第25話 メイド少女と異形の神編

「ぐぇっ!?」

「むっ? この気配は……?」


 銃弾の嵐を掻い潜り、辰虎が警備員の最後の一人を拳で黙らせると、不意に廊下の角から不穏な気配が漂ってくるのを感じ取った。


 と、次の瞬間。


「ゲヒギハゲハハハオロロロロロォォ……うげぇ、気持ち悪い、タスケテ」

「自業自得やろ! もうちょい踏ん張れ!」


 巨大な黒い蜘蛛の化け物に追われた辰巳が角を曲がって飛び出してきた。


 化け物の縦に裂けた大きな口からはピエロの上半身が露出しており、そのピエロが呪いの塊をゲロゲロ吐き出しながら助けを求めている。


「辰巳!? 何故ここに!? というかアレは何だ!?」

「成り行きで! ピエロに呪いの種が仕込まれとった! 呪い吐き出さすの手伝ってくれ!」

「何っ!? くそっ、全く厄介な!」


 元々信用ならない男だとは思っていたが、まさかこんな形で敵対することになろうとは、完全に予想外だった。


 そもそも息子がここにいること自体が想定外だが、その息子があの男を見定め、その上で助けると決めたのなら、親として協力しない訳にもいかない。


「それで、何にどれだけ祈った!?」

「弥勒菩薩に二回!」

「それであの大きさか! 全く、どれだけ抱え込んでおったのだあの馬鹿者は!」


 走りながら相手の状態を確認。

 予想を越える呪いの大きさに舌打ちしつつ、辰虎はすぐさま祈りの体制を整える。


「光明真言で行くぞ! 一分でいい、時間を稼いでくれ!」

「分かった!」


 辰虎がその場に立ち止まり、深い祈りの中へと没入する。

 法術の発動に必要なのは、心から相手を救いたいと願う祈りの心と、御仏への深い信頼、そして感謝だ。


 さらに言えば、法術には明確な位階が存在し、位階の高い術ほど「祈りの質」はより純度の高いものが要求される。


 辰虎が選んだ光明真言はあらゆる真言の中でも最高位の言葉であり、その発動には、あらゆる我欲や私怨を断ち切らなければならない。


 それらを自らの命すら危ぶまれる状況において心乱さず成し遂げるのは容易な事ではない。

 それを辰虎は一分でやると言った。


 自分であれば何分かかるか見当もつかない法術をそれだけの時間でやれると宣言した父親の実力に辰巳は内心舌を巻いた。


 越えるべき目標の高さを突きつけられ、少し挫けそうになった心を奮い立たせ、ピエロの気を引くべく声を張り上げる。


「よく思い出せ! どんな人間にだって必ず優しい記憶はある! 悪意だけしか向けられてこんかったなんて、そんな事ありえない!」

「うる、あるうるえるおるうるるる五月蝿いィィィ! だまだまだままままま黙れ黙れだまオロロロロロロロロォォォ!」


 神経を逆撫でする言葉に反応して、ピエロが黒いヘドロのような呪いの塊をゲロゲロ吐きながら辰巳に突進する。


 ゴキブリじみた不快な動きで迫るピエロの顔を狙い、辰巳が霊力弾をばらまいて牽制する。

 相手の意識を自分に惹き付け、お互いの距離がギリギリまで迫ったところで。


「チェストーッ!」


 霊力の鎧を脚に纏い、剥き出しになっていたピエロの腹に渾身の蹴りを叩き込んだ!


