第4話 アドリエンヌの決意

 婚約破棄騒動から一週間。


 相変わらずアドリエンヌは学園では好奇の目に晒され、屋敷では兄の冷たい視線に耐える日々を送っていたが、彼女の心はようやく一応の落ち着きを取り戻していた。


 もちろん、婚約者と親友を失った傷が癒えたわけではない。自分を貶めた犯人に対する憎悪だってちゃんと残っている。


 それでも、泣いてばかりはいられない、と前を向く気になったのは、アドリエンヌの傍に常にエリオットが付き添っていたためかもしれない。


 侯爵家の仕事に追われているエリオットだったが、この一週間は毎日学園に足を運び、殆どの時間をアドリエンヌと過ごしていた。


 アドリエンヌにとってエリオットは、これ以上ない心強い味方であったが、それでも始めの内は不安に駆られていた。学園の外れ者となってしまった自分と共に過ごしていては、エリオットにまで謂れのない非難が浴びせられるのではないかと気が気ではなかったのだ。


「……無理して私と一緒にいることはありませんのよ。エリオットが私の味方でいてくださることは、誰より私が分かっておりますから」


 本当は、傍にいてくれたらどれだけ心強いか分からない。でも、今となってはたった一人の友人となってしまったエリオットに苦しい思いはしてほしくなかった。その一心で、エリオットにそう切りだしてみたことがある。


「僕がアディの傍にいたいからいるだけだよ。学園に入ってから、アディはジェイドと一緒にいることも多くなっていたから……昔に戻ったみたいで嬉しいんだ。こうやって、アディと二人きりで過ごすのが」


 エリオットは端整な顔立ちにどこか悪戯っぽい笑みを浮かべて、やんわりとアドリエンヌから離れることを拒否した。


 包み隠さず好意を伝えてくるエリオットに、アドリエンヌは戸惑いを隠しきれなかった。


 ……エリオットは、なんて優しい人なのだろう。学園から見放されようとしている私にも、こうして手を差し伸べてくれるなんて。


 すっかり緩くなった涙腺から、またしても涙が零れそうになるのを必死で誤魔化しながら、アドリエンヌはエリオットに笑いかけた。


「……エリオットと幼馴染で良かった。あなたはいつだって、私が欲しいと思う言葉をくださるのですね」


 今だけではない。エリオットは昔からそうだった。兄にいじめられたときも、些細なことでクロエと喧嘩したときも、一番欲しい言葉をくれるのはエリオットだった。つまりそれだけ彼は、アドリエンヌの気持ちに寄り添ってくれていたということなのだろう。


 その優しさに甘えてばかりいるのは心苦しいが、アドリエンヌは彼の手を借りて少しずつ少しずつ冷静さを取り戻していった。


 やがて頬の腫れも引き、騒動から一週間がたった今、ようやく前を向く決心がついたのだ。


「エリオット、私……私を貶めた犯人が誰なのか、調査してみようと思うのです」


 すっかり恒例となった裏庭での昼食を終えた折に、アドリエンヌは思い切ってエリオットに打ち明けた。寂れたベンチに並んで座った二人の間に、爽やかな風が吹き抜け、アドリエンヌの淡い金の髪を揺らす。


 エリオットは僅かに目を見開いたが、やがてふっと穏やかな微笑みを浮かべた。


「うん……アディならきっとそうするんだろうな、って思ってた」


「ふふ、エリオットには何でもお見通しですね」


 アドリエンヌはエリオットの隣で笑みを深める。エリオットは、いつだってアドリエンヌの欲しい言葉をくれる幼馴染なのだ。アドリエンヌの考えを見抜くくらい、容易いことなのだろう。


「……でも、調査をして犯人が分かったところで、どうするの? ジェイドと婚約を結び直せるかは分からないよ? もしかするとただ、君が傷つくだけの結果に終わるかもしれない」


 エリオットはアドリエンヌの小さな手を両手で包み込みながら、憂いを帯びた表情で告げた。


 彼の言うことはもっともだった。今更アドリエンヌの身の潔白が明らかになったところで、貶められた事実は事実。あの厳格なジェイドが、再びアドリエンヌに手を差し伸べるとは考えにくかった。


「……ジェイド様のことはもう、いいのです」


 アドリエンヌは弱々しい笑みで口を開いた。ジェイドへの想いが完全に吹っ切れたかと言われれば、もちろんそうではないのだが、警戒心の足りなかった自分にも非があったと思えば、もうどうにもならないことなのだと受け入れるだけの心の余裕が出来始めていた。


「でも……クロエのことは諦めたくないのです。彼女がジェイド様と陰で逢引をしていたことには複雑な想いがありますけれど……そのあたりも含めて、私は彼女ともう一度お話がしたいのです。あのときのクロエは、手鏡を割られたショックで取り乱していただけで……私が犯人ではないと明かすことが出来たのなら、お互いの間にある誤解を解くことも、もしかしたらきっと――」


