第一話 アリアドネ(8)

 日が沈む前の時刻。

 病院の中庭は、四方を囲まれているため、すでに薄暗くなっている。

 日が沈むと気温が下がり、中庭に来る人もいなくなっていた。

 そのなかでひとり、春花はベンチに座って縮こまっていた。

「は~るかちゃん」

 薄暗い雰囲気には場違いな明るい声に、春花は顔を上げた。

「こんなところでどうしたの?」

「美鶴さん……」

 その暖かい笑みを、春花は直視することができず、すぐにまた顔を伏せた。

 そんな春花の隣に美鶴が腰を下ろし、下から覗き込んできた。

「まずは顔を上げて」

「……」

「でないと、私がずっとこのままの体勢だから辛いの」

 そう言われ、美鶴と視線を合わせる。

 ベンチに座った状態で上体を前に倒し、そこから春花の方へ顔を覗き込ませる姿勢は、確かに長く続けていられるものではない。

 それを分かってやっているのだから、美鶴も意地が悪い。

「分かりました」

 春花は折れると、猫背にしていた背中を伸ばすようにして顔を上げた。

「ふぅ」

 それに合わせて美鶴も顔を上げ、わざとらしく息を吐いていた。

「美鶴さん……私……私……」

 その先のことを口にするのが辛くて、だけど美鶴には訊いてほしくて、膝の上に乗せた握り拳をわななかせながら、春花は震える口を開いた。

「私……独り……なんですね」

 堪え切れなくなり、ぎゅっと閉じた瞼から涙が溢れた。

 頬を伝って滴り落ちた涙が、握り拳の甲を濡らす。

「春花ちゃん……」

 美鶴は体を横に移動させて春花と密着すると、左腕を春花の肩に回して引き寄せ、右手を春花の握り拳に重ねた。


            ※


 病院の駐車場に車を停めるも、すぐには降りず、日下部と和泉の話し合いを続けていた。

「IATで開発されていたLシステムは、SIAのメインコンピュータに導入される予定になっていた。それが稼働すれば、日本の防衛システム――特にサイバー面が強化される。海外だけじゃなく、国内でのサイバーテロに対抗することもできるようになる。それだけ大事な案件なのよ」

「それだけ訊いてれば、国にとってはいいことじゃないか、と言えるんだがな」

 だが、そうではない。

 でなければ、史人が内部告発などするはずがない。

「史人は何を告発しようとしたんだ?」

「それを訊く前に、彼は暗殺された」

「暗殺? 物騒だな」

「事実よ。彼は暗殺された。おそらくLシステムの関係者に」

「あんたらじゃなくてか?」

 非公開組織が非公開である理由は、表沙汰にできないことをやるため。

 諜報、恐喝、拉致、拷問、そして暗殺。

 そうやって国を守る。

 海外の某国では当たり前にやっていることだ。

 それを日本でもできるようにするためのSIA、そしてLシステム。

「少なくとも、私が知る限りでは、彼はむしろ協力者だった。そもそも、私たち内部監査室は前々からIATを監視していたの」

「IATを……」

「IATに開発を依頼していたLシステム。その内容はあまりに不透明で、彼らからの開発進捗の定期報告に対し、どうにもこちらの予算以上の『何か』をしているようだった」

「『何か』?」

「ええ。それがなんなのか、ずっと分からなかった。IATはあくまで防衛省の管轄であって、私たちであっても簡単には査察もできない。それに、Lシステムの実装はSIAにとっては必要なものだから、万が一にも開発中止にはできない」

「正しいことをしたいのに、それが自らの首を絞めることになる」

「時々、自分のやっていることが嫌になる。このまま見過ごせば、何事もなくシステムは完成して、稼働すれば日本の安全はさらに保障される」

「だが、それを許せないから、あんたたちのような疎まれる存在が必要なんだ」

「ええ、分かってる。必要だからと目を瞑らせて、その暗闇で好き勝手にやっている連中がいる。それを見過ごせば、組織は必ず腐る」

 警察組織でさえ、上でどれだけの不正が行われ、見過ごされているか。

 当たり前を言い訳に、誰もがそれを実行して、それを指摘した者が消される。

 法を守り、法を破る存在を逮捕することのできる権限を持つ者たちが、法の網目をかいくぐっている。

「小畑史人は、私たちのその『何か』が『アステリオス計画』であることを教えてくれた」

「あんたは史人を殺したのがアステリオス計画だと言った。アステリオス計画っていうのは一体、何なんだ?」

 車の座席に座りながら話し合う日下部と和泉。

 和泉はすぐには口を開かなかった。

 だが日下部は、ここに来て和泉という人間を信用し始めていた。

 だから、この沈黙も言いたくないからではないことを日下部は感じていたため、促すことなく待っていた。

 日はとっくに沈み、夜を迎えている。

 駐車場の外灯が日下部と和泉を照らし、病院の窓から漏れる明かりが目立つ。

「SIAの目的は、国を、そして国民を守ること。そのために、不利益になる存在を消す。それが例え、国外だけでなく、自国民だったとしても」

 それは、本当ならば避けたいことだ。

 だが、国民が自国に被害を与えるなど、それこそ日常茶飯事だろう。

 汚職や隠蔽工作、情報漏洩、横領――挙げればキリがない。

「Lシステムは、そういった国内に対応するためのシステムでもあるの。アステリオス計画は、そのLシステムの末端を担う存在。自国に不利益をもたらす存在を抹消すするための……」

