23.新年最初の朝がやってきた。

 白い高い壁の向こうから、一年最初の日射しが差し込んでくる。

 夜が明けても、スタジアムの聴衆には帰還許可が出されなかった。七万もの聴衆は、既に待つことにくたびれていた。だが屋外である以上、そこで眠りにつくことにはためらう者が多かった。明け方の気温は、一日のうちで一番冷え込むのだ。

 春とはいえ、まだその気温は昼間と夜では差がある。身を寄せ合って眠ることのできるカップルは良いほうだった。

 それをちら、と横目で見ながら、リタリットはきゅ、と自分の身体を抱え込む。ぞく、と身体が震えるのが判る。ひどく寒かった。息が白い。少し気を抜けば、震えが止まらなくなりそうだった。

 おかしなものだ、と思わなくはない。あの冬の惑星でも、そんなことは彼はそう感じたことは無いのだ。それが防寒着のせいなのか、相棒が居たおかげなのか、そのどちらであったかははっきりしないのだが、今現在、そのどちらも自分の手の中に無いことは確かだった。

 脱出しておけばよかったかな、と内心つぶやいてもみるが、その気が自分自身に無いことは承知の上だった。

 脱出することは、リタリットにとっては容易いことだった。おそらく、現在は要請を受けた首府警備隊が、この周囲を取り囲んでいることだとは思う。この中に爆破テロの犯人が居るだろう、と当局がにらんでいることは間違いがないのだ。

 しかしその犯人が果たして本当にこの中に居るのだろうか、と彼は思う。自分達では無い。確実にそれは言えている。そうするつもりがあるのなら、代表ウトホフトは自分をこの中に送り込んだりはしないだろう、と。

 だがしかし、あの演壇に撃ち込まれたのは、迫撃砲だか対戦車砲だか…… 素人や、小規模のレジスタンスが入手できる様な武器では無い。

 とすると。

 陽が上りつつある。すり鉢の底の様な真ん中の巨大なスペースの上に、破壊された演壇の影が大きく伸びていた。


   *


 ぶる、とアンハルト少将は車の上で身体を震わせた。

 スタジアムの外を取り囲む首府警備隊もまた、寒い朝を迎えていた。

 屋根の無い地上車がおよそ三十台ぐらいだろうか、制服を着込み、武器を常備したまま、要請があってから既に四時間はその場に待機したままだった。

 首府の元部下であったテルミン宣伝相から急な連絡を受けて、南の辺境近いフラーベンから赴任したばかりだった。到着すぐに、側近の部下のテンペウ中尉と共に、首府警備隊への配属命令を受け取り、新年間近の祝賀気分の兵士に、パーティの支度を返上させて、「何か」に備えさせた。

 さすがに新任の隊長のその一方的とも言えるやり方は、反感を抱かせるには充分なものだったが、当のアンハルト少将は、そんなことは構っている暇は無かった。そもそも、そうでなくともそんな特別な祝賀祭があるというなら、それがテロの対象にされることは目に見えているはずなのに、お祭り気分の警備しか考えていない隊員には、さすがにこの少将も多少考えるものがあったらしい。

 穏やかな表情は一時返上することにしたらしい。


「隊長」


 ふっと良い香りが少将の鼻に飛び込む。側近のテンペウ中尉がパックのコーヒーを手にしていた。


「そっと、お持ち下さい」


 少将はありがとう、と受け取りながら苦笑する。確かにそのパックは、少将の義手がちょっと力を入れれば中身を顔に吹き出してしまうだろう。心得ている中尉は、判っているとは思うが、という枕詞は省略して、注意を加える。


「……まだ動きは無いのでしょうか」

「無いね」


 アンハルト少将はコーヒーをそっと掴みながらすする。


「宣伝相閣下は大丈夫なのでしょうか」

「ああ、君にとってもかつての上官だったね」

「ええ。生真面目な方でしたから」

「生真面目。そう、生真面目だったから……」


 いけない、と少将は手の甲で軽く自分の頬をはたく。過去形にしそうな自分に気付いた。

 総統ヘラと宣伝相テルミンが砲弾の直撃を受けたこと、その身体が帝都の派遣員によって、安全な場所へと移された、ということは、現在このスタジアム内部で陣頭指揮を取っているらしい建設相スペールンからの報告で聞いている。だがその車が何処へ行ったのかは、まだ誰からの報告も無い。

