呼ぶのがいいだろう。


 滅多に走ることも無いアドリエンヌが、早速駆け出そうとした瞬間、不意に背後から声がかかる。


「アドリエンヌ?」


 冷たい響きのあるその声は、ジェイドだった。彼の背後には何人かの取り巻きともいうべき貴族子息や令嬢たちが付き従っている。


 クロエを助けたい一心だったアドリエンヌは、躊躇うことなく声のした方を振り向く。


「っ……ジェイド様!」


「こんなところで何をこそこそとしている……?」


 ジェイドが螺旋階段の前まで歩み寄る。それはアドリエンヌも問いたいところであったが、今はそれよりも優先すべきことがある。アドリエンヌはすかさず声を上げた。


「っ……人を、人を呼んでください。クロエが頭を打って……!」


「クロエが?」


 ジェイドは何気なく螺旋階段を見上げたが、その瞬間、滅多に揺らがない青色の瞳が激しく動揺する。


「っ……クロエ? クロエ!!」


 ジェイドはすかさず螺旋階段を駆け上がり、彼女の体を抱き起した。先ほどのアドリエンヌの行動をなぞるような動きだ。


「あなたたちはお医者様を呼んでください……!」


 アドリエンヌはジェイドの学友たちに手早く指示を出すと、自身も人を呼ぶべく駆け出す。こういうときには人手が多い方がいい。


 アドリエンヌはこの一件が更に彼女を追い詰めることになるとも知らず、ただクロエの命を救いたい一心で駆け回ったのだった。


 


「……クロエは一命を取り留めた」


 翌日、居てもたってもいられずにクロエの屋敷であるイベール子爵家を訪ねたアドリエンヌに応対したのは、ジェイドだった。


 子爵家はマクロン伯爵家よりもかなり小ぢんまりとしているが、手入れの行き届いた品の良い屋敷だ。アドリエンヌも何度も遊びに来たことがるので、この屋敷のことはジェイドよりもよほど知っている。


「っ……良かった、良かったです」


 思わず目に涙を滲ませるアドリエンヌの肩を、エリオットがそっと抱き寄せる。エリオットも当然、クロエの身に起こった出来事はアドリエンヌから昨日のうちに伝え聞いている。


「一目、一目でいいのでクロエにお会いすることはできますか……?」


 以前のような親友同士には戻れないとはいえ、アドリエンヌにとってクロエはどうあったって幼馴染なのだ。別れを告げようとした相手ではあるのだが、夕暮れの中でぐったりと瞼を閉じるクロエの姿ばかりが思い起こされて、良くも悪くも無邪気な彼女の笑顔を見て安心したいという気持ちが勝っていた。


 だが、ジェイドの顔は苛立つように歪められる。エリオットはアドリエンヌの肩を抱いたまま、そっと助け舟を出した。


「……ジェイド、僕だってアディを君たちに関わらせたくないけど……こればかりは例外じゃないか。アディは純粋にクロエのことを心配しているだけだ」


「駄目だ」


 ジェイドはエリオットの言葉ごと、アドリエンヌの頼みをあっさりと断った。


「……融通の利かない男は嫌われると思うよ?」


 エリオットが小さく笑うようにジェイドを見つめたが、ジェイドの青色の瞳はただただ翳っていた。


「……会わせるも何も、彼女は未だ目を覚ましていない。一命を取り留めただけだ」


「え……?」


 これにはアドリエンヌもエリオットも息を呑む。ジェイドは並々ならぬ憎悪を宿した瞳で、アドリエンヌを睨みつけた。


「いつ目覚めるかも分からないと言われた。王国中の医療技術をかき集めて何とか彼女の命を保っているが……二度と目覚めないかもしれない」


「そんな……!」


 見た限りでは出血量はそう多いようには思えなかった。打ち所が悪かったのだろうか。


 だが、続くジェイドの言葉に、アドリエンヌは一層絶望の淵に立たされることになる。


「――君がやったんだろう、アドリエンヌ」


 ジェイドは射殺さんばかりの鋭い目で、アドリエンヌを睨んでいた。それは最早憎悪というよりも、殺気に近い感情だった。


「君が、クロエを螺旋階段の上から突き落としたんだろう?」


「まさか!! そんなことあり得ません!!」


 アドリエンヌは叫んだ。いくらクロエに対してこのところは良い感情を抱いていなかったとはいえ、階段から突き落とすほどの恨みがあったわけではない。


「あの階段は君とクロエがよく一緒に過ごした場所だとクロエから聞いていた。それに……クロエの上着から、君の筆跡で書かれた手紙が出てきたぞ。放課後にあの場所でクロエのことを待っているという旨のな」


「っ……そんな、呼び出されたのは私のほうです。何かの間違いですわ」


「この期に及んでまだ言い訳をするのか。見下げ果てた女だ」


「ジェイド、いくら何でもそれだけでアディを犯人扱いするのはどうかと思うよ」


 エリオットはアドリエンヌを庇うように引き寄せたが、ジェイドは薄く笑っただけだった。


「……どうだろうな。お前には動機がありすぎる、アドリエンヌ。公には裁くことが叶わなかったとしても……俺は一生お前を許さない。この先、幸福に生きられると思うなよ……」


「っ……」


 殆ど脅迫めいたジェイドの言葉に、ただでさえクロエの状態を聞いて追い詰められていたアドリエンヌは、壊れかけていた心に新たなひびが走っていくのを感じた。それはもう止めようもなく、アドリエンヌの心を再起不能な場所まで導こうとする。


