第5話 疑念

 それからというもの、アドリエンヌはクロエに対する嫌がらせについて調べていた。


 調査とは言っても、アドリエンヌはクロエを苛んだ事件の全てを知っているわけではない。それこそ、婚約破棄を言い渡されたあの日に、ジェイドが簡単に説明した内容しか知らないのだ。


 クロエの取り巻きと化している令嬢たちに話を聞くことが出来れば、より情報を得られるのかもしれないが、今や学園の殆どの生徒に無視を決め込まれているアドリエンヌには至難の業だった。


 そうなると、手掛かりになるものは限られている。あの日、中庭でジェイドが投げつけた手紙と手鏡だ。クロエが倒れてしまった騒ぎの中で、唯一アドリエンヌが回収できたものはそれだけだった。


 恐らく手紙に関してはこれだけではないのだろう。アドリエンヌを疑っているジェイドが、証拠の全てを彼女の前に置き去りにするはずもないのだから。


 ……それにしても、見事な出来栄えね。


 アドリエンヌは彼女の名前を騙った手紙を読み直しては、溜息をついた。


 ジェイドやクロエが見ても、アドリエンヌの手紙だと信じてしまうほどに精巧な偽造が施された代物なのだ。エリオットに手紙を見せたときには、アドリエンヌを心から信じている彼でさえ、一瞬戸惑うようにアドリエンヌを見たほどだ。


 手紙から香っていた香水はかなり薄れてしまったが、あれだって確かにアドリエンヌの愛用のものだった。甘い花の香りがする香水は、いつかの誕生日にクロエがアドリエンヌに贈ったものなのだ。


 クロエが選んでくれたものだから、と、アドリエンヌはクロエに貰った分が無くなった後も、同じものを使い続けていた。アドリエンヌにとってはすっかり思い入れのある香りなのだ。

 

 アドリエンヌとすれ違えば、この甘い香りがほのかに香ることもあっただろうが、だからと言って同じ香水を用意するのは至難の業だ。アドリエンヌの筆跡をこれ以上ないくらい真似た手紙といい、一連の犯行はアドリエンヌに近しい者の協力を得られなければ出来ないことばかりだ。


 アドリエンヌは学園の人気者だったが、友人と呼べる相手は限られていた。それも、アドリエンヌの筆跡を完璧に模倣することができ、香水の種類にまで精通している人物となると限られてくる。


 それこそ、ジェイドやクロエ、エリオットくらいしかいないのだ。学園の外に目を向ければ、アドリエンヌ付きのメイドのロザリーや何人かのメイドたちも候補に上がるが、それにしたって数は限られている。


 親しい人たちを疑うのは心苦しい。それだけでも体が重くなるほどに、心が疲弊するのが分かる。


 屋敷のメイドたちが何者かの依頼を受け、アドリエンヌを騙った手紙を偽装したという線は無難だが、まさか一人一人を尋問にかけるわけにもいかない。行動を起こすにはあまりにも情報が少なすぎる。


 とはいえ、調査を進めようにもアドリエンヌと話をしてくれる生徒など、この学園にはもうエリオットしかいないのだ。どうにかしてクロエに身の潔白を証明したいと思うのに、その道筋すら見えない現状にうんざりとしてしまった。


 アドリエンヌは誰もいない学園のサロンの片隅で小さく溜息をつくと、手持ちの鞄の中から小さな革袋を取り出した。中にはあの日、ジェイドに投げつけられた割れた手鏡が入っている。


 円状の手鏡は粉々に割れており、とても使い物にはならない。だが、繊細な花模様が描かれた木枠自体は無事なため、何とか修復できるのではないかとアドリエンヌは考えていた。


 正直に言って、この鏡の割れ方は故意によるものなのか、それとも不注意によるものなのかは分からなかった。クロエの言う通り、彼女がアドリエンヌに上着を預けた際に、アドリエンヌが何かの拍子に鏡を傷つけてしまった可能性も完全に否定できない。


 嫌がらせされている状態でそのような悪い偶然が起これば、クロエがアドリエンヌを疑うのも自然だろう。


 この鏡がクロエの亡き姉の形見であることは、本当にクロエとアドリエンヌしか知り得ないことなのだ。だが、当然アドリエンヌは割っていない。加えて、学園の生徒にとってこの手鏡が壊す価値のある代物に見えない以上、偶然割れてしまった可能性も十分にあるとアドリエンヌは踏んでいた。