 その車が出て行った後に、彼らはスタジアム周辺に到着したのだ。その時はちょうど、七万の観衆が、帰宅を求めて、競技場に飛び降りて出口に殺到したところだった。

 だがその時、外を取り囲む首府警備隊の姿に、人々はまた、自分の座席に戻ることを余儀なくされたのである。

 既に四時間がところ経っていた。暗く重い色の空が、次第に白んでくるのを見ながら、手詰まりの状態に、アンハルト少将は、多少自分の中にも苛立ちが生まれつつあることを感じていた。苛立ちの原因は、あの海賊電波にもあった。奇妙な響き方をするその声が、誰かのものに似ている、という感触はあるのだが、それ以上に、この緊張と疲れの中では、神経を逆撫でするものであったのだ。

 しかしその海賊電波もしばらく止まっていた。電波の発信人が内部に居ることは予想がついた。中に居なくては判らない様なことを、発信人は声高らかに延々と述べていたのだから。

 手詰まりだった。中の七万人は、あまりに多数過ぎる。荷物チェックをしたところで、果たして、それが効果あるのだろうか、という疑念も湧く。

 それに加えて、内部に留まっているはずの、スペールン建設相をはじめとした閣僚からの指示も無い。

 どうしたものか、とアンハルト少将は、思った。

 そして思った拍子に、パックを握りつぶしてしまった。あ、というテンペウ中尉の声が上がった時には既に少将の袖は、コーヒーに濡れていた。


「……ですからご注意をと申し上げましたのに……」


 中尉はポケットからタオル地のハンカチを取り出すと、その手を拭く。


「君はいつもそういうハンカチだな」

「これが一番水気を良く吸い取るのです」


 なるほど、と少将はつぶやく。それだけよく、同じことが繰り返されているのだ。

 その手を拭きかけた時だった。少将の車内の通信端末が鳴った。


「隊長だ。どうした」


 少将は濡れていない方の手で端末を取り、耳に掛けると、厳しい声になって問いかけた。


『失礼致します。本部からの連絡が入っております』

「つなげ」


 本部には部隊の1/4を待機させてあった。長丁場の場合、時には隊員を交代させなくてはならない。だから緊急事態には、こちらから本部へと人員の補充を緊急に呼びかけることもあり得た。だが、その逆というのだろうか。アンハルト少将は回線がつながると同時に、どうした、と問いかけた。


『隊長、たった今、反政府組織『赤』及び『緑』より、直接の通信回線が開きました』

「何? それはもしや、犯行声明か?」」

『いいえ違います。その逆です。どう致しますか?』

「それは現在つながっているのか?」

『はい』

「ではつなげ。直接私が話をする」


 少しの間が空く。少将はテンペウ中尉にありがとう、と言って、再び表情を引き締める。

 回線の向こうに、気配がある。


『お初にお目に、いや、お耳に掛かりますな。『赤』代表、センボンス・ウトホフトと申します』

「……首府警備隊隊長、ツェルプスト・アンハルトだ。直接の交信を歓迎する」


 相手の穏やかな声に、少将は気を引き締める。「赤」そして「緑」。さしずめそれは、それまで少将が居た南のフラーベンだったら「橙」という組織に相当する。団結力と組織力の強い、反政府集団だった。

 特に、首府に最も近いこの二つの集団は、南の辺境でもその噂は聞いていた。


『端的に申し上げる。今回のスタジアムのテロ行為に関しては、我々『赤』』及び『緑』そして各地に散らばる我々反政府組織の仕業ではないことを断言する』

「……その根拠は?」

『我々には、総統ヘラを暗殺する理由は無い』


 回線の向こうの相手は、断言する。


「端的だ。それだけでは納得し難い」

『彼の存在は、我々集団の維持のためにも有効だった。それは理解できないだろうか』

「組織の維持」


 アンハルト少将はその言葉を繰り返す。


『かの帝都政府が、帝国の維持のために、反帝国組織をその手の中から作り出した様に、この星系も、本当の内戦を起こさないために、一つの機関として、反政府組織というものを作り出したとは、考えられないか?』


 う、と少将は、声を詰まらせる。帝都政府と反帝国組織の関係については、知る者は少なかった。また、知っている者は、まず口にすることの無いことだった。


「だがまだこの事態に関しては、放送は切られ、情報は首府の外には出ていないはずだ」

『我々は我々の一員を今回中に入れて、事態の変化があった時には、その情報を表に流す様に指示をしている』


 あの海賊放送か、と少将は眉を寄せる。


『首府全域に届いた電波を、更に中継して、現在我々の拠点のあるマルコウで受信し、そこから更に、情報として、この夜のうちに、星系の我々の同盟を組む組織全体に流れたはずだ。アンハルト少将、貴官のかつて担当していたフラーベンの『橙』も、今ではその情報を掴んでいるはず。貴官という優秀な士官を失った現在、フラーベンを落とすのは我々には難しくはない』