 蜘蛛の巨体がぐおん! と勢いよく持ち上がり、天井と床を数回バウンドして動きが止まる。


「ぐぅっ……!」


 蹴りを入れた脚に痛みが走り、辰巳が膝をつく。

 見れば霊力の鎧を突き抜けた呪いが脚を蝕み、脛の肉が腐り落ちて骨が剥き出しになっていた。


 蜘蛛の巨体がのそりと起き上がる。


「痛い? 痛い? 痛いよぉ。どうどうどどどドウジデこンナ酷いことするんだよぉごロロロロロロォェェ」


 口から無数の触手を吐き出したピエロが狂ったような動きで辰巳に迫る。


「オンアボキャベイロシャノウマカボダラマニハンドマジンバラハラバリタヤウン!」


 きっかり一分ジャスト。

 辰虎の祈りは無我の境地に達し、最強の真言が世界を金色に染め上げる。




 ふと気が付くと、ピエロは金色に輝く池のほとりに立っていた。

 池には池の光を浴びて美しく輝く蓮の花が咲き誇り、どこからか美しい音色が聞こえてくる。


 その光景はまさに音に聞く極楽浄土そのものだった。

 これほど自分が立つに相応しくない場所もあるまいと、ピエロは自虐的な笑みを浮かべる。


 すると固く芽を閉じていた蕾の一つが花開き、その花の上に嬉しそうに尻尾を降る親友の姿があった。

 見間違えようもない。フカフカの栗毛と優しそうな瞳。


「ジョン!」


 ピエロが手を伸ばすと、蓮の花が水面を滑るように動いて、池のほとりへ近づいてきた。

 ジョンも久しぶりの親友との再会を喜ぶように尻尾を大きく振り、顔を舐めてくる。


 ああ、そうだ。この手触り。この匂い。間違いない、本物のジョンだ。

 懐かしさのあまり、男の目からボロボロと涙が零れ落ちた。


 涙と共に己の心を隠すピエロの化粧がボロボロと剥がれ落ち、剥き出しの心が顔を出す。

 ピエロの仮面を脱ぎ捨て、ただの矢曽根郡司になった男は、自分を照らす温かな光に顔を上げた。

 池の上を釈迦がこちらに向かって歩いてくる。


 池のほとりまで歩いてきた釈迦が、男の頬にそっと手を触れた。

 世の不条理や人の悪意に傷つけられ冷えて固まっていた心が、温かい熱に溶かされ柔らかさを取り戻していく。



 ああ……ようやく思い出した。

 あまりにも幼い頃の記憶だからすっかり忘れていたけど、自分にも愛情を向けてくれた人は確かにいたのだ。


 親の記憶など無かった。

 覚えている一番古い記憶は、同じ児童養護施設の子供から理不尽に殴られた痛みと悲しみの記憶。

 院長先生は助けてくれなかった。自分の事など視界にすら入っていなかった。


 碌な人生では無かった。誰も彼も嫌いだった。


 だが、そんな自分にも、愛情を向けてくれた人は確かにいたのだ。

 

 デパートで買ってきたケーキの上に三本の蝋燭を立てて、何が嬉しいのか、優しそうな老婆がニコニコしながら自分の誕生日を祝ってくれた。

 記憶の奥底に眠っていた、古い、そして温かい記憶。


「おばあちゃん……?」


 ジョンの隣に座る老婆が、申し訳なさそうな顔でこちらを見ている。


 あの誕生日から間もなくして、老婆は布団の中で動かなくなった。

 夏の熱気に当てられて次第に嫌な臭いがするようになった老婆の遺体は、彼の心に言い知れぬ恐怖と深い傷を刻み込み、その存在ごと愛された記憶は封印されてしまった。


 その事を老婆は死してなお心に悔やみ、極楽の池のほとりから下界を見下ろして残してきてしまった男の子を見守り続けてきた。

 そして偶然死産になりそうだった仔犬の中へと飛び込み、再び男の子の下へと戻ってきた。


 あなたはひとりぼっちなんかじゃない。あなたが生きている事を望む存在は確かにいたのだと伝えるために。


 その事を知った男は、己が今まで犯してきた罪の数々を深く後悔した。

 溢れる涙が心の底に溜まっていた毒を洗い流し、男を蝕んでいた呪いが光と共に消えていく――――……。




 やがて光が消えると、ピエロは精も根も尽き果て、みすぼらしい老人のような姿になっていた。


 呪いとは負の感情が生み出す力だ。

 だが、マイナスとはいえ呪いもまた精神の一つの働きであり、それが根こそぎ失われては、老人のように枯れ果ててしまうのも無理もない事だった。


「オーラが綺麗になっとる」


 静かに涙を流し手を合わせる老人を「視て」、辰巳は目を見開く。

 魂が持つ浄化作用だけでは説明がつかないほど、ピエロの魂から穢れが消えていた。


 とはいえ、まだまだオーラは黒く濁っており、残りの人生の全てを罪の償いに当ててどうにか地獄行きを免れるかどうか、といった程度ではあったが。


「御仏の慈悲だろう。今後どうなるかはこの男次第だ」

「……はい。残りの人生をかけて、罪を償いたいと思いまオゴッ! ゴボォ! グ、ゴ……ガッ!?」

「お、おい、どうした!? しっかりしろ!」


 突然、老人が喉を押さえて苦しげに呻きだす。

 まるで正月の餅でも喉に詰まらせたような有り様に、辰巳が老人の身体を「視る」。


 すると、その視線を嫌がってか、原因が老人の喉の奥でもぞもぞ蠢き……。


「オゴッ! がぁッ! おげぇっ!」


 老人の口から太くて黒いひるのようなウネウネした何かが、デロンと飛び出した!


