第2話 兄の追及

「っ……」


 突如として右頬に受けた衝撃に耐えきれず、アドリエンヌはどさりと音を立てて床に崩れ落ちた。口の端が切れたのか、ぽたぽたと鮮血が床に滴り落ちていく。


「ああ、悪い。お前があまりに聞き捨てならない言い間違えをするから、手が滑ったようだ」


 右頬を押さえながら蹲るアドリエンヌの前に、いやにゆったりとした動作で近付くのは、彼女の実の兄ジェラルドだった。


 何を隠そう、たった今アドリエンヌを殴り飛ばした張本人だ。


「……言い間違えではございません。ジェイド様から、婚約破棄を言い渡されました」


 頬の痛みのためにもつれそうになる舌を懸命に動かして、アドリエンヌは軽く俯いたままに繰り返した。殴り飛ばされるほんの少し前に、同じような言葉を述べたばかりだ。


「何をやった? この顔で他の男でも誑かしたか?」


 顎に手を添えられ、アドリエンヌは強引に顔を上向かされる。頬に食い込む兄の指が、殴られたばかりの傷を刺激して鋭い痛みが走った。


「いいえ……神に誓って、そのような真似はしておりません」


 床に崩れ落ちたままのアドリエンヌを、部屋の隅に控えたメイドのロザリーが青ざめた顔で見つめていた。無理もない。目の前で伯爵令嬢が殴り飛ばされる場面など、まずまともな貴族の家に仕えていれば縁のない光景のはずなのだから。


「じゃあ、ジェイド殿に新たな想い人でも?」


「……色々と省略してお話をすれば、要はそういうことになります」


「……この顔だけが取り柄のくせに、何をやっているんだ、お前は――」


 再びジェラルドが拳を振りかざすのを見て、アドリエンヌは咄嗟にぎゅっと目をつぶった。逃げたらもっとひどい目に遭うのは分かっているので、決して身を引かぬように手を握りしめて衝撃に備える。


「っおやめください、ジェラルド様!! これ以上は、もう――」


 アドリエンヌを庇うように抱きしめながら、そう言い放ったのは、先ほどまで部屋の隅で震えていたメイドのロザリーだった。ジェラルドはロザリーの姿を見るなり、振り上げていた拳を下ろし、小さく溜息をつく。


「参ったな、女性を殴るわけにはいかない」


 突如として柔和な笑みを浮かべるジェラルドを、アドリエンヌもロザリーも恐怖に震えるような目で見上げた。


 ジェラルドは、外面はとんでもなく温厚で、アドリエンヌと同じ淡い金の髪と瑠璃色の瞳を持つ、ご令嬢たちの憧れの的だ。妻や友人たちにもとても誠実な態度をとっており、彼に対する紳士という評価も全くの嘘ではない。


 ただし、アドリエンヌに対してだけは例外だった。ジェラルドはアドリエンヌを伯爵家の駒としか思っておらず、母親が亡くなり、父親が領地の屋敷で余生を過ごすようになってからは、一層アドリエンヌに対する態度は厳しいものとなった。


 彼はアドリエンヌに対して、特別な憎悪があるわけでも愛情があるわけでもない。彼にとってアドリエンヌは本当にただの駒なのだ。思い通りに動けばそれなりに褒め称えることもあるし、今回のような事態に陥れば容赦なく責め立てる。それは、ジェラルドが、アドリエンヌに特別の興味を抱いていないからこそできる所業でもあった。


 伯爵家の屋敷の使用人たちの殆どは、ジェラルドの怒りに触れることを恐れ、アドリエンヌがどんな目に遭っていようとも手を差し伸べることはしない。


 ただし、アドリエンヌ付きのメイドのロザリーだけは、いつでもアドリエンヌの味方だった。ロザリーの母がジェラルドの乳母を務めていたこともあって、他の使用人よりはジェラルドに意見しやすいことも幸いだったのかもしれない。


