第32話 動物園の主6


 気がつくと、エナは拳を構え、灰色熊と向かい合っていた。

 どれほど時間が経ったのか、もしくは経たなかったのか、それさえよく分からなかった。


 なにを見、どこへ行っていたのか、帰ってくるとは、いつも途端にあやふやになる。


 ただ、体はすぐに動かなかった。全身が麻痺したようになっていて、身動き一つできそうにない。


 離れていた魂が、ゆっくりと戻ってきているような、そんなもどかしさがある。


 エナの目を見つめて、動きを止めていた灰色熊が、おもむろに近づいてくる。それでも、まだ体は動かない。

 呼吸も出来ず、仙術も練れなかった。


 とてつもない速さの突進からの爪と牙。致命的な一撃をくらう未来が、はっきり脳裏に見える。

 人間を食い続けて、狂気に堕ちた目と暗黒の闘気のようにさえ感じる腐臭。

 死が具現化した姿が、そこにはあった。


 雷一族の里から、ずっと求め探していた“己の中の怪物”は、この灰色熊なのか。怒りと憎しみと寂しさの果てにあるものが、こんなつまらない死と狂気なのか。

 違う。

 こんなものではないはずだ。

 自分が、いつか誰かに受け渡すものは、死でも狂気でもない。

 テスカトリポカから授かった仙術は、もっと尊いものだ。


 動かない体のまま、必死に歯を食いしばり、拳を握り込んだ。


「雪姫!」


 とっさに叫んでいた。口が動いたのか、声がちゃんと出たのか、分からなかった。おそらく声は出ていない。

 それでも、チマルマと向かい合っていた豹、雪姫が反応した。


 コスクァとの旅の途中、雪山で出会った雪豹の母子。その子供の方。

 母親はエナがたおし、以降インカ帝国は二人で姉妹のように旅をした。熱帯雨林のマヤ地方に下りる時に別れ、四年ぶりの再会になる。


「お願い。力を貸して」


 願い事をしたのは初めてだ。エナの声なき声に応じ、雪姫が一声遠吠えした。


 遠吠えが終わった時、雪姫はエナの横に来ていた。


「あんたとも、不思議な縁やな」


 声が出た。雪姫が横にいるだけで、何故か心強く、力が湧いてくる。


 はっきり分かるのは、目の前の灰色熊から怖気おぞけの立つ圧迫感が消え、ただの大きなだけの熊に見えることだ。


 呼吸が楽になり、体が軽く、なにより灰色熊の動きがよく見える。


 自分の全身を巡る気が、滑らかに速く、力強く伸びやかに、心臓の拍動と共に循環しているのも分かった。


 大地に流れる龍脈の気が、両足から螺旋を描いて流れ込み、風とともに天空を流れる気が肺に満ちてくる。


 呼吸によって二つの気は、体内で二重になって螺旋を描くように巡り、互いに補い、時に反発しながらも神気の密度を高めていく。


 そして、エナの全身を巡る気は、雪姫にも流れ、雪姫からも流れ込んでくる。こんなことは、初めてだ。

 未だかつて、なかったことが起きている。人と獣の気が、重なって一つになり、限界を超えてたかまっていく。


 仙術の会得は、いつも唐突で突然やってくる。


 常から準備を整え、鍛錬を積み、神気が充分に満ちた時、テスカトリポカから分け与えられるのだ。

 そして、心の奥に座する、魂の源から言葉は自然に湧き出でて、祝詞のりととなって紡がれる。


「天と地に満ちて流れる龍脈の気よ、呪医術師ティシカルたるエナが願い、雪姫と共に望み、たてまつる」


 神気が雷に変化し、エナの全身を駆け巡っていくと、皮膚に赤い線が浮き上がった。莫大な圧力が体内に生まれ、エナの意思に応じて仙術が組み上がっていく。


「雷の民が、守り、受け継ぎ、封じたテスカトリポカの息吹を、今一度ここによみがえらせ、我に与えよ」


 体を覆う電撃は、細く速く、粒子は残像の尾を引いてどこまでも加速し続けていく。まばゆい霊光は、目の端に映るだけでなく閃光となって動物園を埋め尽くす。


「陽の光、大地に影落ちるよりく速く、影無きが如く我を導け」


 ドン、と一際ひときわ大きく心臓が拍動した。名前だけが伝わる、仙術気身闘法の奥義“無影むえい”がった。


 加速した動きというより、エナ自身は停止していて、周りの、世界そのものが目まぐるしく移動しているように思えた。


 思考するだけで、自在に世界の方が疾風のように動き、灰色熊が一瞬で近づいてきたと思えば、強烈な速さで遠のいていく。


 体当たりするつもりで、踏み込み、右手で石破を込めた拳を放った。灰色熊の左肩の付け根。その奥にある心臓。分厚い毛皮と筋肉に拳が食い込み、巨岩が直撃したような轟音と暴風が弾け、灰色熊はそのまま横滑りして行き、大木に直撃して倒れた。


 エナは石破を放った残心の姿勢のまま、長く息を吐く呼吸を繰り返していく。

 

 石破を放った右の拳は、ほとんど手応てごたえらしい手応えもなく、ただ無影の威力が何一つあますことなく炸裂したという、快感のみがある。


 




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