 ……あるいは、クロエ自身がという線も――。


 そこまで考えて、やめた。アドリエンヌはたった今浮かんだ疑念を、必死に頭の隅に追いやりながら、鏡に向き直った。


 考えごとに行き詰ったときには、この鏡を修復するのがこのところのアドリエンヌの習慣だった。ただぼんやりとして嘆くよりは、何か生産性のあることをしていた方がずっといい。


 幼いころからクロエのために屋内で過ごすことが多かったせいか、アドリエンヌは絵を描いたり、刺繍をしたりといった細々とした作業に長けていた。手先が器用なのだ。早速、細い指先で、辛うじて木枠に残っている鏡の欠片を取り除いていく。


 流石に粉々になった鏡の欠片を繋ぎ合わせることは出来ないので、鏡自体は新調する必要があった。こればかりは職人に注文せねばならない。

 

 慎重に鏡の欠片を取り除いたところで、鞄からハンカチを取り出し、木枠についた汚れを拭った。鏡の欠片と一緒に保管していたせいで所々傷ついてしまっているが、使用する分には問題なさそうだ。


 もっとも、この鏡を修復したところで、クロエが受け取ってくれるかどうかは別の話なのだが。


 クロエはアドリエンヌがこの鏡を割ったと信じているのだ。修復して手渡したところで、何を今更と気味悪がられるだけかもしれない。――今までずっと親友として仲良くしてきたクロエに、そこまで嫌われているとはアドリエンヌとしても思いたくないところだが。


「こんなところで何をしている?」


 不意に冷たい響きのある青年の声に呼びかけられ、アドリエンヌは鏡の修理に集中していた姿勢から勢いよく顔を上げた。


 誰もいないはずのサロンの中心には、よりにもよって今一番アドリエンヌが会いたくない人物が立っていた。


「っ……ジェイド様」


 アドリエンヌは慌てて立ち上がり、その場で慎ましく礼をした。こんな状況でも挨拶をしないわけにはいかない。ここが貴族社会の縮図のような学園であることも勿論だが、一人の人間として相手に礼節を欠くような真似はしたくなかった。


 ジェイドはたった一人でサロンに赴いているようだった。普段は友人や、取り巻きに近い生徒に囲まれていることが殆どなのに、珍しいこともあるものだ、とアドリエンヌは目を瞬かせる。


 何とも言えぬ居心地の悪さを感じ、アドリエンヌはサロンの出入り口を眺めた。ジェイドがドアを背にするようにして立っているため、この場から立ち去るには彼に近付かなければならない。


 それは何とも耐えがたいような気がして、アドリエンヌは気まずさに耐える決断をした。ジェイドのほうから立ち去ってくれればどんなにいいか分からない。

 

 たっぷり数十秒の沈黙の末、ついにジェイドは口を開いた。


「……このところ君は、クロエの周りを探っているらしいな」


 いつも通りの冷静な声。アドリエンヌと過ごしているときはもう少し穏やかな話し方をしていたが、今は余計な感情を一切感じさせない厳格な雰囲気が漂っていた。


 クロエの周りを探っていると言えるほど、調査は進んでいない。むしろまだ何もかも推測の域を出ない状況なのだ。


 何と答えるべきか逡巡しているうちに、ジェイドが畳みかけるように口を開く。


「非常に不快だ。彼女の周りに近寄らないでくれるか」


 容赦のない拒絶の言葉に、アドリエンヌはぎゅっと手を握りしめ、動揺を悟られないように努めた。


 だが、アドリエンヌの抵抗も空しく、ジェイドは細かく震えるアドリエンヌの指先を見て、呆れたと言わんばかりに溜息をつく。


「何だ? 悲劇のヒロインぶっているのか? 何もかも君が招いた事態だろう?」


「……いいえ、私はクロエに嫌がらせなんてしておりません」


 これだけは、譲れなかった。どれだけ過酷な言葉を投げつけられようが、この言葉だけは譲るつもりはなかった。


「まだ言うのか……。言っておくが、この先どんな事態になろうが、俺は君と婚約を結び直すつもりは毛頭ないぞ。仮に君の言う通り、これが誰かの策略で起こったことだとしても……あっさり罠にかかるような婚約者は、我がレニエ公爵家には相応しくない」