「なるほど、この急な人事異動とその新隊長の過去のデータもそっくり揃っていると! そう君達は言うのだな」

『いかにも』


 穏やかな声は、あくまで穏やかなままに、そう返答する。


『それでもお疑いだと思うのなら、現在首府の出口に、我々の中の実働隊が、集結しつつある。その中の私の代理と話していただきたい』

「人質ということか?」

『そう取っていただけるものならそれで結構。とにかく我々は、今回のテロ行為には、全くもって参加はしていない。それだけは承知いただきたい』


 お時間を拝借した、と言って、回線の向こう側の相手は黙った。アンハルト少将は、端末を耳から外すと、不安そうな周囲の兵士の表情をよそに、数分の間押し黙った。そして地上車の周囲を数周歩き回ると、やがて、顔を上げた。


「第七班、ケイワ中佐!」

「は」

「自分の班を連れて、首府出口へ向かい、そこに居るだろう『赤』の実働隊の中から、代表と見なされる人物を連れて来てくれ」

「はい」

「もしその時、向こうが、代表だけを差し出すのを拒む様なら、第七班全体をそこに待機させろ」

「……判りました」

「我々はその間に、エネルギー補給をする。必ずする様に!」


 はい、とそこに待機していた兵士達は大きく声を上げる。実際彼らも充分披露していた。少将は、ピーナツバター&ジェリーの濃いサンドイッチを頬張った。

 四十分程して、一台の地上車が戻ってきた。そこには、第七班班長ケイワ中佐の他、三人の男が乗せられていた。まだ若い男だった。少なくとも自分より年上では無い、と軍の中では若手で出世頭にあるアンハルト少将は判断した。


「君達が、『赤』代表の代理なのか?」


 少将は、その中でも一番格が上でありそうな男に話しかけた。刈り上げた髪に、帽子をかぶったその男は、童顔の割には落ち着いた口調で答える。


「正確に言うと違うが。現在においては、実働隊の一つを任されている。よろしくアンハルト少将。俺はヘッドと呼ばれている。こっちは俺の副官でビッグアイズ。それに、こっちはジオと言う」

「それは、本名か?」

「本名ではない。だが俺達は、自分の本名を知らない。本名と過去は、政府によって消された」

「君達は!」


 言いかけて、アンハルト少将はそこで言葉を止めた。


「……今はそれを詮索している場合ではないな」

「あなたは話の判る人のようだ」


 にやり、とヘッドは笑みを浮かべる。その目が、悪戯小僧の表情で細められた。少将は、班長格の佐官と、側近の中尉のみを残し、その場に会談の座を即席に作る。椅子も何も無い。アスファルトの冷たい上に、直に腰を下ろした会見だった。


「それで、君達の目的は何なんだ?」

「一つは、我々の代表が言った通り。今回のテロ行為に関しては、我々は何一つ関知するところではない。理由も代表の言った通りだ。我々は総統ヘラに対し、暗殺しなくてはならない差し迫った事情は無かった」

「しかし先日、その未遂事件が起こった。それに関しては、どう説明するつもりか」

「あれは我々の中でもやや異論はあるのだが、主たる目的は暗殺ではない。むしろ、あの官邸そのものに対する挑戦でもあった。御存知だろう? あの官邸自体が、非常に民衆自体を信用しないものであったことを」

「それは確かに」


 アンハルト少将はうなづく。かつては、そこで警備の指揮を取っていたのだ。


「実際、逆に我々の盟友がその中で捕らえられたとか殺されたという予想も立てられている。だがそれはとりあえず棚に上げたい」

「棚に上げるのか」

「現在の状況、総統ヘラ、宣伝相テルミンの居ない状況というのは、我々にとっても非常に厄介なものだと言ってもいい。正直、一つの仮想の大きな敵というのは、集団を維持していく上で大切なものだ」

「確かに」

「それはこのレーゲンボーゲン星系全体を見渡しても同様なはずだ。この星系は、何を仮想敵と見なしているのか」

「……ふむ?」

「しかし、そのバランスが崩れようとしている、と我々の代表は言う」

「と言うと?」


 アンハルト少将は、次の言葉を待った。


「それまでは、ゲオルギイ首相が、その後には、総統ヘラが担った役割、それは、結局は、我々レーゲンボーゲン星系の住民に対する、というよりは、対帝都政府、ということではないのか?」

