彼とアドリエンヌの婚約破棄事情

染井由乃

第1話 婚約破棄

 それは、陽だまりの美しいある初夏の昼下がりのこと。


 豊かな自然と気候に恵まれた王国ハズウェルの中でも、最も格式高く、貴族の令息令嬢が集まることで有名な名門バロウズ学園の中庭で、事件は起こった。


 手入れの施された青々とした芝生の上で立ち尽くすのは、淡い金の髪をもつ少女、アドリエンヌ・マクロン。凛とした瑠璃色の瞳が美しい、まだ16歳の伯爵令嬢だ。


 そんな彼女の前には、ひしひしとした決意を感じさせる、腕を組んだ男女が一組。


 少し癖のある黒髪の青年と、彼に手を引かれるようにして寄り添う、ふわふわとした真っ白な髪の少女は、確かにアドリエンヌだけを見つめていた。


「申し訳ありません、ジェイド様。今、何と仰ったのです……?」


 アドリエンヌは手に持っていた書物がいつの間にか芝生の上に散らばっていることにも気づかないと言った様子で、ふらりと青年に一歩近づく。


 青年――ジェイド・レニエ公爵令息は、彼女に僅か一歩の距離でさえも近付くことを許さないと言わんばかりに、白い髪の少女の手を引いて後退った。


「……君との婚約は解消させてもらう。君には心底幻滅した」


 ジェイドは約3年間婚約者として寄り添ったアドリエンヌに、無情にもそう言い放った。先刻も、似たような台詞を彼女に吐いたばかりだ。


「どう……して? 私が、何か失礼をいたしましたでしょうか……?」


 アドリエンヌにはまるで心当たりがなかった。名門レニエ公爵家の跡継ぎの婚約者として完璧だったかと言われれば、そうとは言い切れない部分は確かにある。


 けれども、少なくともジェイドとは心を通わせていたつもりだった。


 アドリエンヌに至らない部分があっても、「少しずつ慣れて行けばいいんだ」と優しく諭してくれたのも、他ならぬジェイドだったのだ。


 そんなジェイドを、アドリエンヌは慕っていた。何て心優しい婚約者なのだろう、と自分の身の上をこの上なく幸福なものだと思うくらいには、ジェイドとは上手くやっているつもりだったのに。


「どこまでも白を切るつもりか。あんなおぞましいことをしておいて……」


 ジェイドは心底呆れたように溜息をつくと、彼に寄り添う白い髪の少女をそっと抱きしめた。


「クロエにあれだけひどいことをしておいて、よくもそんな涼しい顔が出来るな」


 ジェイドに抱きしめられた白い髪の少女ことクロエ・イベール子爵令嬢は、どこか躊躇うような視線をアドリエンヌに向ける。彼女の淡い赤の瞳には、明らかな戸惑いが見て取れた。


 だが、戸惑っているのはアドリエンヌも同じだ。いや、むしろアドリエンヌはクロエとは比べ物にならないほどの動揺の最中にいるのだ。


「私が、クロエに酷いことを……? そんな、まさか……」


 アドリエンヌとクロエは、いわゆる幼馴染だ。親同士が学園時代の友人同士であったこと、また、互いの領地が近かったことなどから、昔から何かと顔を合わせてきた親友同士だった。幼馴染はもう一人、ロル侯爵家の令息がいるのだが、同性の幼馴染という点では、アドリエンヌとクロエの結びつきは他の何物にも代えがたいほどの強いものだった。


 アドリエンヌは、クロエが大好きだった。クロエのことを、まるで本当に妹か何かのように思うくらいには、彼女のことが大切だった。


 生まれつき病弱なクロエは、長い間日に当たると体調を崩してしまうため、クロエのために室内でもできる遊びを考えるのが、昔からアドリエンヌの楽しみだったのだ。


 バロウズ学園でも二人の仲睦まじさは有名で、アドリエンヌがクロエに酷いことをするなんて、誰もが考えもしないだろう。


「一体、クロエの身に何が起こったのです……?」


 突如告げられた婚約破棄は確かにアドリエンヌを動揺させていたが、彼女にとってはそれと同じくらいにクロエのことが心配でもあった。アドリエンヌの瑠璃色の目は戸惑うように揺れながらも確かにクロエを見据えていて、その視線を受けたクロエはというと、縋るような表情をジェイドに向けた。