「――アディ、クロエは君からジェイドを奪ったんだよ? 今更、前みたいに仲良くできると思っているの?」


 エリオットは信じられないとでも言うようにアドリエンヌを見つめた。普段穏やかな幼馴染の鋭い視線を受けて、アドリエンヌは軽く俯いてしまう。


「……仮に元通りになれなくてもいいんです。私が彼女を虐めたわけではないのだと、せめて彼女にだけは知っていてもらいたい……その一心です」


 この甘さこそが今回の騒動に繋がった一因であると言われたら、その通りとしか言えない。だが、これを機に完全にクロエとの縁が切れてしまうのは、アドリエンヌにとってあまりにも大きな損失だった。それくらいに、アドリエンヌにとってのクロエは大切な大切な親友だったのだから。


「君は疑うことを知らなすぎる。今回の騒動だって、もしかしたら彼女が――」


 エリオットは我慢ならないとでも言いたげに口を開いたが、真っ直ぐに彼を見上げるアドリエンヌの瑠璃色の瞳を見て口を噤んだ。彼はそのまま迷うように視線を彷徨わせたが、やがて小さな溜息をつく。


「……いや、分かったよ。アディがそのつもりなら、協力する。僕に出来ることがあれば何でもするよ」


「ありがとうございます、エリオット。心強いですわ」


 アドリエンヌの嬉しそうな微笑みを見て、エリオットもまた、どこか毒気が抜かれたような笑みを浮かべた。


「……やっぱりアディには誰かついていないと不安だな」


 苦笑交じりにぽつりと零されたエリオットの呟きは、初夏の風に攫われてアドリエンヌの耳には届かない。


「何か仰いましたか?」


「いや、アディはそうやって無邪気に笑っているほうがいいなあ、って思っただけ」


「無邪気、ですか……。学園の皆さんには、あまり言われたことはありませんが、エリオットからは私はそのように見えるのですね」


 「瑠璃姫」とまで呼ばれるアドリエンヌの凛とした美しさを見て、彼女を無邪気だと評する人は少ないだろう。くっきりとした瑠璃色の瞳には強い知性が感じられるし、実際その通りではあるのだが、幼い頃、クロエやエリオットに見せていた朗らかさが今も彼女の中で生きているのは確かだった。

 

「うん。僕にとってはいつまで経っても可愛いアディだよ」


「ふふ、幼い頃可愛らしかったのはむしろエリオットのほうですのに。まるで天使のようでしたわ。銀色の髪がきらきらしていて、紫色の瞳を私とお揃いだと喜んでいたではありませんか」


「随分昔のことを持ち出すんだね……」


 どこか苦々しい表情で笑うエリオットを見て、アドリエンヌもくすくすと笑う。実に一週間ぶりの、穏やかな時間だった。


 幼い頃のアドリエンヌとエリオットの瞳は、一見すればとてもよく似た色合いだった。成長するにつれて瑠璃色と紫色にはっきりと分かれてしまったが、かつては今よりもっと曖昧な色合いだったのだ。


 アドリエンヌによく懐いていたエリオットは、自分の瞳の色がアドリエンヌとよく似ていることをそれは喜んでいた。それを傍で見ていたクロエが「私も二人とおんなじ色が良かった」と拗ねるところまでが恒例のやり取りだったのだ。


「……あの頃は、良かったですわね。三人で過ごす時間が、幼い私の世界の全てでした」


 穏やかで心優しいエリオットと、儚げなようで実は一番お転婆なクロエ。病弱なクロエに配慮して外で遊ぶようなことは殆どなかったが、三人で過ごせば屋内でもまるで陽だまりの中にいるような、そんな安らかな気持ちになったものだ。

 

 あの頃は、こんな風にすれ違うことになるだなんて思ってもみなかった。いつまでも三人で笑い合っていられるものだと信じていたのに。


「……僕はずっと傍にいるよ、アディ」


 気遣うように向けられたエリオットの視線を受け、アドリエンヌはにこりと笑みを深める。前を向くと決めたのだ。彼女の傍に寄り添ってくれる優しい幼馴染のためにも、泣き言ばかり言ってられない。


「ありがとうございます、エリオット。あなたがいてくださって良かった」


 心からの感謝を込めてアドリエンヌはエリオットに微笑みかけた。正に「瑠璃姫」の名にふさわしいその美しい微笑みを前にして、エリオットは小さく笑いながらも、視線を彷徨わせる。


「……そう言ってもらえると、僕としても嬉しいよ」


 アドリエンヌは彼の耳の端が僅かに赤くなっていることに気づいて、彼女もまた軽く視線を伏せた。どうやら彼の戸惑いが伝染してしまったらしい。


 この一週間で二人の距離は幼い頃と遜色ないほどに縮まっていたが、このような戸惑いは幼いころには無かったものだ。傍から見れば勘違いされてしまいそうな光景だ、とアドリエンヌは心の中で小さな反省をした。


 少しずつ変化していく。三人の関係もアドリエンヌの心の中も。


 その予感を感じながら、早速アドリエンヌは自身の潔白をクロエに証明するために動き出したのだった。

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