「……」

「総統ヘラ及び宣伝相テルミンが死んだ今、それに即対応できる者は居るのか?」

「居ないというのか?」


 少将は問いかける。そしてこう付け足す。


「帝都政府に対して意見を言える者、パンコンガン鉱石に関して、何かしらの意見を述べられる者が」


 ヘッドはうなづいた。


「何故それが断言できる? 君達に」

「それは、この男が説明できる。ジオ」


 ジオは着ていたブルゾンの内ポケットから、一通の手紙を取り出した。


「そちらの、ケンネル科学技術庁長官からのものです」


 静かな口調で、ジオはそう言った。


「ケンネル長官? 長官なら、現在ライへ研究のために短期の視察を……」


 そう言いながら、少将は古典的な「手紙」を開く。この時代でも、個人のIDを明らかにする意味で、直接の手紙というものは、大きな価値を持っていた。


「……確かに」


 ケンネル長官が、ライへと半月前に旅立ったこと自体、外部には漏れていないはずだった。しかしこの手紙の消印自体、半月前のものだった。アンハルト少将は、すぐに科技庁へと連絡を取ると、ケンネル長官と昔馴染みの同僚を呼び出した。


「……確かに長官の文字です。それに、彼は私用の手紙には、この様なマークをつけるクセが」

「偽造と疑っていますか? しかし軍の方々、貴方方には、この手紙の中の内容が理解できますか? そして、科技庁の方、どうでしょう」

「確かに、この内容は、我々一般の軍人には、理解できない用語が多い。どうなのだ?」


 少将は、科技庁の職員に話を振る。


「……これは、パンコンガン鉱石の位置に関することですが…… しかしあなた何故これが……あ! 君、……何故ここに?」


 するとジオはにっこりとその職員に笑いかけた。


「その折りには、ライでお世話になりました」

「……君は、調理人じゃなかったのか?」

「申し訳無いですね。研究を続けたかったので。……そしてどうやら、僕の本当の名は、彼の知るところだったようで」

「ゼフ・フアルト助教授」


 ぱさ、と少将は広げた手紙から視線を上げた。


「ええ、そうらしいですね」


 君が! と職員は声を上げ、口を大きく開けた。地学系の職員にとって、やはりこの名前は既知のものであったらしい。


「でも僕の正体なんてどうでもいいです。僕だってどうでもいいのですから。問題は、現在、あの鉱石の意味を本当に知る者が、貴方方政府の側に、居ない、ということなんですよ」

「ジオ君? フアルト助教授? それでは君は、どうしたらいいというつもりなのだ?」

「その手紙にも書いてある通り、この件について、僕は彼から委任されているのです。自分が居なくなった後の、鉱石関係の交渉を、頼みたいと。彼は何かを予測していた。それが何であるのかは、僕にはそこからは読みとれない」

「しかし君は、反政府組織の一員だろう」

「反政府ではありますがね、俺達は、レーゲンボーゲンという星系の人間なんですよ」


 ビッグアイズが低い声で、言葉をはさんだ。


「目前の、帝都政府に対するこの星系の問題であったなら、とりあえずは、内乱がどうの、政治がどうのと言っている場合ではないんですよ」

「そこで我々の代表の提案としては、ここで、とりあえず、正規軍と、我々『赤』及び『緑』を初めとした反政府組織は、一時的に同盟を組まないか、ということなのです」


 なるほど、とヘッドの出した提案に、アンハルト少将は腕を組んだ。



 そろそろだ、とリタリットは放送用端末のモードを切り替え、幾つかの数字を押す。数回のコールの後に、相手の声が返ってくる。


『俺だ。リタ?』

「あらら。今アンタ何処?」


 彼は相手の名前も問わずに訊ねた。その声がヘッドのものであることは、問わなくても判る。


『このスタジアムの周囲だ。お前こそ今何処だ?』

「観客席よぉ。オレちゃんと真っ当に待ってるんだからねえ」


 くく、と向こう側で笑う声がする。


「それで、どうなのよ」


 具体的なことは一つも言わず、リタリットは向こう側に問いかける。


『まあまあだな。とりあえず、今このそばに、首府警備隊のアンハルト隊長が居たりするが』

「ふうん。じゃあまずまず、なのね。……判った」


 そう言うと、彼はすっとその場から立ち上がり、横の階段を上り始める。通路へ向かうその階段は、割合に急である。その急な階段で、一度ふっと空を見上げる。


「……いい天気だね」


 回線の向こうの盟友は、何だそりゃ、と声を返してくる。


「や、ホント。新年そうそう、いい天気で良かったね、と思ったのよ。空が綺麗でさ」

『お前なあ』

「……それで、オレは、何をしたらいいのかなあ?」


 一言二言、リタリットは黙って向こう側の指示を聞く。そして判った、と短く答える。

 回線を切る。そして再びくるりと身体を、斜め前方の壊れた演壇に向ける。壊れた演壇の中では、現在の状況をどう処置するのか、迷っている。

 迷ってたら、結局こんな時間になってしまった。


「それじゃ、多くの人々を動かす資格はナイのよね」


 彼はつぶやく。何はともあれ、総統ヘラも、ゲオルギイ首相も、その力はあったのだ。


「すいませんちょっとトイレ~」


 通路をふさぐ警備員に、おどけた調子でリタリットは手を振る。しょうがないな、とつぶやきながら、再入場には半券を見せろよ、と警備員は付け足す。

 わっかりました、と明るく答えながら、リタリットはポケットの中のその半券は握りつぶす。戻る気はさらさら無かった。

 屋内に一度入ったところに通路がある。

 さて、とリタリットはそのまま所々に居る警備員やスタッフの姿を横に見ながら、トイレの方へ向かう。予想通り混んでいる。明け方の寒さが、観客に尿意をもたらしたのだろう。