「ジェイド様、やはり、彼女は――」


「――クロエ、君はあまりに優しすぎる。君は無理して話をする必要はない」


 ジェイドは痛ましいものを見るようにクロエを見つめると、彼女の頬をそっと撫でた。その優し気な手つきからは、既に彼らが少なくはない時間を共有していることが窺えて、アドリエンヌを益々追い詰める。


「君が彼女にしでかしたことを俺が挙げ連ねるというのも妙な話だが、お望みならば一つずつ説明しようか、アドリエンヌ」


 ジェイドの深い青の瞳が、睨むように細められる。いつしかアドリエンヌの指先は小刻みに震えていた。


 ……ああ、ジェイド様はいつから私を「アディ」と呼ばなくなったのかしら。


 ジェイドは婚約をしてからというもの、アドリエンヌのことを親しみを込めて「アディ」と愛称で呼んでいた。だが、思えばこのところ、彼が彼女をそのように呼んだ覚えはない。そもそも名前を呼ばれるような機会もなかった。


 それだけでも、アドリエンヌにとっては、二人の関係が既に修復不可能なものに変わってしまっていると予感するには充分だった。

 

「君が彼女にした嫌がらせを上げればキリがないが……そうだな、例えば、根も葉もない噂を流し、クロエの周りの生徒たちを買収して陰口を言わせていただろう」


「っ……まさか、そんなこと……!」


 当然アドリエンヌには心当たりのない話だった。それこそ根拠のない話だ。咄嗟に否定しようとするも、ジェイドの目配せ一つでおずおずと進み出てきた女子生徒たちに思わず口をつぐむ。


「彼女たちが証人だ。君に半ば脅されるような形でクロエに嫌がらせをしていたと告白した」


 アドリエンヌは、ジェイドの傍で肩を震わせる女子生徒たちの顔をよく確認した。子爵家や男爵家の令嬢ばかりで、何かの折に夜会で顔を合わせた令嬢も中にはいたが、友人と呼べるような関係の令嬢は一人もいない。家名は思い出せても、名前は思い出せないような相手が殆どだった。


「……何かの誤解があると思われます。私は、彼女たちを存じ上げませんわ」


「っ……そんな!」


「ひどいです、アドリエンヌ様っ……」


 令嬢たちは裏切られたとでも言わんばかりに表情を歪ませ、アドリエンヌを責めるような声を上げる。


 彼女たちを本当に知らないアドリエンヌは、ただ狼狽えるように彼女たちを見つめることしか出来なかった。


 そんな中、ジェイドが軽く手を挙げて口々に非難の言葉を口にする令嬢たちを諫める。それを合図にぴたりと彼女たちの言葉は止み、中庭中の注目がジェイドに集まった。


 流石は名門公爵家の令息というべきか、ジェイドには人目を惹く才能と魅力がある。それは彼が生まれ持った端整な顔立ちのお陰でもあるし、誠実で真面目な彼の性格のためでもあった。


 アドリエンヌもまた、そんなジェイドに惹かれる人間の一人だったのに。アドリエンヌは指先の震えを悟られぬようにぎゅっと手を握りしめながら、ジェイドの言葉を待った。


「君は自身の人気を逆手にとって、彼女たちにクロエへの嫌がらせをするよう依頼したんだろう? ……君はその見目と家柄で大層慕われていたからな。ちょっと甘い言葉を囁けば、男女問わず意のままに操れるだろう」


 可愛らしい印象を受けるクロエとは対照的に、アドリエンヌはどちらかと言えば凛とした美しい少女だった。くっきりとした瑠璃色の瞳が特に印象的で、一部の生徒からは「瑠璃姫」と呼ばれるほどには麗しい令嬢なのだ。


 加えて彼女の家は、王国でもその名を知らぬ者はいないマクロン伯爵家。広大で豊かな伯爵領の経営手腕は見事なものであるし、どの時代も国の要職を担ってきた王国有数の名家だ。


 そのため、アドリエンヌを良く知らぬ生徒にとっては、彼女はどこか近寄りがたい存在で、高飛車な印象を抱いている者も少なくなかっただろう。


 本当のアドリエンヌは傲慢とは程遠い、心優しいごく普通の少女なのだが、真偽はともあれ、この状況は彼女への間違った印象をより色濃いものへと変えてしまった。


「神に誓って、そんなことはしていませんわ」


 アドリエンヌは瑠璃色の瞳で真っ直ぐにジェイドを見据えた。


 迷いのないその視線に、一瞬ジェイドの瞳は揺らいだが、彼の決心も固い。ジェイドは溜息交じりに上着のポケットに手を伸ばすと、ばさり、と数枚の紙の束を芝生の上に放り投げた。よく見ればそれは手紙のようだった。


