第二話 アステリオスⅠ(18)

「……ん」

 目を覚まして感じたのは、暖かさだった。

 瞼を開き、静かに状況を確認する。

 布団に挟まれた心地よさに、そこがまるで天国のように感じられた。

 ずっと地獄のような日々を味わい、そして自分は死んだはずだった。

 いや、ここは死後の世界のなのかもしれない。

 だとすれば、もう少しくらい寝ていてもいいのだろうか。

 そう思い、和弘は瞼を閉じようとした。

「あっ」

 その声に、和弘は閉じかけた瞼を開き、顔を横へ向けた。

 そこには、少女がいた。

 年齢は分からないが、見た目から中学生くらいだろうか。

 顔立ち、身長、体の発育――そういった身体的特徴から相手のおおよその年齢を予測する術も学んでいた。

 それが体の芯にまで染みこんでいるため、人を見るだけでその外見から得られる情報をとにかく見つけようとする癖がついてしまっていた。

「よかった。目を覚ましたんですね」

 少女は畳に膝をつき、和弘の顔色を窺うように顔を近づけてきた。

「キミは……」

 体を起こそうとし、覗き込んできた少女の顔にぶけそうになる。

「――ッ!」

 少女が驚き、思わずといった様子で顔を引き、その勢いで畳みに尻餅をついた。

「す、すまない」

 体を起こそうとしたものの、頭が絞めつけられるように痛み、枕へ戻した。

「貧血です。血を流しすぎてましたから。まだしばらくは横になっててください」

「キミは誰なんだ? それに、ここは……」

「私は、小畑春花っていいます」

「小畑……彼の娘なのか?」

「父の史人のことなら、そうです。あと、ここは父と私の家です」

「彼は?」

「今は仕事でいません」

「そうか……」

 自分が生きていて、そしてここにいる経緯を知りたかったが、いないのでは仕方がない。

 娘である春花に訊いても、彼が自分に関する情報を伝えているとは思えない。

「ひとつ、訊いてもいいか?」

「は、はい」

 どこか緊張した様子で、春花が正座をして姿勢を正す。

「キミは、父親から俺のことを訊いているのか?」

「いえ。後で話すと言われたまま、まだ」

「そうか。その方がいい」

「え?」

「俺のことは、知らないままの方がいい」

「……」

 春花から視線を背けるように、天井を見上げる。

「……名前は、なんて言うんですか?」

 知らない方がいいと言ったのに――いや、そう言ったからこそ、この子は訊いてきたのだろう。

「名前を訊いたら、自分も名乗るのが礼儀ですよ」

「……だが」

「私は、いわゆる命の恩人です。恩着せがましいと思われたくはありませんが、見返りにあなたの名前を教えてください」

「……キミが助けてくれたの?」

 驚きに、思わず顔を春花へと向けてしまった。

 その春花は、どこか誇らしげに笑んでいた。

「はい。これでも、医療――特に救命医を目指しているんです」

 少し照れくさそうに顔を伏せる春花。

「勉強もたくさんしてました。縫合の練習も……」

「縫合の練習?」

「はい。あの、鶏のモモ肉を買って、その皮の部分に包丁で切れ目を入れて、それを人の皮膚に見立てて縫ってみたり……」

 そう言われ、和弘は無意識に左腹部に手を当てた。

 助けてくれたことには感謝しているが、縫い目を見るのが若干恐ろしく感じてしまった。

「傷口の感染も、問題ないと思います。出血も、輸血で補いました」

「その血はどこから……」

「父と同じ血液型だったので、血を分けてもらいました」

「ちなみに、そのための道具は……」

「今はなんでも通販で売ってますから」

 当然のように言う春花に、和弘はそんなものなのかと自分を無理やり納得させた。

 どちらにしろ、命を救われたことに変わりはない。

「ありがとう」

「え?」

 突然のことに、春花が驚いたような顔をする。

「さっき言った通り、キミは命の恩人だ」

「あ、いえ、そんな……押しつけがましくて……」

 さっきまであんなに自信に満ちていたのに、冷静になったのか、春花が背中を丸くして恥ずかしそうに声を小さくした。

「相馬和弘」

「それって……」

「俺の、名前だ」

「相馬……和弘さん」

 まるで自分の名前を染みこませるように、春花が相馬和弘の名前を呟く。

「私のことは、名前で呼んでください。苗字だと、父と分からなくなりますから」

「……春花」

 言われた通りに名前を呟くと、春花は顔を赤くし、なぜかもじもじと体をくねらせていた。

「どうした?」

「い、いえ。だ、男性の人に名前で呼ばれるのが、むず痒くて」

「……じゃあ、やぱり苗字で――」

「いえ、名前でいいです。名前で、お願いします」

「分かった」

「少し休んでください。今は、体を大事に」

「ああ。もう少しだけ、世話になる」

「はい」

 微笑む春花に、和弘はこれまで感じたことのない安らぎを感じていた。

 瞼を閉じると、春花が立つ音がし、襖が開き、閉じられる。

 和室でひとり、静かな時間が流れる。

 訓練では、眠っていようとも常に警戒心を四方に張り巡らせ、些細な音や気配で目を覚ますようになっていた。

 一回で長い時間の睡眠をとるのではなく、数回にわたって短時間の睡眠をとる。

 極端な時には、三十分も寝かせてくれなかった。

 しかも、登山訓練で体は疲労しきった状態で眠っていたときだ。

 今では、それが異常なことだと分かっているのに、こうして布団に包まれて眠っていることに、罪悪感を抱いている。

 あまりに非常識な訓練内容が常識となるまで骨の髄に叩きこまれた結果。

 これこそが、人格矯正であり、そして思考停止の成れの果てだった。

 ただひたすらに『殺人兵器』となることを求められ、『人間』であることを否定されていた。

 そして、最終試験を落ちた自分は、『人間』だった。

 だからこうして今、これまでの所業に対し、疑問を抱くことができている。

 だとしたら、亮介はどうなる?

 あれは、亮介の意思ではなく、暗殺者と創り出す計画の影響なのだとしたら。

(……いや)

 違う。

 あの時、ナイフが腹部に刺し、間近で見た亮介の表情。

 あれは、明らかに自らの意思で行ったいた――そんな目だった。

 あれが、あの計画を立案した者たちが求めていたものなのだろうか。

 あの亮介が、そんな傀儡のような存在に成り下がるのだろうか。

 分からない。

 自分を刺すはずがないと思っていた亮介が刺したように。

 他人の心は分からない。

 パートナーとして生死を共にした相手ですら、理解しきれていなかった。

 するはずがないと思っていたのは自分で、亮介はした。

 考えれば考えるほどに泥沼に沈んでいき、和弘はそのまま眠りについたのだった。

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