 彼はそれをちら、と見ると、そのまますたすたと奥へと歩いて行く。トイレに並ぶ観客は、その当然の様な足取りに、気を止めることはない。自然が呼んでいる時に、そんなこと気に留めるゆとりはないだろう。

 やがてその人の列が視界から消える。リタリットは廊下を駈けだす。

 頭の中には、このスタジアムのおおよその作りが入っている。

 建設相スペールンの独自のデザインである部分は判らない。だが建築には、それでもおおよその型というものは存在する。全体の形と、用途。それがはっきりしている場合、おのずと、その位置関係は決まってくる。

 そして彼自身、観客席から、ある程度の設備の位置を把握していた。

 人の歩いてくる気配がする。慌てて速度を落とす。もともと足音はさせずに走っていたのだが、あえてゆっくりと足音を立てる。腕章をつけた、あれは放送のスタッフだろう、とリタリットは予想をつける。若い男。周囲には誰もいない。

 すれ違い様、彼は、その男のみぞおちに拳を一発入れた。う、とうめくとその若いスタッフはその場に崩れ落ちる。おっと、とそのままその身体をずるずると引きずると、展望窓のある喫煙所のソファに座らせる。そしてその腕から、腕章だけを抜く。

 そしてまた足を速める。すると今度は二名ほどのスタッフが、扉相手に格闘している姿があった。


「どうしたんですか?」


 人懐こい口調でリタリットは問いかける。見ない顔だな、という問いに、アルバイトなんですよ、といけしゃあしゃあと答える。


「……ち、何て扉だ!」

「どうしたんですか?」

「何か、あの爆撃が、ここの部屋らしいから、安全のこともあるし、もしかして犯人が立てこもっているかもしれんから、とっとと開けろ、っていう、下の閣僚さん達からの要請なんだよ! 何だいお前、聞いてないのか?」

「あ、すいません、オレ会場整理だったんで…… ちょっと見せてくれます?」


 彼はさりげなく、ハンマーやペンチを持ち出すスタッフを押しのける。そしてその古典的な鍵穴をのぞき込むと、ああなるほど、とうなづく。


「何がなるほど、だよ? お前開けられるのか?」

「ちょっとそこのマイナスドライバーの細いヤツ貸して下さいな」


 しゃらっと言ってのける。その言葉の調子は軽いものだったのに、スタッフは手がふら、とその通りに動くのを感じる。耳そうじをする様な手つきで鍵穴にドライバーを突っ込むと、彼は幾度かその中をかき回す。しばらくそんなことをしていたと思うと、やがてふ、と息を軽く吹き込む。


「開けていいんですよね」

「は?」


 金属製のノブをひねる。そして開けるが早いが、その中へと彼は飛び込む。飛び込み――― その場に伏せる。

 しかし、何ごとも起こらない。リタリットはゆっくりと身体を起こし、そのまま、光の差し込む前方へと歩いて行く。

 おい大丈夫か、と背後の声が聞こえる。


「大丈夫ですよ! ちょっと来て下さい」


 丁寧をつくろっていたが、その口調には有無を言わせぬ響きがある。リタリットはそのまま窓のそばまで近づいて行く。 

 そこは、放送機材の倉庫だった。

 そういえば、と彼は思う。この両サイドに、カメラが設置されていたはずだった。巨大なモニターがこの会場を一周する際に、一瞬だけ、そのカメラの存在を映した。

 その両側の部屋の機材を運搬する時の箱や、予備のケーブル、予備のレンズ、そんなものが所狭しと置かれている。そこは確実に倉庫でしかないのだ。

 しかし、その中に、一つ、確実にこれは放送の機材ではないと判るものがある。


「……これ、何ですか?」


 リタリットはわざと大声を張り上げる。無論それが何であるのかは、一目見れば、判る。彼らよりは、自分の方がそれに対して馴染み深いのだ。ただ、そこには奇妙な機械が取り付けられていたけれど。