「では、これに関する弁明は?」


 拾えと言わんばかりにジェイドはアドリエンヌを睨む。状況が状況とはいえ、とてもじゃないが紳士的な振舞とは言えない。仲睦まじくしていた頃は、誠実な紳士だったジェイドの変わりように怯えすら感じながらも、アドリエンヌは屈辱を耐え忍んでそっと芝生の上から手紙を拾い上げた。


「っ……」


 それは先ほどの令嬢たちに宛てられた、ごく簡単な手紙のようだった。内容と言えば、クロエに対する嫌がらせをするように、という単純極まりないものだったが、中にはクロエの生まれを非難するようなあまりにも品のない指示も書き連ねてある。


 だが、何よりもアドリエンヌを動揺させたのはその筆跡だった。まるで書いた覚えのない内容だったというのに、自分でも一瞬戸惑うほどにアドリエンヌのものとよく似た筆致だったのだ。

 

 いや、筆跡だけではない。ちょっとした言葉の選び方、挨拶の常套句、そして手紙から香る香水までもがアドリエンヌを思わせるには充分だった。


 アドリエンヌは芝生に膝をついた姿勢のままだったが、立ち上がる気力もなくなるほどに血の気が引いていくのが分かる。


 ……ああ、嵌められた、嵌められたのね。


 犯人の狙いは分からない。アドリエンヌとジェイドの婚約を通して、レニエ公爵家との結びつけを深め、ますます力をつけようとしているマクロン伯爵家に一泡吹かせてやろうと思ったのかもしれない。


 あるいは、ただ単に学園の注目を集めるアドリエンヌが目障りだったとも考えられる。


 人の悪意は考え始めればキリがない。だからこそアドリエンヌは、疑うより先に人の優しさを信じようと決めていたし、実際それが功を奏してここまで実に順風満帆な人生を送ってきた。


 だが、ここにきてそれが仇となったのだ。アドリエンヌは人を疑わなさすぎた。警戒するということを知らなかった。名門公爵家の次代当主の婚約者という立場でありながら、あまりに呑気に生きすぎたのだ。


 ある意味それはアドリエンヌの落ち度なのかもしれない。仮にアドリエンヌの潔白が明らかになったところで、あっさりと罠にはまったアドリエンヌにジェイドが失望したことに変わりはないだろう。いずれにせよ、既にアドリエンヌはジェイドの求める婚約者ではなかった。


 ……ああ、終わったわ、この婚約。


 くしゃり、と手紙を握りつぶしながらも、アドリエンヌは殆ど直感的に悟った。真面目で普段は穏やかなジェイドにここまでのことをさせてしまったのだ。彼がアドリエンヌとやり直すつもりがないのは明白だった。


「……このような手紙が存在している以上、信じてはくださらないでしょうが、私の主張は変わらないことだけはお伝えしておきます。私が、クロエを虐めるなんてありえない。私たち、物心がついたときからずっと親友なのですもの」


 そう、アドリエンヌにとってクロエは本当に特別な存在だった。下手をすれば、アドリエンヌに過剰なまでに厳格な家族よりも結びつきが強いかもしれない。 


「あくまでも自分ではないと言い張るんだな。では、これについてはどう弁明するんだ?」


 ジェイドは上着から小さな革袋を取り出すと、芝生に座り込んだままのアドリエンヌの前に投げつけた。かしゃん、と乾いた音が響き渡る。


 アドリエンヌは無言でその袋を拾い上げ、そっと中身を取り出した。その拍子にちくりと指先に鋭い痛みが走り、軽く傷つけてしまう。


「っ……」


 手を握りしめることで、ぽたぽたと滴る鮮血を何とか隠しながら、アドリエンヌは改めて袋の中身を確認した。どうやらそれは割れた手鏡のようだった。


 繊細な花模様の描かれた丸い木の枠に収められたその鏡は、一見すれば何の変哲もない手鏡だった。


 いや、むしろ貴族の令嬢令息ばかりが集まるこの学園では、ある意味浮いた代物かもしれない。明らかに高級品とは言い難く、どちらかと言えば街娘が持つような素朴な代物だ。


 だが、アドリエンヌには見覚えのある鏡だった。彼女にとっても特別な一品だったからだ。


 そう、それは、クロエの亡き姉ミレイユの形見だった。


 アドリエンヌやクロエより一つ年上のミレイユは、今から七年前に流行り病で命を落とした。アドリエンヌにとっては親友の姉という立場に過ぎないミレイユだったが、快活でとても心優しい人だったことを良く覚えている。


