第一話 アリアドネ(9)

 月明かりが、病室を照らしている。

 その明かりに照らされた春花の寝顔を、美鶴はじっと見つめていた。

 ベッドの横で椅子に座り、布団から出ている春花の手を握っている。

 中庭で心中を吐露した春花が、心細くなり、しばらく一緒にいてほしいと言ってきたのだ。

 仕事としては業務外のことだが、美鶴自身が春花のことを案じていたため、快く了承し、夜になってからもおしゃべりに耽っていた。

 そうしているうちに面会時間も過ぎてしまったが、春花が眠るまでの間ということで、病院側に許可をもらい、こうして春花が眠るまで手を繋いでいた。

 眠りについた春花の手は、弛緩して美鶴の手を離した状態にある。

 それでも美鶴は、その手を重ねていた。

 仕事も終わって、これ以上は時間を割く必要もなく、手だって掴まれていないから、立ち上がって静かに去ることもできる。

 それでも、美鶴はもう少し、もう少しと自分に言い聞かせ、春花が手を離していようとも、その手をやさしく握り続けていた。


            ※


 病院の廊下――月明かりどころか廊下の電灯の明かりすら届かない闇――死角に当たる場所で、その人物はスマホの振動に通話をオンにした。

『私だ』

 開口一番、名乗らずとも分かるだろうと言いたげなその尊大な態度の声に、クライアントの顔を思い浮かべる。

『彼は現れたか?』

「いや、まだだ」

『ふむ。予定では、アリアドネ作戦で誘き出すはずでは?』

「奴らも馬鹿じゃない。上田史人のSIAとの接触によって、内部監査室が動いてる。病院内にそれらしい人物を何人か見かけた。向こうは俺に気づていないがな」

『計画が暴露されたと?』

「いや、であれば、内部監査室どころかSOFが動く。だが、病院の内外にSOFが配備されている気配はない」

『SOF――SIAが擁する特殊作戦部隊Special Operation Forceのことだったな』

「ああ。警察が対応できない凶悪事件やテロが国内で起きた際に出動する。俺たちと言えど、SOF相手には分が悪い」

『まだ待つのか?』

「いや。今夜、実行する」

『奴からの命令は?』

「小畑史人は自衛のため、Lシステムをアクセスコードを暗号化し、その暗号キーをUSBメモリーに移し、安全なところに隠した」

『その安全なところと言うのが――』

「ああ、あいつだ」

『確かに。それ以上に安全なところもないだろう』

「だが、あいつは『人』であること捨てられなかった。『人』である以上、小畑春花アリアドネを人質にすれば必ず救出のために姿を現す」

『それで自らの命が危険に晒されるとしても?』

「ああ。あいつは失敗作だが、それでも被験体として選ばれただけのことはある。俺も、あいつも、死など恐れない。為すべきことのためならば、命さえも賭す」

『素晴らしい。それでこそあの計画に投資した甲斐がある。今宵、その成果を見ることが叶うだろう』

「約束は守ってもらうぞ」

『それは保証する』

「今から一時間後。午前零時、状況を開始する」

 スマホを耳から離し、通話を切る。

 相手の番号は登録されておらず、常に非通知でかかってくるようになっている。

 通話をオフにした指で、そのまま番号を押し、通話ボタンを押す。

 コール数にして二度目で相手が出ると、

「午前零時、アリアドネ作戦プランB、状況開始。奴を狩る。狼煙を上げろ」

『了解』

 それだけ告げて、相手が通話を切る。

 スマホをズボンのポケットにしまうと、死角から出る。

 そこで初めて彼の存在感が如実となった。

 脇に挟むようにして手に持っていた児童養護施設関連の資料を自動販売機横に並ぶゴミ箱に捨てると、春花の前で相馬和弘と名乗った青年は、廊下を歩き出した。

 そして、出迎えの準備を進めるのだった。


            ※


 夜が深まり、日下部は空腹に耐えていた。

 本当なら近くのコンビニでパンでも買いたいところだが、その間に何かあったらと思うと気が気でなく、結局は車内で待機することを選んだ。

 もしコンビニで会計中に春花に何か遭ったら、日下部は死ぬまで後悔することになる。

 せめてこの夜を乗り切れば、朝になって人も増え、危険性も低くなり、食事をとる余裕も出てくるだろう。

 傍目で和泉を見るが、さっきから微動たりしない。

「腹、すかないのか?」

「三日までなら、水だけで心身のパフォーマンスを保つことができます」

「マジか……」

「そういった耐久訓練も受けるんです。睡眠も同様です。こう見えても、軍事訓練を受けていましたから」

「じゃあ、防衛省……自衛隊とかの出身なのか?」

「個人的なことを話す必要はありません」

「そうですか、っと」

 違うと否定すればいいものを、話す必要がないという否定の仕方は、肯定を意味する。

 どうやら、和泉涼子という女性は、見た目からでは測れない実力を持っていると思った方がいいだろう。

 刑事として、命の危機を実感したことが一度や二度はあるが、それでも訓練という意味では、和泉の方が経験豊富なのだろう。

 日下部の実力は、現場で身に付けたもの。

 言ってしまえば喧嘩に近い。

 殴られたこともあれば、ナイフを向けられたこともある。

 もし、稽古として和泉と戦えば、日下部は負けるだろう。

 だが、突発的な状況での戦闘となれば、どうなるかは分からない。

 和泉が現場で実戦に遭遇したとき、どんな対応をとれるのか。

 それは日下部にも分からない。

 すべては、実戦に出くわさなければ、その人の本性は分からないのだから。

「吸うなら外で吸ってください」

 無意識に煙草の箱をコートから取り出していた日下部は、指摘されて初めて煙草を吸おうとしていたことに気づいた。

「俺の車なんだか」

「誰の車かが重要ではなく、誰が乗っているかが大事なんです」

「俺に気を使えと?」

「是非」

「はぁ、肩身が狭いねぇ」

「だからやめることをおススメしているんです」

 そんな言葉を左耳から右耳へと流し、日下部は外に出た。

 三月の夜はまだ寒い。

 日下部は煙草の箱から一本取り出し、口に咥えると、入れ替えるようにしてライターを取り出した。

 カチ、カチ、と何度か鳴らすが、一向に火が点かない。

「くそっ」

 そうして何度めかの挑戦でようやく火が点くと、すぐに煙草の先を近づけた。

「ふぅ……」

 至福の一服を堪能し、ようやく心が落ち着いた。

 そんな日下部の視界に、すっ――と動く影が見えた。

「ん?」

 その方向へ目を向けるも、そこには誰もいなかった。

 気のせいかとも思ったが、刑事としての勘が、何かを告げていた。

 日下部は運転席のドアを開けると、叫んだ。

「不審者を見つけた。追うぞ!」

「え? ちょっと、待って――」

 言うなりドアを閉める日下部に、慌てて車を降りる和泉。

 そして二人は、病院施設の奥に当たる人気のない場所へと入り込んでいった。

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