「……何って……」

「これ、まさか……」


 スタッフは顔を見合わせる。


「オレ、皆さんに知らせて来る!」

「皆さん、ってお前場所知ってるのかよ!」

「あ、何処ですか?」

「そのまままっすぐ走ってけ! ON AIRのランプは消えてるが、ノックはしろよ!」

「そうそう、レベカ女史、そういうの嫌いだからなー」


 了解、と彼は言い放つと、スタッフの言った通りに走り出す。

 あの倉庫にあったのは、対戦車砲だった。小型だが、射程距離がずいぶんと長いものだった。位置が固定され、しかもそこには、遠距離からのリモートコントロール装置が取り付けられていた。

 リタリットには判った。ちら、と見ただけで判る様なものだった。


 リモートコントロール。一体誰が何処から。


 彼は走りながら考える。少なくとも内部の者だろう、と考えるのは容易い。この会場の作りをよく判っている者。この会場の用途をよく知っている者。そして総統ヘラと宣伝相テルミンを上手く狙うことができる者。

 そんな者が居るだろうか、と彼は思う。

 予想がつかない。自分達にしたところで、反政府組織だからこそ、あの総統ヘラを狙うことはあるにせよ、この様な手口でやる程憎悪の感情がある訳ではない。大体において、こんな目立つ方法を取ること自体、何か間違っていると思う。


 ……見せしめ? 


 ふとそんな言葉がリタリットの中に浮かぶ。しかし、だとしたら、何の見せしめだというのだろう。それも違う。意味が無い。

 内部の者から、狙われる理由は、もっと無い。


 権力闘争? 


 それも考えにくい。何故なら、この「総統」は、そもそもが権力の大きさに耐えかねた閣僚達によって押し付けられた役なのだ。今更権力が欲しいから、と言ったところで、そんな奴等に何ができるだろう。

 ではどうだろう。一番そうでなさそうな者は。

 雑学の知識ばかりが多い相棒は、以前こんなことを言っていた。一番そうでなさそうな奴が犯人だ、ってのがミステリの定石だと。

 タイミングの良さ。あまりにも正確に、あの対戦車砲は、その瞬間を狙っていた。

 式次第は、状況によって多少のずれがあるのが普通だ。としたら、タイマーでコントロールしている訳ではない。かなり近くで、この式次第を見ていた者だろう。

 だとしたら? リタリットは立ち止まる。

 まさか、とふと頭の中にひらめくものがあった。

 だがまさか、だった。彼は頭を振る。そんなはずは無い。

 違う違う、とつぶやきながら、再びリタリットは足を速める。

 やがて、視界に赤いランプが入ってくる。消えてはいるが、ON AIRの文字はその中に健在だった。ドアノブに手を掛けようとして、先程のスタッフの言葉を思い出す。そして、軽い音を立ててノックをする。


「はい?」


 女性の声。彼はさっと扉を開ける。

 既に疲れ果てた、スタッフの半分が仮眠状態だった。

 あと半分も、一応機材のチェックをしていたり、レシーバーを当てて、通信を待っているようだが、それでもあまり意識がはっきりしていないように、リタリットには見える。


「レベカさん!」


 そう確かそんな名前だ、と言った。彼はあえて大声を出す。起きていたスタッフは、ふらふらと顔を上げる。こんな奴いたかなあ、という顔をしながら、しかし居たかもな、という様にすぐに思考停止しているのが丸判りである。

 しかし狙いはそんなスタッフではない。


「……何なの?」


 窓の外を見ながら、女性スタッフが振り向きもせずに返事をする。


「大変なんです! やっとあの扉が開いたんですが」


 とびら? とゆっくりとつぶやきながら、ゾフィーはその声の主の方を振り向く。何か何処かで聞いた様な声が。

 振り向き――― そして彼女は、大きく目を開ける。


「あなた……」


 彼女はよろける。そしてその拍子にばん、とコンソールに両手をつく。

 その音に、カウチの半分を占領して仮眠を取りつつあったリルが、弾かれた様に身体を起こす。


「……あんた…… 何で、ここに居るんです…… リタリットさん!」

「何でって」


 くく、とリタリットは笑う。

 ポケットから放送用端末を出すと、再び幾つかの数字を押す。一言二言誰かと会話をすると、腕を伸ばし、その端末を彼女の前に差し出した。


「……何…… よ」

「レベカさん、だっけ?」

「そう…… よ」


 どうしてこんなことを聞くのだろう、と彼女は寝不足の頭で考える。記憶の中の、あの男の姿が、そのままに、彼女の前に居るというのに。

 こんな再会を、ゾフィーは予測していなかった。それが彼女を混乱させる。やはりこの男は、記憶を無くしているのだろうか。


「あんたがここの責任者なんだね?」

「そうよ。一体何だって言うの」

「ちょっとアンタと話したいヒトが居るんだ。話してやってくんない?」

「話……?」


 何ごとが起きたか、とさすがに眠気に負けそうになっていたスタッフも、何か事態が動き出したということに気付きだす。

 一体この男は誰だ、とスタッフの一人はリルを突っつく。俺もよくは知らない、とリルは軽く返す。

 そう、知っていると言えば、ずいぶんと良く色々のことを知っていると思う。だが、この男が記憶を無くしている以上、そんなことは、現在のこの目の前の男に関する説明にはならない。

