第33話 アステカ王国の巫女


 三日が過ぎた。


 灰色熊を殴り倒した後、結局エナは気絶してしまった。三晩、眠り続けようやく今朝、目が覚めた。


 寝所としては、王宮にある二階の客室をてがわれたようだった。

 王宮は行政と軍の中心でもあり、多くの人の出入りや活気が、エナのいる寝所にまで伝わってくる。

 隣の建物がちょうど音楽校メカトランらしく、太鼓の音や呪歌が時折り聴こえてもくる。


 床のレンガはトラテロルコの職人が焼いたもので、裏に祝福の呪紋が彫られているという。

 床も壁も純白の漆喰で塗り固められ、至るところにテスカトリポカやウィチロポチトリの絵文字が描かれていた。

 綿を入れた敷き物や紋様の入ったすだれむしろ、夜の冷気避けの火鉢。質素倹約を旨とするアステカ一族であっても、客室には高価な品物がおごそかにしつらえてあった。


 世話をしてくれた侍女に聞くと、ヴィオシュトリの権限で、エナは神殿の巫女に採用になったという。


 田舎から出てきて、腕力自慢の末に認められ、“殴り巫女”枠を勝ち取ったことになったらしい。


「いや、どう考えてもおかしくね?」


 一通り説明して退出して行った侍女を見送り、部屋で一人になるとエナはようやく我にかえった。


「ていうか、殴り巫女てなんなん!? 初めて聞いたわ! いや、ねぇだろ!?」


 女性であるチマルマでも、豹の戦士団に入れるように、能力が認められれば出世出来るのがアステカだった。

 それでも、殴り巫女などという役職はない。


 しかも、侍女の口ぶりからすると、動物園の主を殴り倒した事実は、冗談の一種として吹聴されているようだった。


「え、うち、田舎から出てきた、おのぼりさんなん? かわいそうだから、雇ってあげた的な?」


 寝台に寝転がり、枕代わりの綿入れを抱えてもだえていると、マリナリが入ってきた。


「いやっほい、エナちゃん」


「…………。いやっほいマリナリちゃん」


 うつ伏せになったまま、よく分からない挨拶をそのまま真似て返した。


「採用、おめでとう?」


 笑いをこらえた声で、マリナリは言った。


「あんたの差し金!?」


「違う違う。ヴィオ爺とハゲ隊長の仕込みだってば」


「ハゲ隊長……」


 長距離武装商人ポチテカの零番隊隊長コスクァ。禿頭のエナの養父だ。一般常識として禿頭は恥ずかしいこととされているが、コスクァは意に介していないようだった。


「ま、動物園の主を殴り倒すような、ある意味、あんたも猛獣だもの。手綱たづなを離して、世に放つなんて無理無理の無理」


「あの熊、死んだ?」


「気絶してただけ。今日も元気に生け贄の死体を食ってるわよ」


「頑丈なやっちゃな」


 今になってみると、もう灰色熊に対して敵意もなにもなく、むしろ古い友人だったような気さえしてくる。


「エナちゃんこそ、体は大丈夫なの?」


「お陰さんで、絶好調やね」


 本当は、すっからかんになったような気分だった。何年もかけて練りあげた神気も、各地で集めた龍気も、なにもかもが無くなった。

 一つ残らず、全てを無影は持って行ったのだ。

 今はエナという、名前だけある空虚が服を着ている。そんな気分だ。


 簾が挙げられた窓から外を見ると、彼方に霊山ポポカトペトルが見えた。山頂は万年雪を被っていて、そこからは止むことなく霊気に満ちた風が吹いてくる。



第一部 完




 †


 モクテスマ二世王の宮殿は、一階ないし二階建ての諸建築物で(中略)、そこは、王の居住地であると同時に、政治、行政の中心で広間、会議室、裁判所、宝物殿、徴税官役所、動物園、薬草園があった。

 大神殿の周囲には、円形神殿、テスカトリポカ神殿(中略)、さまざまな聖堂、修道院兼学校カルメカック音楽院メカトラン、兵器廠などが立ち並んでいた。

 アステカ文明p59より 白水社






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