「うげっ、呪い蟲だ! 潰せ潰せ!」

「ビヂビヂビヂッブリュバリュビリブリィ!」


 下痢みたいな汚い鳴き声を上げながら、見た目からは想像もつかないほど機敏な動きで二人の足元を駆けずり回る呪い蟲。


 呪い蟲は呪いを運ぶだけでなく、寄生した宿主の負の感情を増幅させて呪いを強くしてしまう厄介者だ。


 しかも放っておけば勝手に分裂して増えていくため、見かけたら必ず潰さなければならない。

 が、動きが素早く、見た目もキモい上に潰すと臭い汁と呪いを撒き散らすので中々潰すには勇気がいる。


「うわぁ!? こっちくんな! 痛ったぁ!? 傷がぁぁぁ!」

「こら逃げるな! ああくそっ、ちょこまかと!」


 脛が腐り落ちた痛みで思うように動けない辰巳をおちょくるように、カサカサと二人の足元を駆け抜けた呪い蟲は、そのまま廊下の奥へと逃げて行く。


 と、そこに。


「げははははっ、走るのたぁーのしーぃ! そーら俺様が一等賞だぁー! イッヒッヒッ!」


 子供の霊に憑かれてすっかり正気を失った愛斗が床を踏み砕きながら猛烈な勢いで走ってきて。


「ブリュリュリューッ!?」


 ぷちっ。


「「あ」」


 踏み抜いた。それはもう盛大に。

 足の裏から伝わったイヤーな感触に、恐る恐る愛斗が足を上げる。

 黒いネトネトが糸を引いた。


「うぇぇ……」


 悲しげな目で愛斗がこちらを見る。

 いや、そんな目で見られても。その、なんというか……困る。


「えんがちょ切った」


 カチンッ、と刀を納める音。

 瞬間、愛斗の体から黒い障気がもわっと吹き出して空気に溶けるように消えた。

 それから、あれだけ騒いでも眠り続けていた男の子が目を覚ます。


「……あれ、ぼく、何してたんだっけ」

「さあ、お家へお帰りなさい。きっとお母さんが心配しておりますよ」

「あ、そうだ! ぼく、お家に帰る途中だったんだ! ありがとうお爺ちゃん。お兄ちゃん! 、帰るね!」

「あっ、おい!?」


 男の子は愛斗の背中から元気いっぱいに飛び降りると、その周囲に無数の子供たちが次々現れ、そのまま光の向こうへと走り去って消えてしまった。


「な、なんだったんだ……」

「子供の集合霊です。死してなお結界に捕らわれ、還るべき場所が分からなくなっていた所を、貴方の陽の気に引き寄せられて集まってきたのでしょうな」

「え、じゃあアレって全部ユーレイ……」


 愛斗の顔から血の気がすっと失せた。

 父親の守護霊も、悪霊でもない子供の霊は追い払えなかったらしい。

 どこまでも似た者親子である。


「ってか、爺さん何者だコラ。こんな場所に執事とか怪しすぎだろが。あ?」


 と、それはそれとして、初対面の怪しげな老執事を睨み付けながら愛斗は拳を構える。

 とりあえず誰か来たらボコれという指示を、愛斗はまだ忘れていなかった。


「う、宇治原! その人味方や! 逢魔さんがここにおるってことは、やっぱり結界に穴開けたのは臥竜院さんやったんですね」


 いつの間にやら跡形もなく消えていた脛の傷を見て、墓地で見た光景を思い出し、背筋に寒いものを感じた辰巳が慌てて愛斗を止めた。

 この老人には自分たちが束になってかかっても絶対に勝てない。


「ほっほ。元気があって大変よろしい。やはり男子たるものこれくらいでなければ。……しかし辰巳様がここにおられるという事は、やはり時間の流れがおかしくなっているようですな」

「そういえば辰巳お前、学校はどうしたのだ」

「なに言っとるんさ親父、もう夜中の十二時やぞ」

「なんだと!?」


 慌てて辰虎が腕時計を確認すると、辰巳のスマホ時計と十時間も時間がズレていた。


「ふむ……。やはり内包する霊力量に応じて時間の進み方が変化する呪術のようです。それも、研究所の中心部に近づけば近づくほど時間の加速は進んでいく。私の力を持ってしても効果を半減するのがやっととは、流石に姉妹だけあって恐ろしい呪力だ」


 高時はすでに十数回ほど一人で研究所の中心部を目指し、ヒューマンコンピュータの破壊を試みていた。

 だが内包する霊力量によって時間の進み方が変化する呪術に阻まれ、どうやっても中心部に辿り着く前に時間切れになってしまう。


 ならば研究所ができる前に潰してしまえばいいと考え、時間を大きくさかのぼろうとしてみたが、どういう訳かここに突入してきた時点より前の時間へ飛ぶことができなくなっていた。


 しかも時間を遡る度に、戻れる限界が少しずつ短くなっており、現在、遡れる時間の限界は五時間にまで縮まっていた。


 一度研究所の外へ出て時間遡行を試してみたが、同じ結果しか得られなかったことから推測するに、この場所に侵入した時点で高時自身の能力にも制限がかけられたと見て間違いないだろう。


「そっか。そいでいつの間にかヒロたちが迷子に……って、ああーっ! そうだヒロ! あのバカ、俺が目ぇ離した隙に迷子になりおって探しとったんや!」

「なんだと!? こんな場所でアイツを一人にしたら、何をしでかすか分からんぞ!?」


 ピエロに追い回されてすっかり忘れていた。

 あのバカは頭はいいくせに、何をしでかすか分からない恐ろしさがある。


 ただでさえ特大の爆弾を抱えているのだ。何かの拍子に晃弘が全てを思い出して暴走なんてしたら、それこそ世界が終わる。


 だからできる限り誰かが側にいてストッパーになってやらねばならないのだが……。


 と、辰巳の脳裏に一抹の不安が過った、まさにその時である。


 ――――ッドォォォォォォォォォン!!!!


 研究所を大激震が襲った。

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