 でもこれだけは、言えた。


「……海賊放送の、DJすよ」


 その言葉の効果はてきめんだった。ええっ、と声が上がる。しかしリルはその周囲を手と、口に伸ばした人差し指で制する。


「真面目な話」

「真面目な」


 ゾフィーはリタリットの手から端末を受け取る。それが放送用のものであることは、彼女にもすぐに判る。しかしこの場では通話モードになっている。


「……はい替わりました」

『中央放送局のスタッフの代表とは、君か?』


 耳に当てた受話器からは、強い口調が返ってくる。こういう口調にゾフィーは記憶がある。軍人だ。


「……確かにスタッフです。私、ゾフィー・レベカですが。どなた様でしょうか?」

『君が政府公報で有名な、レベカ監督か。私は首府警備隊のアンハルト少将だ。現在の状況を、話してくれないか』

「え?」


 彼女は事態が急には把握できないで、当の端末を渡した男を見る。


「本物だよ。疑う?」


 そう言ってから、リタリットは窓際に寄ると、そのまま背をもたれかけさせる。


「通路から外向きの窓から、見えなかった? 現在この周囲に、首府警備隊が取り囲んでいる。彼らは連絡一つで、すぐにこの中に入る準備はできている。それを聞いていない? 要請は、あそこで」


 彼は壊れた演壇を指す。


「手をこまねいている、あの連中が、出している。一体何をしているのやら。それとも、何か企んでるのかな?」


 その口調は、確かに周囲のスタッフも良く知っている、あの海賊放送のものだった。事態が何か、思っていた方向とは変わってきているのを誰もが感じていた。起きているスタッフは、眠っていたスタッフを揺り動かす。眠っている場合じゃない、と。


「何だったら、そこのひと、カメラ持ってって、外の警備隊映して、ここでズームインさせてみてよ。今端末で、お話しているハズだよ?」


 行って、とゾフィーはスタッフの一人をうながす。肩にズーム距離の長いカメラをかついで、すぐに一人が出て行く。

 やがてモニターの一つが、それまで静止画像の様だったスタジアムの観客席から、窓から下を見る光景に変わる。確かに、その中には、首府警備隊の姿が映し出される。


「確かに…… 失礼いたしました」


 ゾフィーはその中で、隊長らしい軍人が、端末を手にしているを認める。そして自分の言葉にちょうど反応しているらしいことも。


「現在の状況ですか。ずっと、変わらないです。何の指示も出て来ないので、私達も放送が出来ない状態にあります」

『では、放送を始めてくれ』


 え、とゾフィーは思わず問い返す。回線の向こう側のアンハルト少将は、同じ言葉を繰り返す。


「放送を」

『先程、現在我々と一時的に共同戦線を張ることにした集団の構成員の報告によると、スペールン建設相は、総統閣下と宣伝相テルミン氏は生きている、と断言したらしいな』

「は、はい」

『しかし、それは嘘だろう?』

「……」

『報告によると、対戦車砲の直撃を受け、そのまま運ばれていったらしいじゃないか。海賊放送がそう首府中に告げていた。不確実な情報が、現在首府を被い、首府全体が不穏な動きに満ちている。これは決して良いことではない』

