第31話 動物園の主5


 以前にも、一度だけ暗闇の中に落ちたことがある。


 生命の本質とでも呼ぶような、心と体の一番奥。

 患者の病の根源を知ろうとして、脈をながら呼吸を合わせ、想念を同調させていくと、ある時吸い込まれるように意識が闇に飲まれた。

 

 ただの貧血や眩暈めまいではないという、確信がある暗闇だった。

 泥のようにねばく、密度高く、どこまでも濃く深い闇。

 

 奥に奥に吸い込まれるようにエナの意識は落ち続け、ある瞬間、また意識が飛んだ。


 そこは暗闇の果てで、目の前には見えないものの、とてつもない恐怖が

 魂の根源を震え上がらせる、巨大なナニか。

 心臓を、氷の手で鷲掴わしづかみにされるような、理解できない圧倒的な衝撃がエナの体を支配し、向き合っているだけで魂が砕けていきそうだった。


 いて言えば、なにもかもを飲み込み、食べ尽くす強烈な欲求であり、貪欲な意志であり、大いなる力とでも呼ぶしかない、塊のようなもの。


 それは同時に邪悪さも秘めていて、得体の知れないおぞましさを感じるものだった。


 今、またエナはに来ていた。


 やはり、心臓を氷の手で握られたような感覚がある。体が震え、魂が震え、心が震える。


 ただ、なぜか故郷ににも似た懐かしさのようなものもある。


 もう一歩だけ進めば、暗闇を抜けた先に安らぎがあるのも分かった。


 たった一歩だけ前へ進めば、穏やかな、何一つ苦しみのない世界がある。

 アステカで言うところの、天界オメヨカン。平和と安らぎの地だ。


 思い返せば、現世は苦しいことや痛いことばかりの旅だった。

 祖父からの英才教育は辛く、コスクァとの修行の日々は痛みの連続だった。

 インカとマヤでも戦うことが多かった。

 十八年という短い人生の、大半が闘争だったような気がする。


 それがあと一歩前に進めば、すべてが終わる。

 安寧と平穏に満ちた悠久の時が、すぐそこにある。


 すぐそこにあるのに、遠い。

 遠すぎるほど遠い。


 深呼吸して唾を飲み込んだ。

 歩んできた旅の道程を振り返ると、過去の記憶や想念が安らかな未来を、いつも否定するのだ。


 揺らぎそうになる自分の根幹を否定し、虚無を見つめた。


 アステカ人やチチメカ人には、今まで生きて、背負わされたものを運ぶべきところまで運ぶという使命がある。


 知識も技術も、仙術も、すべてはテスカトリポカから預かり、背負わされただけなのだ。

 この世を少しでもよくし、七代先の子らがすこやかたるようにと。


 心を決めると、自然と暗闇に満ちたものがエナを中心に渦巻き出した。光の粒を伴い、星雲のように集まってくる。


 始めゆっくりと、だんだん早く。


 光の粒は輝きを増し、加速しながらエナの視界を埋め尽くし、電光となって弾けて消えた。


 †


 エナが放つ気が、また変化した。

 動物園の主を前に、戦いながら魂が成長しているのだと、チマルマは理解した。


 しかし、本当にそんなことがあるのか。


 困惑と期待が入り混じりつつも、その程度で素手の人間が巨大な灰色熊に勝てるのか、とも思う。まだ、足りない。きっと、まだ遠い。


 横槍を入れて、戦いをやめさせたい思いと最後まで見届けたい思いが、どうしても交錯こうさくしてしまう。


 そのせいで、背後への索敵がおろそかになっていた。


 殺気に振り向いた時、目のすぐ前に真っ白な豹がいた。

 雪山に適応するために進化した、太い脚と長い尻尾。全身をおおう雪のような毛と黒い豹紋。

 チマルマが熱帯雨林でたおした黒豹とはだいぶ違うが、まぎれもない豹だ。


 突進がいきなり来た。鋭い爪の一撃を転がってかわし、起き上がりながら短槍を構えた。


 エナの邪魔をさせたくない。


 一瞬で、闘気をまといなおし、全身にみなぎらせた。


 試練は、いつも唐突にやってくる。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る