第3話 もう一人の幼馴染
翌日の学園は、アドリエンヌにとってはまるで地獄のような場所だった。
貴族子息と令嬢だけが集まるバロウズ学園の中でも、ジェイドの影響力はすさまじい。その彼が、白昼堂々中庭で名門伯爵家の令嬢を断罪したという話題は、瞬く間に学園中に広まった。一日もあれば、昨日の中庭の事件を目の当たりにしていなかった生徒でも、事細かに事件の詳細を語ることが出来たほどだ。
たったの一日で、学園の人気者「瑠璃姫」から幼馴染を虐めた悪役に成り下がったアドリエンヌは、改めて世間の目の厳しさを痛感しているところだった。
これからいくら調査を進めたところで、自身に貼られた「悪役」というレッテルはそう簡単に剥がれてくれないだろう。とてもじゃないが、ジェイドと婚約を結び直すこと何て出来るはずもない。
不幸中の幸いとでもいうべきか、ジェイドとクロエの姿は見かけなかった。恐らく彼らが意図的にアドリエンヌを避けているのだろう。アドリエンヌにとっても、混乱した胸中のままで彼らに会いたくはなかったので、幸いとしか言いようがない。
一体、誰に貶められたのか。犯人の狙いは伯爵家なのか、それともアドリエンヌ自身なのか。
考えるべきことは沢山あったが、今のアドリエンヌには荷が重すぎた。腫れあがった左頬を隠すことも無く、どこか茫然とした面持ちのまま、彼女は一人で学園の裏庭に足を運んだ。
この学園は、校舎を囲むようにして広大な庭が広がっている。前庭や中庭は一流の庭師たちの手によって整えられた、それは美しい庭園で、生徒たちにとっても人気の場所だった。
対して裏庭は、日当たりが悪く、庭師たちも最低限の手入れしかしていないので、綺麗なものにしか興味がない貴族子息や令嬢たちが好んで足を運ぶ場所ではない。
アドリエンヌだって、今日までろくに足を運んだことはなかったのだ。それもそうだろう。昨日まで彼女は学園の人気者「瑠璃姫」だったのだから。
真っ白な校舎の壁に寄りかかり、アドリエンヌは一人溜息をつく。この調子ではジェイドと婚約を結び直すことはおろか、新たな婚約者なんて見つかりようがない。
このままでは本当にあの兄に売り飛ばされてしまうかもしれない。
俯けば、涙が零れそうになってしまう。初恋と友情を同時に失ったのだ。まだ16歳のアドリエンヌにとっては、世界の大半が失われるような喪失感だった。
……どうして、どうしてこんなことになってしまったの。
後悔するとすれば、やはり警戒心が足りなかったことだろうか。兄のことはともかくとして、少なくとも学園において今まで自分がどれだけ優しい世界で生きてきたのかをアドリエンヌは思い知った。
ジェイドやクロエと笑い合った日々が、既にとても遠い日のことのように思えてならない。ジェイドの優しさを、クロエの朗らかさを思い出しては、埋めようのない心の穴の大きさに息が出来なくなりそうだ。
これから彼らは、二人で幸せになるのだろうか。公爵家の令息と、子爵令嬢の組み合わせは何かと困難がありそうだが、昨日の二人の様子を見ていれば心配など要らないような気がした。
悲しいのか、悔しいのかもよく分からない。アドリエンヌは目に溜まった涙を誤魔化すように、壁にもたれかかったままずるずると地面にしゃがみこんだ。誰も見ていないからこそできる行動だ。
「……ジェイド様、クロエ……」
失ってしまった大切な人たちの名前を何気なく呼べば、余計に涙が溢れそうになる。学園では好奇の目に晒され、家では兄に虐げられる。アドリエンヌの居場所なんて、もうどこにも無かった。
死にたい、とまでは言わない。それでも、鬱々とした心はどうにも重たくて、アドリエンヌを塞ぎこませるには充分すぎた。
初夏の風が、アドリエンヌの淡い金の髪を揺らしては通り抜けていく。どこかで庭師が作業でもしているのか、刈られたばかりの青い芝生の匂いがした。
こんな天気の良い日には、日陰を辿るようにしてよくクロエと一緒に散歩をしたものだ。子爵家以下と伯爵家以上では講義室が違うため、お互いの講義室で起こった出来事などを共有したり、他愛のない噂話に花を咲かせる、ごく普通の友人同士だった。