「では、どうしろと」

『目の前の事実を、放送すればいい』

「ですがそれでは……」

『何のために我々が居ると思う? そしてこの聴衆に、帰還のための通路を開くのだ。彼らはおそらく殺到するだろう。しかし、いつまでも待たせておくという訳にはいかない』

「はい、その通りだと思います」


 実際、この部屋の中で待機している自分達ですら、ずいぶんと疲労している。屋外で待たされている観客はなおさらだろう。

 リタリットは答える彼女の姿を、黙って眺めている。

 その姿を更にリルは観察していた。

 どうにも印象が違う。違いすぎる。あの時、自分の話したハイランド・ゲオルギイの話に奇妙なまでに反応した、何処か子供っぽい姿と、何かが、異なっている。

 ゾフィーはやがて、端末の回線を切り、それをリタリットに手渡した。

 彼女は一瞬相手の目をのぞき込んだが、その目からは何も読みとれない。そしてくるりと、既に目を覚ましだしていたスタッフの方を向くと、声を張り上げる。


「放送を、再開するわよ!」

「レベカさん!」

「チーフ!」


 閣僚からの命令は来ていない。そのことがスタッフを一瞬不安に陥らせる。


「大丈夫、何とかなるわ。そうよ気付かなくてはいけないのよ。いくら春先だって…… 寒すぎたはずよ」


 判りました、とスタッフ達は自分の定位置にと次々についていく。リタリットはその合間をすり抜ける様にして、放送室の外へと出る。

 そしてそのまま、外へと出ようとした時だった。


「リタリットさん」


 リルの声が背後から追いかけてくる。何、と彼は振り向く。


「あれが、レベカさんすよ」

「ふうん、それが?」

「それが、でいいんすか?」


 リタリットは上着のポケットに両手を突っ込むと、目を軽く細め、にやりと笑う。


「それ、どうゆう意味?」

「リタリットさん!」


 リルは声を張り上げる。それを見て、ふらりと彼は首を回す。こわばっていたのか、ぽきぽきと音がする。そして顔をしかめながら冷えに凝った肩を叩くと、苦笑を浮かべる。


「ホントに、アンタ好きなのね、あのおねーさんが」

「な……」

「言ったのは、リル君でしょ。オレもその程度は覚えてるのよ。けどさリル君」

「何すか」

「ソレが、今のオレやアンタや彼女に、何の意味があるっていうの?」


 はっ、とリルは息を呑む。


「ソレが大事なことだったとしても、そんなモノに振り回されて時間をムダにしてねえ? 結局」


 どう答えていいものか、リルにはとっさには浮かばない。


「あんた、まさか記憶……」

「さあね。それより、あのカメラの真ん中の部屋、開いたよ。中にちゃんと対戦車砲がある。下手に触んなよ。暴発するかもしれないからね。おまけにリモートコントロールがしてある。とっとと正規軍呼んで、取ってもらったほうがイイよ」


 じゃあね、とリタリットは手をひらひらと振る。

 リルはその姿を呆然として見送ってしまったが、やがてその言葉の意味を頭の中で把握すると、再び放送室に飛び込む。


「レベカさん! さっきの端末……」

「もう彼に返してしまったわよ」

「対戦車砲が、あの中にまだちゃんとあった、ということなんですよ! リモートコントロールが効いてるってことなんですよ! 暴発でもしたら……」


 そうリルが言いかけた時には、既に放送が始まっていた。

 モニターが復活する。音声が復活する。市民の皆さん、長らくお待たせしました、というアナウンスが入る。その途端、急に閣僚の端末からのコール音が響く。

 構ってられないわよ、と睡眠不足でやや頭の中がハイになったゾフィーが一度上げた端末の受話器をわざと落とす。入り口出口の扉が解放される様が見える。あそこを映して、と彼女は指示する。カメラマンがカメラをかついで、外へ飛び出していく。奇妙に朝の光の中、スタッフ達の気持ちは高揚していた。

 やがて開けられた扉から、連絡を効いた首府警備隊が入ってくるだろう。その時にあの部屋へ誘導すればいい、とゾフィーは判断する。ただしその頭はとてもハイになっていたのだが。


   *


 人混みが、その周囲にできる。軍服が、人員整理をしながら次第に中へと入って行く。

 そのすき間を縫う様にして急ぎ足でこちらへ向かってくる見慣れた金髪を、ヘッドとビッグアイズは認めた。


「リタ!」

「ヘッド! ビッグアイズ!」


 腕を大きく上げて、振り回す。人の間をかき分けて、リタリットは二人の元へ走り寄り、大きく手を広げる。飛びつく。


「久しぶり! 生きてた!?」

「ちゃんと生きてるさ、ほれこれだ!」

「上手く行ったようだな!」

「お前こそ! 何てえ声だったんだ!」


 緊張と、冷えと、安堵と、一気に押し寄せてくる、何か訳の判らない感情が、リタリットの背中を奇妙に押している。何かひどく、笑いが止まらない。そして、高揚感も。


「無事だったな、リタリット!」

「ジオ! あんたも居たのか?」


 そしてそんな彼らの姿を、いつの間にかやってきていた、TV局のカメラが映しだしている。カメラマンは、事実をありのままに映すことがやっとできた、とばかりに、あちこちにそのレンズを向ける。


「どうすんだ、これから」

「少将は、スペールン建設相を逮捕すると言っていた」


 ヘッドは言う。その声は決して小さいものではない。しかしこの人の波の中、ざわめきの中、その声はつぶやきくらいにしか聞こえない。なるほど、とリタリットはそれを聞いてにやり、と笑った。


「あんな場所に、リモートコントロールで仕掛けられる奴なんか、そうたくさんはいないからな」

「可能性は高いよな」


 ビッグアイズもうなづく。


「本当は誰か、なんてのはさておいてな」


 くく、とリタリットは笑った。


 既に陽の光は、高くなっていた。

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