第一話 アリアドネ(20)

「乗れ!」

 運転席のウィンドウが少し下げられ、その隙間から日下部の声が届いた。

 和弘は立ち上がり、日下部のSUVへと駆け寄った。

 空木との近接戦闘で体じゅうが悲鳴を上げている。

 一般人が殴るのと、アステリオスが殴るのとでは、一撃の重さに差が出る。

 街中でチンピラに絡まれたとしても、和弘は彼らの殴打を受けてもそれほどまでにダメージを負うことはない。

 だが、アステリオスの一撃は違う。

 同じアステリオスの人間であれば、ある程度は威力を逃がすこともできるが、一般人がまともに受ければ、それは死に繋がる。

 それは、アステリオスが繰り出す殴打の目的が、『殴ること』ではなく『殺すこと』を前提にしているからだ。

 アステリオス計画は、人を武器に変える。

 あらゆる戦闘技術や武器の扱い方を学んだが、何よりも鍛えられたのは、その肉体と精神だった。

 そのおかげで、今でも和弘は膝をつかずに歩くことができている。

 ドアハンドルに手を伸ばす。

 同時、月明かりによって照らされた病棟の屋上に、不自然な影が見えた。

 顔を背けた直後、左肩に鋭い痛みが走る。

「――ッ!」

 まるで熱した鉄棒を押し当てられたかのような焼ける痛みに、和弘はバランスを崩し、倒れた。

「和弘さん!」

 後部座席のドアが開かれ、春花が飛び出してくる。

 そしてあろうことか、和弘の前で振り返り、守るように両腕を広げたのだ。

 その瞬間、和弘の脳裏に、春花の左胸が撃ち抜かれるイメージが走る。

 和弘は足に力を込め、そこから一気に春花を背後から抱き、そのまま飛び込むようにしてSUVの後部座席へと身を投げ入れた。

「出せ!」

 和弘の言葉に、日下部がアクセルペダルを踏み込む。

 その勢いで開いたままのドアが閉まろうとし、手を伸ばした和弘が最後に勢いよくドアを引いて閉めた。

「掴まってろ!」

 和弘は春花を庇うようにして後部座席に伏せ、手と足を伸ばして体を固定させた。

 アクセルペダルをべた踏みにしているせいか、タイヤの滑る音が振動と一緒に伝わってくる。

 車が左へ右へと揺れ、そのたびに和弘は踏ん張り、春花を守った。

 そうして速度が緩むのを体感すると、和弘はそこでようやく顔を上げた。

「病院を出た」

 運転している日下部が、前方を見ながら言う。

「どうにか切り抜けられたな」

「ああ。だが、油断はできない」

 春花を起こさせる。

「無事か?」

「は、はい」

 返事をする春花に、和弘は言った。

「無茶をするな」

 それは、和弘を庇おうとしたときのこと。

「ごめんなさい。でも……」

「キミを守るのが、俺の使命だ。その使命を、全うさせてくれ」

「どうして私なんかをそこまでして守ってくれんですか?」

 春花の視線は、疑問と不安で揺れていた。

「今の俺があるのは、キミのおかげだからだ。それに、小畑史人にも恩がある。俺は、彼と誓った――キミを守ると」

 手を伸ばし、寒さのせいではなく、しかし震えているその肩に、そっと手を置き、

「キミを守らせてくれ」

 その言葉に、まっすぐに向けられた視線に、春花は心が決壊したかのように泣いた。

 俯く春花を、和弘はそっと抱き寄せ、その頭を撫でるのだった。


            ※


「生きてる?」

 駐車場で仰向けに倒れる空木の頭を、雨宮は靴のつま先で小突いた。

「う……」

 小さく呻く声が漏れると、閉じていた瞼が開かれた。

「体が……動かない」

「そりゃあ、車に轢かれたんだから、無事じゃすまないわよ」

「あいつは……?」

「あいつ? ああ、相馬のこと。逃げられたわ。それにしても、あいつはホントに勘がいいわよね。狙い定めていても気づかないのに、撃とうとした直前に気づくんだもの。頭は外したけど、左肩を抉ってやったわ」

「上々だ」

「そうね」

 右手を伸ばす空木の手を掴み、引っ張り上げる。

 上体を起こした空木は、そこから自力で立ち上がった。

 刑事の男は完全に空木を轢き殺したと思っているだろうが、屋上から状況を見ていた雨宮には、空木がうまくボンネットに乗ることで脚の骨折を防ぎ、ブレーキの際にコンクリートの地面に投げ飛ばされたときも、ちゃんと受け身をとっていたことは分かっていた。

 フロントガラスに背中をぶつけたのは運が悪かったと言うしかない。

 立ち上がった空木が腰に手を当て、自身の体の状態を確かめる。

「撤収するぞ」

 その声に、雨宮も空木も少なからず驚いた。

 いつの間にか、亮介が立っていたからだ。

 あいかわらず、この男は化け物だ。

 同じアステリオスだが、それでも亮介の気配だけは察知することができない。

 駐車場という死角がない場所にも関わらず、ここまで接近を許してしまった。

 亮介が敵になったらと思うと、ゾッとする。

 それを思うと、和弘もまた、亮介と同類なのだ。

 亮介の指示に、空木は狙撃銃の傍らでしゃがみ、ワゴン車の下に手を突っ込むと、隠しておいたケースを取り出し、そこに解体した狙撃銃を収納していった。

「雨宮」

「ん?」

 呼ばれた雨宮は、亮介を顔を突き合わせた。

 亮介の視線が、雨宮の目を通り抜け、頭の中まで覗き込まれているように感じた。

 視線を背けたいのに、それさえも許されない。

 だからといって抵抗することもできず、雨宮はただ亮介の視線が外れるのを待つことしかできなかった。

「撤収準備完了」

 空木がケースを担ぎ、戻ってくる。

「行くぞ」

 亮介の視線が外れる。

 空木が先頭を歩き、車の鍵を取り出す。

 雨宮もその後に続くように亮介を横切り、

「次はないぞ」

 まるで耳元で囁かれたかのような、脳に直接書き込まれたようなその言葉に、雨宮はなんでもない風を装いながらも、服の下では脂汗がどっと溢れ出ていた。

「切り替えがまだ出来ていなかっただけよ」

 そう言うのが精いっぱいだった。

「そうか」

 後ろを歩く亮介に対し、雨宮はまるで銃口を背中に突きつけられているような感じがして、言葉通り次はないと覚悟するのだった。


            ※


 明朝。

 ニュースで病院の爆発事故が取り上げられたものの、それは『事故』であり、奇跡的に死者もいなかったため、翌日には人々の記憶からも薄れていったのだった。

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