第二話 アステリオスⅠ(7)

「キミ、ちょっといいかな?」

 訓練を終え、宿舎に戻る流れに乗ろうとしていた和弘は、呼び止めるその声に足を止め、振り返った。

 視線の先に立つのは、四十代の男だった。

 第一印象は、黒縁メガネのせいか、どこか優男に見える。

「ちょっと道に迷ってしまってね」

 ハハハ、と本当に困っているのか分からないような笑い声に、和弘は怪訝に思いつつも、ここにいるということは関係者であることに間違いはなく、仕方なく男が言う施設まで案内することにした。

「実は、この計画の視察に来ていてね。キミたちの記録は見させてもらったよ」

 横を歩く男が、ちらちらとこちらを見てくる。

 まるで、観察するような視線は、しかし不快には感じられなかった。

「ひとつ訊いてもいいかな?」

 男が立ち止まる。

 和弘は一歩前に進んだ状態で止まり、肩越しに振り返った。

「キミはこの計画に参加したことを、後悔していないかい?」

 じっと見つめてくるその視線は、どこか憂いて見えた。

 まるで、自分のことを憐れんでいるような……。

「いや」

 だから、それに反骨したわけでもないが、和弘は否定の言葉を口にしていた。

「そうか……ならいいんだ」

 肩の荷が下りたかのように、男はふっと表情を和らげ、いからせていた肩を下ろした。

「もし何かあったら、ここに連絡してほしい」

 そう言って渡されたのは、名刺だった。

 それを受け取った和弘は、男の名前を確認した。

「小畑史人……」

「一応、キミたちが参加している計画の主任開発者を任されている立場なんだ」

「……開発?」

 ここで行われているのは訓練であって、開発ではない。

「いずれ分かるさ。最終試験も近いと訊いている。その試験にも立ち会うことになっている。この計画が成功して、システムが完成すれば、日本の治安は各段によくなるだろう。キミたちに負担を強いることになるのは申し訳ないと思うが……」

「俺たちは、別に誰かのためになんて思っていない」

「え?」

 男が目を見開く。

「俺たちは、自分の意思で参加した。自分のために。だから、あんたが何に負い目を感じているのかは知らないが、気にする必要はない」

「そうか……そう言ってくれると助かるよ」

「俺たち存在が、誰かの救いになるのか?」

 男は、日本の治安が良くなると言った。

 そのシステムの一端に、自分たちが関わっていると。

「ああ、ボクには娘がいてね。今年で十四だ。だけど、六年前のビル爆破テロで母親を亡くしてね」

 それに対し、和弘にはかけることがなかった。

「もう娘のような子を出したくない。だから、ボクはこのシステムを完成させたい」

 男が決意を示すように、眼前で拳を握りしめる。

「名前は?」

 自分でも驚くようなことを口にしていた。

「え?」

「あんたの娘の名前は?」

「……春の花で、春花だ」

「そうか」

 それだけ訊くと、和弘は踵を返して歩き出した。

 その後を、足音が追いかけてくる。

 それからは、お互いに話すこともなく、和弘は施設本部まで辿り着くと、男と別れ、宿舎に戻った。

 部屋に戻ると、シャワーを終えていた亮介がいた。

「遅かったな」

「迷子の案内をしてた」

「大の大人が迷子、か」

「……?」

 意味深な亮介の発言が気にはなったが、和弘はそれよりもまずはシャワーだと思い、共同のシャワー室へと向かった。

 訓練用の服を脱ぎ、下着も脱ぎ捨てる。

 裸体になった体は、ここに来る前とはまるで別人のように変貌を遂げていた。

 つけるべきところにつけた筋肉と落とすべきところは落とした脂肪によって作り上げられた、ボディービルダーのそれとは違う戦闘に特化した肉体。

 不必要な筋肉の肥大は、動きを制限させるし、何よりも目立つ。

 それは、存在を秘匿する者にとってはご法度であり、何よりも大事なのは、一般人としてとけ込むこと。

 鏡に映る自分の体は、至る所に小さな擦り傷や鬱血の痕が見られた。

 それでも、ここに至るまで大きな傷は負っていない。

 和弘は、シャワーを手早く済ませると、部屋に戻り、ベッドに横になった。

 亮介はすでに寝ており、話すこともなく、和弘もまた眠りに落ちた。

 それが、亮介との最後の夜となった。

 翌日、告知もなしに最終試験が行われたのだった。

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