二人の散歩には、時折ジェイドが加わることもあった。彼は楽しそうに二人の会話に耳を傾けていたものだし、紳士的に二人の令嬢をエスコートしたりもした。共に昼食を摂ったこともある。
……あの時から、二人は惹かれ合っていたのかしら。
クロエが淡い赤の瞳でジェイドを見る視線には、明らかな憧れの色が含まれていた。それはアドリエンヌにも十分わかっていたことだが、まさか、ジェイドまで似たような視線でクロエを見ていたかもしれないとは考えたことも無かったのだ。
穏やかで楽しい時間と思っていたのは、もしかするとアドリエンヌだけなのかもしれない。彼ら二人にとってアドリエンヌは邪魔者だった可能性すらある。
失った過去の優しい時間に縋っている自分が情けなくて、アドリエンヌは膝に顔を埋めるようにして涙を堪えた。
前を向かなければならない、自分の身の潔白を明らかにするために動き出さなければならない。それは分かっていても、どうしても体が動かなかった。
……私がクロエに嫌がらせをしているかもしれないと考えたとき、どうして二人は私に相談してくださらなかったのかしら。
本当の恋人同士なら、直接尋ねてみるべきなのに。本当の親友なら、真正面からぶつかってきてくれてもいいはずなのに。
意図せずして二人を責めるような思いが、どうしてもこびりついて離れない。離れてくれない。
幸せな時間は確かにあった、二人は自分と心を通わせてくれた、そう信じたいのに、仄暗い感情が美しい思い出を掻き消そうとする。
親友ならば、クロエが何者かに傷つけられたことを痛ましく思うべきなのに、今はどうしたって裏切られたという気持ちが先行してしまった。自分を信じてくれなかった二人を恨めしく思ってしまう。
「っ……」
遂に零れだした涙を、アドリエンヌは俯いたまま手の甲で拭った。
婚約破棄を告げられてからまともに泣いたのはこれが初めてだった。昨夜は婚約破棄の衝撃と兄に殴られた痛みのせいで、むしろ茫然としていることの方が多かったのだから。
アドリエンヌは裏庭で一人、肩を震わせて泣いた。嗚咽を漏らすほどに泣いたのはいつ以来だろう。息が上手くできなくなるから、泣くのは大嫌いなのに、今だけは涙を止められなかった。
そのままどれくらい泣いていただろうか。再び初夏の爽やかな風が吹き抜けたある瞬間、不意に、蹲るアドリエンヌの頭上から声が降ってきた。
「……アディ?」
穏やかな優しい青年の声。アドリエンヌはこの声をよく知っている。彼女は咄嗟に顔を上げ、自分の名前を呼んだ青年を見上げた。
「っ……エリオット」
アドリエンヌの名を呼んだのは、ロル侯爵家の令息エリオット・ロル。癖のない銀髪と深い紫色の瞳が特徴的な青年だ。端整な顔にいつも優し気な微笑を湛えていて、ある意味では厳格なジェイドとは正反対というべき青年だった。
エリオットもまた、アドリエンヌにとっては幼馴染というべき親しい友人で、幼いころからクロエと三人で長い時間を過ごしたものだ。アドリエンヌやクロエとは同い年で、特にアドリエンヌとは講義室も同じなので行動を共にすることも多かった。
このところは侯爵家の仕事が忙しく、学園に姿を現さないことも多いエリオットだが、今日は例外らしい。彼が学園にいると知っていたら、アドリエンヌはまず真っ先に彼の元を訪ねただろう。それくらい、アドリエンヌにとっては特別な友人なのだ。
「エリオット、エリオット……! 私――」
アドリエンヌは思わずエリオットに縋るように立ち上がろうとして、思い留まった。
彼の優しげな瞳が、もしも軽蔑するようなものに変わったら。そう思うと恐怖で身が竦んでしまったのだ。
「……聞いたよ、アディ。その……昨日の、こと」
「っ……」
昨日は学園にいなかったはずのエリオットにまで、あの事件のことは知れ渡っているのだ。その事実が、ますますアドリエンヌを怯えさせた。
エリオットにまで見放されたら、いよいよアドリエンヌは息が出来なくなるだろう。ただでさえ、彼女の世界で最も大切な三人の内二人とは、既に昨日の時点でお別れをしているのだ。最後に残ったエリオットにまで見放されたら、アドリエンヌの見る世界からは色が消えてしまう。