「じゃあなんだ、史人は国に不利益をもたらす存在だったと言いたいのか」

「違う。彼を殺したのは、Lシステムを使って口封じをした奴らよ。奴らは、彼が私たちに情報を渡すことによって不利益を被る存在。私欲で導入前のLシステムを独断使用し、自衛のために人の命を奪う連中。そいつらは、彼の娘を利用して、証拠を消そうとしている」

「証拠だと? そんなものがあるのか」

「ええ。でも正確には、証拠ではなく、証人なのだけど」

「証人だと? 史人の他にも、告発しようとした者がいるのか?」

「いえ。そうじゃない。証人は証人でも、生き証人だと言っていたわ」

「生き証人……?」

「私も詳しいことは聞いていないの。紹介される前に彼は暗殺された。アステリオス計画の内容についても、その生き証人自身の口から聞く予定だった。彼が亡くなって、その生き証人がどこで何をしているのかも分からない。だから、今は細い糸に頼るしかない。それが、彼の娘」

「春花ちゃんが、か」

「事故に見せかけた暗殺。そこで小畑春花は犯人の顔を見たかもしれない」

「犯人……って、まさか!」

「そう。その犯人は間違いなく、アステリオス計画の……」

「こうしちゃいられん!」

 車のドアを開けようとした日下部は、コートを引っ張れる勢いに浮かしかけた尻を座席に強制的に戻された。

「何をするつもり!」

「決まってるだろ! 春花ちゃんを安全なところに移動させるんだよ!」

「それはダメよ」

「なに言って――って、まさか!?」

「そのまさかよ」

 味方だと思っていた目の前の存在は、やはり組織の人間なのだ。

「いま避難させたら、奴らをおびき出すことができない」

「知ったことか!」

「それしか方法がないのよ!」

「両親を亡くした子を囮にして、それでもお前らは人間か!」

 女だろうが関係なく、日下部は和泉のシャツの襟を鷲掴み、睨みつけた。

「そうよ。私たちは人間よ。だから、非情なことだってできる。キレイごとじゃ、この国は守れない。私たちは仕事は手を汚す。それが必要だから。だから非公開なのよ。この国を守るためなら――」

「だったら、お前たちがやっていることは、奴らと変わらないじゃねぇか」

「違う。奴らは私欲と保身のため。でも私たちは、国益と国民のためよ」

「人の命を囮にしておいて――」

「だったら、もし囮にしようとしているのが、殺人犯のどうしようもないクソ野郎だったら、あなたはどうする? その男はあなたの大切な人を殺した犯人で、その犯人は誰かに依頼された様子。依頼人は、犯人が口をわることを恐れ、命を奪おうとする。そんな奴でも、あなたは囮に使うことを拒む?」

「それは……」

「口では反対しながらも、渋々といった様子で最後には了承する。内心では、殺されてしまえばいいと思いながら。で、その後で殺したに来た相手を捕まえて、依頼人の名前を吐かせればいい……違う?」

「……」

 日下部は何も言えなかった。

 和泉の言わんとしていることが、分かっているから。

「人は所詮、情に生きる生き物なのよ。あなたがそれほどまでに怒れるのも、囮の対象が親友の娘だから。小さい頃から面識があって、可愛い存在だから」

 日下部は掴んでいた胸倉を離した。

 和泉がシャツを直す横で、日下部がドアガラスに拳を叩きつけた。

「くそっ!」

「私たちは、そういった情を乗り越え、むしろ利用すらする。でも、春花さんのことは守る。病院内には、内部監査官が何人か潜入してる。そのうちのひとりはまだ新人だけど、最も近い位置で護衛を兼ねて監視している。決定的な何かがあれば、その時には連絡も来る。私のことなんて信用できないかもしれない。でも、信じてほしい」

 真摯な瞳で見つめる和泉に、日下部は激動する心と、冷静になれと訴える頭がぶつかり合うなか、やがて冷静になっていった。

「……分かった」

 日下部の言葉に、和泉がホッと胸を撫で下ろす。

「とりあえず、今日はここで待機する」

「見張るつもり?」

「ああ、話を聞いた以上、このまま帰ることなんてできるはずないだろ」

「だったら、私も付き合うわ」

「車の中で二人っきりか」

「変な気を起こさないでね」

「年下は好みじゃないから、安心しろ」

「そうね。むしろ同じ歳の女性が好みかしら?」

 その問いには答えず、日下部は腕を組み、じっと病院を見つめていた。

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