 ジェイドの言葉は、何もかもアドリエンヌの予想通りだった。それこそ、笑ってしまうくらいに。


 ……本当に、どこまでも厳格な人。


 公爵家の次期当主としては相応しい発言なのかもしれないが、ジェイドのアドリエンヌに対する情は、一度の失敗を看過できない程度のものだったのだと改めて思い知らされたようで、アドリエンヌは初恋が跡形もなく砕け散っていく音を確かに聴いた。


「ええ……もう、いいのです、それで。ジェイド様の仰る通り、私がレニエ公爵家に相応しくなかったことは確かでしょうから」


 軽くはにかむように告げたアドリエンヌだったが、ジェイドの視線が一層鋭くなったことに気づいて、思わず息を飲んだ。


「……物分かりがいいのは昔からだが……婚約破棄すらあっさりと受け入れるんだな。君には情というものはないらしい」


 これにはアドリエンヌも驚きを隠しきれなかった。今までの会話からして、どちらかと言えば情が薄いのはジェイドのほうだと思っていたからだ。


「私が泣きわめいて婚約破棄を撤回してくれとでも頼めば、考えがお変わりになるのですか?」


 思わず皮肉気にアドリエンヌが問えば、ジェイドは苛立ちを隠さずにアドリエンヌを睨みつける。


「本当に……可愛くない女だ。美しいのは見目だけだな」


 吐き捨てるように告げると、ジェイドは「話はそれだけだ」と付け加えて、踵を返す。どうやら本当に、アドリエンヌがクロエの周りに近付かないよう牽制に来ただけのようだ。


 そのままサロンから姿を消すかと思われたジェイドだったが、出入り口に立ち尽くす背の高い青年を見て、足を止めた。


「……エリオット」


 先に彼の名を呼んだのは、アドリエンヌだった。エリオットはアドリエンヌとジェイドを交互に見比べるようにして、状況を把握しようと努めているようだった。


「エリオットか。久しぶりだな」


 ジェイドは薄く笑いながらも、物腰だけはあくまでも穏やかにエリオットに語り掛ける。エリオットの紫の瞳が、ジェイドを捉えた。


「……僕としては、君と顔を合わせたくなかったんだけど」


 普段穏やかなエリオットだが、今ばかりはジェイドのことを睨みつけていた。これにはジェイドも多少ながら狼狽えたが、すぐに嘲笑に近い微笑みを取り戻す。


「アドリエンヌに順調に誑かされているようだな。ロル侯爵家の未来を思うなら、付き合う友人は考えた方がいいぞ」


「余計なお世話だ。君はさっさとクロエの所にでも行ってあげなよ、ジェイド。今頃君がいなくて泣いているかもしれないよ」


 エリオットの言葉は、クロエを溺愛するジェイドをからかうようなものだった。ジェイドは不快そうに顔を歪めるも、そのままアドリエンヌの方を振り向くことも無く、今度こそサロンから立ち去ってしまう。

 

 あとに残されたのは、呆然と立ち尽くすアドリエンヌとエリオットだけだった。


「アディ……大丈夫? ジェイドに何か嫌なことを言われたんじゃ……」


 ジェイドに向けていた態度とは打って変わって、整った眉尻を僅かに下げながら、エリオットはアドリエンヌの顔を覗き込むようにして彼女に近寄った。アドリエンヌは曖昧な笑みを浮かべながら、至って気丈に答える。


「私がクロエへの嫌がらせの一件を調べていることが、気に食わなかったようです。仮に私の身の潔白が証明されたところで、私と婚約を結び直す気もない、と」


「……本当に、笑わせるな。こっちだって、今更君をあいつの元へ帰す気なんて無いってのに」


 まるでアドリエンヌを保護するかのようなエリオットの物言いに、アドリエンヌは何とも言えぬ気恥ずかしさを感じた。


 それだけ彼がアドリエンヌの肩を持ってくれていると思えば嬉しいことに違いないのだが、ただ純粋な意味だけで受け取るには、お互い年を重ねてしまっている。


「ふふ、ありがとうございます、エリオット。やっぱりあなたはお優しいのですね」


 アドリエンヌは先ほどまで座っていた席に戻り、そっとクロエの鏡の欠片を手に取った。今日にでも、職人にこの木枠に合うような鏡を作ってもらうように依頼しよう、そんな決意を固めながら。