その恐怖に駆られたアドリエンヌは、エリオットの顔をまともに見られなかった。ただ小刻みに体を震わせながら、彼の言葉を待つしか出来ない。
普段は凛とした美しいアドリエンヌの弱り切った姿に、エリオットはまるで痛みを感じるかのように表情を曇らせた。やがてゆっくりとアドリエンヌに腕を伸ばすと、優しく彼女を抱き寄せる。
「……傍にいてあげられなくてごめん、アディ。怖かったよね」
エリオットは小さな子供にするように、アドリエンヌの淡い金の髪を撫でた。たったそれだけでも、絶望の淵に立たされたアドリエンヌにとっては涙腺を決壊させるに十分で、エリオットの腕の中で再びむせび泣いてしまう。
「っ……エリオット、私、私……本当に、嫌がらせなんてしてないのです」
「うん、分かってるよ。アディはクロエのこととっても大切にしてたから。二人の仲の良さは、多分、僕が一番知っているからね」
その通りだ。エリオットは幼いころからずっとアドリエンヌとクロエの傍にいた。だからこそ、エリオットには、アドリエンヌがクロエという友人を失った悲しみが痛いほどによく分かった。
「クロエがジェイド様に憧れていたから、それが気に食わなくて彼女に嫌がらせをするなんて……考えたことも無かったんです」
「うん、それも分かってる。アディはとっても寛容な人だから、ジェイドに近寄る女の子にも優しくしていたよね」
エリオットはすべてを分かってくれている。その事実が、傷ついたアドリエンヌにとってどれだけ心強かったか。彼の腕の中でだけは、アドリエンヌは思う存分に泣くことが出来た。
「っ……クロエとジェイド様が、婚約するんです。私は……あの二人にとって邪魔者に過ぎなかったということでしょうか……? 私は、みんなから疎まれていたのでしょうか?」
こんなこと、エリオットに言ったって仕方がないと分かっている。分かっている上で、それでもアドリエンヌは彼に縋らずにはいられなかった。
エリオットは涙で濡れたアドリエンヌの瑠璃色の瞳を見下ろしながら、そっと目尻に溜まった涙を拭った。
「……あの二人の真意は分からないけど……少なくとも僕はアディを疎ましくなんて思わないよ。この先何があっても、絶対に」
「エリオット……」
エリオットはただ励まそうとして大袈裟なことを言っているだけなのかもしれない。それでも今のアドリエンヌには、壊れかけた心の最後の一線を守り抜く、絶対的な言葉だった。
「……この傷は、またジェラルド様にやられたの?」
エリオットの指先がそっとアドリエンヌの左頬に触れる。昨夜ロザリーが必死になって手当てを施したが、一日で腫れが引くはずもなく、まともな感性の持ち主であれば思わず顔をしかめるような痛々しい姿をしていた。
「……婚約破棄をお伝えしたら、叱られてしまいました」
アドリエンヌは、いつものことだと笑い飛ばそうとしたが、皮肉にも腫れあがった頬のせいで上手くいかなかった。彼女の引き攣った笑みを見たエリオットは、深い紫の瞳の奥に、確かな怒りを滲ませる。
「……本当に、あの人には困ったものだね。アディに手を上げるなんてどうかしているよ」
エリオットは労わるようにアドリエンヌの頬を手のひらで包み込み、軽く視線を伏せた。
自分の代わりに怒ってくれるエリオットの優しさが嬉しくて、アドリエンヌは今度こそ、ごく自然な微笑みを浮かべた。それを見たエリオットの瞳が、僅かに戸惑うように揺れる。
「……お昼はもう食べた? もしまだなら、一緒に食べよう、アディ」
戸惑いを誤魔化すように、エリオットは視線を彷徨わせながら、そっとアドリエンヌに手を差し出す。
「まだ食べておりませんわ。ありがとうございます、エル」
アドリエンヌがエリオットのエスコートを受けるのは久しぶりだ。ジェイドと婚約してからというもの、彼女のエスコート役は専らジェイドが引き受けていたのだから。
……それももう、昨日で終わってしまったのね。
些細な場面でも胸の痛みを感じてしまうことをもどかしく思いながら、アドリエンヌはエリオットの手に自らの手を重ねるのだった。
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