 姉を失った時のクロエの嘆きようは見ていられないほどであったし、彼女は姉の形見の素朴な手鏡を何よりも大切にしていた。「これは私の宝物なの」と何度もアドリエンヌに言い聞かせてきたのだ。


 だからこそ、その手鏡が割れているという事実は少なからずアドリエンヌにも衝撃を与えた。


 ……これは、クロエがとても大切していたものなのに。一体、一体誰がこんなことを。


 言うまでもなく、鏡を割ったのはアドリエンヌではない。だからこその怒りだったが、不意に頭上から投げかけられたクロエの言葉にアドリエンヌは我に返った。


「……どうして、どうしてこんなことをしたの。アディ……いいえ、アドリエンヌ」


 責めると言うよりは確かめるような穏やかな口調だったが、追い詰められたアドリエンヌから理性を失わせるには充分だった。


 何より、物心ついたときから誰よりも信頼していた親友が、あっさりと自分を愛称で呼ぶことを止め、犯人だと決めつけようとしていることに、深く深く心が抉られていくのを感じる。


「違います、クロエ、私じゃありません! これはクロエのお姉様の形見でしょう? こんなひどいこと……とてもできませんわ」


 クロエに責められても尚、アドリエンヌの心にはまだクロエの悲しみを分かち合おうとする気持ちが残っていた。クロエがどれだけこの手鏡を大切にしていたか一番よく分かっているだけに、親友の嘆きようはいかほどかと考えられずにはいられない。


「……私だって、あなたを信じたかった。どれだけ嫌がらせをされても、アディはそんなことをしないって。でも……あなたと会った直後に、この鏡は割れていたのよ。あなたに上着を預けて、ほんのちょっと席を外したあの時に……」


 クロエがアドリエンヌに荷物や上着を預けて席を立つことは数えきれないほどあった。クロエは生まれつきの病弱な体のために、常に薬を服用していたのだが、服薬する場面を人に見られることを殊更に嫌がった。そのため、アドリエンヌと食事をしていようがお茶をしていようが、薬の時間になったら必ず席を立つのだ。


「この鏡はクロエにとっては大切なものだが……事情を知らない者が見れば、壊す価値もないと考えるのが妥当な代物だ。数あるクロエの持ち物の中で、敢えてこの鏡を選んだということは、やはり、事情を知っている君が割ったんじゃないのか、アドリエンヌ」


 ジェイドは淡々と言い放った。まったくその通りだ。この学園に通うような生徒が見たら、わざわざ壊そうとも思わないだろう。そのくらい、がらくた同然の代物なのだから。

 

 そして、その手鏡がクロエの姉の形見だと知っているのはアドリエンヌしかいなかった――今となっては、どうやらジェイドも知っているようだが。


「……ねえ、どうしてこんなことをしたの、アドリエンヌ。私が、あなたに何かした……?」


 クロエが涙目になって、一歩前に進み出る。アドリエンヌは芝生に崩れ落ちたまま、クロエの淡い赤の瞳を見上げた。初夏の陽だまりがクロエを包み込んでいて、まるで天使のような愛らしさだった。


「私が、ジェイド様のことを素敵ねって褒めたから……? 私が、あなたの婚約者を横取りするような女に思えたの……?」


「何を仰るの、クロエ……」


 確かに、クロエはジェイドに憧れている節があった。アドリエンヌがジェイドの話をすれば、「アディは幸せ者ね。あんなに素敵な婚約者様がいて」と羨ましがるような素振りを見せたこともある。

 

 だからと言って、アドリエンヌがクロエを敵視したことはない。クロエが親友だということを抜きにしても、婚約者に淡い憧れを抱く女子生徒を許せないほど、アドリエンヌの心は狭くない。ジェイド様に憧れるのはもっともよね、とむしろ共感を示していたくらいなのに。


「……思えば、嫌がらせが始まったのも、私がジェイド様のことを褒めてからよね。そんなに……そんなに私が信じられなかったの、アドリエンヌ」


 ついにぽろぽろと涙を流し始めるクロエを前に、アドリエンヌは茫然としていた。中庭に集まった生徒たちの関心が一気にクロエに集まる。


 真っ白な髪に淡い赤の瞳を持つクロエは、ただでさえ儚げな印象で、病弱ということもあり人々の同情を引きやすかった。


 それは、今も変わらない。少なくともこの舞台では、クロエの涙がクロエ達が正義であるという印象を一層強めるきっかけとなった。


 ジェイドは咄嗟にクロエを抱き寄せ、何やら慰めるような言葉を囁いていたが、アドリエンヌの耳には届かない。


 泣きたいのはこっちだ。まるっきり心当たりのない罪を被せられ、婚約者はおろか、親友までも失おうとしているのだから。


「私は……私は憧れよりもあなたのことが大切だったわ、アドリエンヌ。だからこそ、初めは嫌がらせにも耐えていたのに……我慢しようって思っていたのに……。お姉様の手鏡を割るなんて、ひどい……!」