 アドリエンヌはロザリーに庇われた姿勢のまま、今日の昼下がりに起こったばかりの事件についてぽつぽつと話し始めた。次第に左頬が腫れあがり、時折アドリエンヌから明瞭な言葉を奪ったが、それでも彼女は最後まで話し続けた。


「……つまり、お前はおろかにも誰かの策略に嵌り、公爵家の次代当主の婚約者の座を、たかだか子爵令嬢ごときに奪われたということか?」


 ロザリーがいなければ、ジェラルドはもう一度アドリエンヌを殴っていただろう。それを予感させるくらいの怒りが彼から滲み出していた。


 普段ならばクロエを「子爵令嬢ごとき」と評する兄の言葉に一言物申しただろうが、今のアドリエンヌにその気力はなかった。


「……申し訳ありません」


「本当に子爵家の娘に嫌がらせをしていないのか?」


 ああ、兄にまで疑われるのか、とアドリエンヌは絶望した。元よりこの兄が自分の肩を持つはずもないと分かっていたが、ほんのわずかな希望までも打ち砕かれ、いよいよアドリエンヌは絶望の淵に立たされた。


「……信じてくださらないでしょうが、それだけは確かです」


 かなり長い間話し込んだせいか、アドリエンヌの口元から流れだした血は既に固まり始めていた。「瑠璃姫」とまで呼ばれるアドリエンヌの美しい顔は、醜く歪んでしまっている。


「まあ、婚約破棄に至った経緯はどうでもいいか……。どうにかして、ジェイド殿の心を取り戻せ。それが出来なければ、伯爵家以上の家から新たな婚約者でも見つけて来るんだな」


 さらりと言ってのけたが、どちらもアドリエンヌ一人の力では不可能に近い。だが、アドリエンヌにとってジェラルドの言うことは絶対だ。従わなければ、どんな目に遭うか分からない。


「そういえば、お前の幼馴染はロル侯爵家の令息だったな。お前のその見目をもってすれば、簡単に誘惑できるんじゃないのか?」


 アドリエンヌとよく似た端整な面持ちに下卑た笑みを浮かべる兄を、アドリエンヌはただ見つめ返すことしか出来なかった。下手なことを言えば、また殴りかかろうとしてくるかもしれない。

 

「……まあ、こんなつまらない女を婚約者にしていたジェイド殿も今までよく耐え忍んだ方かもな。新たな婚約者が見つからなければ、適当な貴族にお前のことを売りつけることにするからその覚悟をしておけ。お前は見目だけはいいから高く売れるだろう」


「っ……ジェラルド様っ」


 ロザリーが反論しようと立ち上がりかけるが、アドリエンヌが静かにそれを制した。この兄の前では余計なことは言わない方がいいのだ。たとえロザリーが相手でも、ジェラルドは何をしでかすか分からない。


「承知いたしました、お兄様」


 腫れあがった頬のためにはっきりとしない声で告げれば、ジェラルドは酷く不快なものを見るような目でアドリエンヌを一瞥し、視線だけで退室するよう促した。


 アドリエンヌはのろのろと立ち上がると、身に纏っていたドレスを摘まんで礼をする。当然ジェラルドがその様子を見守っているはずもなく、彼の関心は既に執務机の上の書類に移っていた。


 そのまま静かに兄の書斎から退室すれば、ロザリーが灰色の瞳を潤ませてアドリエンヌを見つめる。


「っ……すぐに手当ていたします、アドリエンヌ様」


「……もう、いいの。それより今日は、早く休みたいわ……」


 ふらり、と歩き出したアドリエンヌの後を、ロザリーが慌てて追いかける。すれ違う使用人は皆アドリエンヌの腫れ上がった頬を見て、ジェラルドの書斎で起こったであろう事件を想像しては、顔をしかめた。決してアドリエンヌを蔑ろにしようという気持ちがあるわけではないのだが、ジェラルドの怒りを買うことを恐れて、やっぱり今日も誰もアドリエンヌには声をかけられないのだった。

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