「殺されたくなければ、もう二度とクロエの前に姿を現さないでくれ。もちろん、俺の前にもだ」

 

 言葉通り、並々ならぬ殺意を伺わせる瞳で、ジェイドはアドリエンヌを睨んだ。


 その瞬間、アドリエンヌは、今度こそ心が壊れる音を聞いた。


 何がきっかけだったのかは分からない。ただ、クロエが目覚めないかもしれないという衝撃、彼女を殺そうとした犯人に再び祀り上げられようとしている恐怖、ジェイドから向けられる鋭い殺意、その全てが、アドリエンヌの心を元には戻らないところまで壊してしまった。


 そのままふらり、とアドリエンヌは応接間の出入り口の方へと向かった。エリオットが何やら呼びかけていたが、それすらアドリエンヌの耳には届かなかった。


 戸惑うような使用人たちの視線を受けながら、アドリエンヌはイベール子爵邸を後にした。恐らくもう二度と、この屋敷に足を踏み入れることはないのだろう、という確かな予感と共に。


「アディ!」


 アドリエンヌを追いかけてきたエリオットの声に彼女が反応したのは、屋敷から離れて、木陰に足を踏み入れた時だった。夏が生み出す濃い影が、彼女をそっと包み込む。


「アディ、ジェイドの言うことは真に受けなくてもいい。証拠なんてないんだ。あいつも気が立っているだけで――」


 エリオットは必死にアドリエンヌを慰めようとしたが、彼女は影の中で小さく笑うだけだった。その笑みは、今まで彼が見てきたどんな表情とも違う、何かが吹っ切れてしまったような笑みだった。


「……アディ?」


 不安げなエリオットの声に、アドリエンヌは一層笑みを深め、そっと彼を見上げる。瑠璃色の瞳はどこか虚ろだったが、それでも息を呑むほど美しいことには変わりなかった。


「……エリオット……私を、連れ出してください」


 静かな、とても静かな声だった。まるで囁くような彼女の声は、どことなく不安定で、エリオットは戸惑うようにただアドリエンヌを見つめる。


「……いいの? アディ」


 詳しい言葉を述べなくとも、アドリエンヌにはエリオットの問いかけの真意は伝わっていた。アドリエンヌは微笑みを浮かべたまま小さく頷いて見せる。その拍子に、ぽたぽたと涙が零れ落ちた。


「もう、もういいのです……クロエのこともジェイド様のことも……。私が関われば関わるほど、平穏は遠ざかり、関係は拗れるばかりですもの。もう……もう疲れてしまいました」


「アディ……」


 エリオットはそっとアドリエンヌを抱き寄せ、彼女の涙を拭った。アドリエンヌは大粒の涙を流しながらも、再びエリオットを見つめる。


「それにね、エリオット」


 アドリエンヌは彼を見上げたまま、端整な微笑みを浮かべた。思わず溜息の出るほど美しい笑みだったが、虚ろな目が醸し出す不安定さが、相手に緊張を強いるような、そんな微笑みだった。


「何より私、自分が恐ろしいのです。クロエがこんなことになって、少しだけいい気味だと思ってしまっている自分が……。私を裏切り、疑ってばかりいるから当然の報いだと思っている自分が……怖くて……本当に恐ろしくてなりません」


 アドリエンヌはエリオットにしなだれかかるようにして、自嘲気味な笑みと共に続けた。


「私は、いつからこんなにも歪んだ、醜い感情を抱くようになってしまったのでしょう。自分でもそれが分からないのです。分からないのが怖いのです。ねえ、エリオット、今はいい気味だと思っているだけのこの感情が、いつか恨みや殺意に変わってしまったらと思うと、私は――」


「――大丈夫だよ、アディ」


 エリオットはアドリエンヌをそっと抱き寄せ、彼女の耳元で囁くように告げた。


「君がいくら歪んでいようが醜い感情を抱こうが、その全部をひっくるめて僕は君を愛している。世界中の何よりも、誰よりも、君を愛しているんだよ、アディ」


 エリオットの甘い言葉は、今のアドリエンヌにとってまるで麻薬のようだった。心の傷が訴える痛みを消してくれるけれど、傷を癒すわけではない。けれども痛くて痛くて仕方がないから、彼の毒のような甘い言葉に縋るしかない。

 

「……私には、あなただけです、エリオット」


 涙に濡れた瞳でアドリエンヌが微笑めば、エリオットはその目尻にそっと口付けた。熱に浮かされたように感じるのは、きっと彼の麻薬のような言葉の副作用だ。


「僕にも君だけだよ、アディ。……最初から、最後まで、僕にはずっと君だけだ」


 エリオットは一層強くアドリエンヌを抱き寄せると、彼女の細い体を骨が軋むほどに強く掻き抱いた。アドリエンヌはされるがままに、そっと彼の肩に頭を預ける。


「……嬉しいな、アディ。この瞬間を、僕はずっとずっと待っていたんだよ」


 エリオットは、恍惚の混じった声で笑った。


「ねえ、アディ、ようやく君は――」


 そのままアドリエンヌの後頭部に手を当て、彼女には見えない位置で、彼は端整な笑みを深める。


 それは、翳った瞳には似合わない、ひどく満ち足りたような笑みだった。


「――僕だけのものに、なってくれるんだね」

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