 だが、割れた鏡に映るエリオットの表情がやけに翳っていることに気が付いて、アドリエンヌはそっと顔を上げた。


「……それ、クロエの鏡?」


 エリオットは、静かな声で問う。アドリエンヌはにこりと微笑みながら、手早く鏡の欠片を回収した。


「ええ、木枠自体は無事なようですし、鏡さえ発注すれば修繕できそうだと思いまして。……お姉様を映し出していた鏡自体を修復できないことは、残念ですけれど」


 指先を傷つけないよう細心の注意を払って欠片を布袋に収納したところで、エリオットはぽつりと呟いた。


「……何で、君は、傷つけられても寄り添おうとするのかな」


「え?」


 エリオットらしからぬ、僅かな苛立ちの滲んだ声に、アドリエンヌは僅かな驚きとともに再び顔を上げた。彼はアドリエンヌとの距離を詰めると、どこか思いつめたような表情を見せる。


「……こんなこと、あんまりアディに言いたくなかったけど……でも、君がいつまでも壊れた友情に縋るのは見ていられなくなってきたから、思い切って言うね」


 エリオットはそっとアドリエンヌの手を取って、彼女の目をまっすぐに射抜いた。


「……アディ、この一連の事件は、クロエが引き起こしたことなんじゃないかな」

 

 エリオットの言葉に、アドリエンヌは凍り付いたように動けなくなった。ジェイドが去って収まっていたと思っていた指先の震えが再来する。


「……何を、馬鹿なことを仰っているの、エリオット」


 取り繕うような笑みを共に、アドリエンヌは彼の言葉を否定する。だが、その表情は驚きから来るものというよりは、痛いところを突かれた、というべきもので、エリオットは更に彼女に詰め寄った。


「馬鹿なことって……アディだって気付いているんだろう? アディを騙るあんな手紙を捏造できるのは、君の傍にいる人間しかいないって。それに加えて君を貶めるだけの動機がある人物と言ったら……それこそクロエしか思いつかないじゃないか」


「……私を貶めるため、と決めつけてしまうのは早計な気もします。我がマクロン伯爵家に恨みを持つ人の犯行かもしれませんもの」


「確かに、決めつけるのは良くないのかもしれないね。でも、クロエが怪しいことは胸に留めていおいた方がいいよ」


 エリオットは、そっとアドリエンヌの細い肩に手を置く。アドリエンヌは瑠璃色の瞳を揺らがせて、愁いを帯びたエリオットの表情を見上げた。


「クロエが、君からジェイドを奪うために、自身に対する嫌がらせを捏造し、まんまと彼の婚約者に収まった……これ以上に綺麗な動機が、他にあるとは思えない」


「……クロエが、長年の親友である私よりも、ジェイド様を優先した、と?」


「アディ、人は変わるものだよ。幼い頃、君は確かにクロエにとっての一番だったかもしれない。でも、成長して、恋を知って、彼女の心だって変わっていったと考えるのはそう不自然じゃないだろう」


 エリオットの言うことはもっともだった。いつまでも、幼馴染という絆にしがみ付いているアドリエンヌの方が、もしかすると子どもじみているのかもしれない。その自覚はアドリエンヌ自身にもあった。


「それに……学園に入ってからの君はあまりにも輝かしかった。君の隣にいたクロエは……きっと君に嫉妬や羨望を抱いたはずだ。君は誰からも愛される人気者で、誰の目にも美しい人で、皆に祝福されるような幸せの中を生きていたから」


「まさか、そんな……」


「光が強ければ強いほど、影だって濃くなるものだろう? それと同じことだよ、アディ」


 エリオットは痛まし気にアドリエンヌを見下ろすと、慰めるようにそっと彼女の細い体を引き寄せた。エリオットの腕に閉じ込められたアドリエンヌは、彼の言葉が先ほどから痛いところを突いてばかりいる気がして、何だか泣き出したいような、得体のしれない感情を覚えた。


 ……本当は、クロエは私のことなんて嫌いだった? あの朗らかな笑顔の下には、私が気付けなかった葛藤があったの?


 ただ、打ちのめされるような心地だった。自分がのうのうと学園生活を謳歌している合間にも、クロエが苦しんでいたかもしれないなんて、アドリエンヌは考えたことが無かったのだ。


 ……彼女の苦しみに誰よりも寄り添えると思っていたのは他ならぬ私だと思っていたのに。


 もしかするとそれは、ただの思い上がりに過ぎないのかもしれない、と気づかされて、激しい後悔とやるせなさから、アドリエンヌは一粒の涙を零したのだった

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