「……憧れよりも私の方が大切?」


 聞き捨てならぬクロエの台詞を、アドリエンヌがすかさず復唱する。普段とは比べ物にならないほど鋭さを増したアドリエンヌの声に、中庭中が凍り付いた。


「では、どうしてあなたは今、ジェイド様の隣にいるのです?」


 中庭中の視線を一身に浴びながら、ついにアドリエンヌは問いかけてしまった。冷静に考えればここでこの質問をするのは悪手でしかないと分かっていたが、耐えられなかったのだ。


 憧れよりもアドリエンヌのことが大切だと言っておきながら、のうのうとジェイドの新たな婚約者の座に収まろうとしているクロエに、アドリエンヌは殆ど初めてに近い苛立ちを覚えた。


 クロエの見目や病弱であるという性質のために、彼女を疎ましく思う人間を何よりも嫌っていたアドリエンヌが、この時ばかりはみんなに守られ泣くばかりのクロエに、腹を立てずにはいられなかったのだ。


「……一体、いつからお二人はそのような関係に……? 私に隠れて、影で逢引をなさっていたということですか?」


「……泣いているクロエを見かけたことが始まりだが、君に配慮する必要があるか? 君がクロエに嫌がらせをしなければ、そもそもこんなことにはならなかったのに」


 ジェイドは忌々しいとでも言うようにアドリエンヌを睨みつけた。その深い青の瞳に込められた少なくない軽蔑の色に、アドリエンヌの心はますます深く抉れていく。


「ジェイド様は落ち込んでいた私を励ましてくださっただけよ! そんな風に責めるのはおかしいわ、アドリエンヌ」


「クロエ……」


 普段はおとなしいクロエが声を荒げてジェイドを庇ったことに感動しているのか、ジェイドは深い青の瞳を揺らがせてクロエを見つめていた。傍から見れば困難に立ち向かいながら支え合う、美しい恋人たちにでも見えているのだろうか。


 嵌められたのは確かに自分も悪い。アドリエンヌにはその自覚はあった。名門公爵家の次代当主の婚約者として、警戒心が足りなかったのだと反省すべき点は大いにある。


 だが、目の前の光景は「仕方がない」と諦めるにはあまりにも残酷すぎた。


 アドリエンヌを満たしていた恋心と友情が、あっけなく、音を立てて壊れていく。


 ……私は大好きだったのに、ジェイド様のことも、クロエのことも。


「……悲しいわ」


 気づけばアドリエンヌはどこか茫然とした面持ちのまま、ジェイドとクロエをまっすぐに見据えていた。そのどことなく不安定な姿に、二人が息を呑む。


「百歩譲って婚約破棄は仕方がないとしても……クロエ、あなただけは、私を信じてくださると思っていたのに」


 クロエと出会ってからの十年間の思い出が走馬灯のように蘇る。じわりと涙が滲んだが、ここで泣くことはアドリエンヌのプライドが許さなかった。


「っ……」


 クロエの表情が、苦し気に歪む。その表情はまたしても周りの同情を買い、アドリエンヌへの非難の声を高めた。


 その瞬間、突如としてクロエの体がふらりと揺れる。すかさずジェイドが受け止めたが、クロエは彼の腕の中で青白い顔をして意識を失っているようだった。


「っ……クロエ」


 長時間日差しに当てられたせいで、病弱なクロエの体が耐えられなかったのだろう。今までそうしてきたように、アドリエンヌは咄嗟に駆け寄ろうとしたが、ジェイドが牽制するようにアドリエンヌを睨んだ。


「クロエに触らないでくれるか、アドリエンヌ」


 その一言を言い終わるか否かといううちに、ジェイドとクロエは生徒たちに囲まれてしまった。アドリエンヌはその輪からはじき出されるようにして、芝生に膝をつく。


 アドリエンヌの目の前には、割れた手鏡の欠片が、忌々しい初夏の日差しを反射して煌めいていたのだった。

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