晴海のロッチェ先生

「天ぷらが食いたい」

 その衝動一つだけを抱いてロッチェは電車に飛び乗り、春先の海を眺めながら南へと旅立った。天気は良く、ご機嫌である。

 様子がおかしくなったのはバスに乗ってからだった。ロッチェ先生が行こうとしている漁港のレストランというのは辺鄙なところで、電車の通るところからは車かバスで山を一つ越えなければ至れない。ロッチェの他に数人の客しかいない小さなバスは、山道をえっちらおっちら越えて走っていたが、間もなくとんでもない渋滞に巻き込まれた。それは血栓が出来たかのような酷い車の詰まりで、迂回路とてろくにない山道では一歩も動けぬ立ち往生であった。

 先生は滅多な事では怒らぬが、腹が減ると不機嫌になるのは人と同じである。もう正午をとっくに過ぎている。空腹も頂に達しようとしている。これ以上時が経ち空腹が限界を過ぎてしまうと、今度はどっと体力を消耗して物を食う気も失せてしまう。

 弱り果てかけた頃、ようやく車の詰まりが解けたのか、バスが動き出した。一度動き出せば後はスムーズだった。山の中にきれいなクリーム色の建物が見えた。

 途中でロッチェ先生は詰まりの原因を見た。事故だった。追い越しのために少し道が膨らんでいるところにパトカーと警察官の姿が見え、一台の軽自動車が停止させられていた。先生はすれ違いざまに「イーッ」と舌を出してやった。温厚な先生には珍しい攻撃的な振る舞いだった。

 港についた。

 天気は変わりなく良く、紺色の海も見栄え良く、空腹盛りの先生はバスから飛び降りるなりレストランへと駆け出した。

「天ぷらだ! しゃっくしゃっくとしてやるのだ」

 唾が湧いた。力が満ちた。予定外の遅延も全て許したつもりだったが、許せなかった。

 先生の足がぴたりと止まった。レストランの戸口には立て看板が出ていた。

『本日の天ぷらは終了いたしました』

 悲嘆である。

 不漁もあった。観光客も多かった。しかし、バスがあんなに遅れさえしなければと、先生は恨まずにはおられなかった。

「誰だ、あんなところで事故を起こしたポン助君は」

 先生は、温厚すぎて怒るのも下手。精々久方の光のどけき春の漁港をウロウロしながら、誰にも聞こえぬように小言を吐かす程度である。

 一度これを食うと決めて出てきた以上、他の食い物では代用する気にもなれぬ。天ぷらのしゃくしゃく感に代用などない。ロッチェ先生は腹と肚を決めた。

 「こうなればもう昼食は抜きにして、気を変え場所を変え、夜の街で肉でも食らおうではないか」

 そうしよう。そうしなければ。そうせずにはおられようか。

 ロッチェは決めたが、あいにく街へ戻るにはバスがあと一時間ほど待たねばならぬ。ロッチェは待つ。

 ロッチェ先生、真昼の漁港をうろつく間に、奇妙なものを見ィつけた。

 画家である。海に向かってキャンバスを立て、黄色いコンテナを椅子代わりにして一心不乱に絵筆を操る、ベレー帽を被った画家である。画家は老いて、白い髭が伸び、畜産家が着るようなつなぎの下は丸々と太っていた。

 先生は黙って老人の後ろを通り過ぎようとした。ついでにチラリとキャンバスを見た。足を止めた。

 キャンバスには赤と黒の色が踊っていた。先生は顔を上げて老人の向いている方を見た。青々と広がる海と、停泊した漁船の白、遠くに見える岬の緑だけが見えた。

 先生はもう一度、今度は目を凝らしてキャンバスを覗き込んだ。それは紛れもなく海を描いた作品だったが、海は荒れ、空は赤黒く染まり、稲妻が轟き、唯一真実に近い白い漁船が高波に巻かれていた。そして、絵の右上の方には、奇妙に大きい人の顔が描かれていた。頬がぷくぷくと膨らんだ幼児の顔に見えた。

「これは海の絵ですね」

 ロッチェが当たり障りのない事を言うと、画家がくるりと振り向いた。白内障を患っているような目に妖しい光があった。

「あなた、これがわかりますか」

「海ですね。それと船と、子供が見えます」

「おお……あなたは見る目のあるお方じゃ」

 ロッチェは当たり前のことしか言わなかったが、老人は目尻にぎゅっと皺を寄せた。

「子供は偉大じゃ。力がある。ほれ、こんな船なんか、こうじゃ」

 老人は絵の具のついた筆を素早く動かした。するとまるで幻のように、あるいは漫画のコマを一つ進めたように、さっきまで波に巻かれていた船が見事に傾いて海に没する、その瞬間を捉えた絵になった。

「ほれ、この子は一睨みで船を沈めてしまうのじゃよ」

「なるほど。だけど、漁船が沈められてしまうと、天ぷらの材料が獲れなくて困ります」

「わしは天ぷらが好きじゃ。さっきも食った」

 ロッチェのお腹が子犬のように鳴いたが、老人は意に介さなかった。

「世の中には困った大人がおる! 子供を無視する。子供を侮る。わしはそんな世の中じゃダメだと思っておる。だからこうして、子供の偉大さを表す絵を描いておるのじゃ。あんた、子供は好きかね」

「そりゃ、もちろん」

 先生のお腹は空いていたが、誇らしい二人の子供を想うことによって、胸はいっぱいに膨らんだ。

「しかし、この子は随分恨めしい顔をしていますねえ」

「うん……困ったことじゃ」

 老人はキャンバスに向かった。その丸まった背中からは、怨嗟の焔が立ち上っているように見えた。

「わしは悲しい。子供を無視する大人が大勢おる。わしは、もっと世間の大人たちに子供を大事にして欲しい。だから置いたのじゃ」

「置いた?」

「子供をな。そこの山の中にある保育園から、赤ん坊を一人連れ出した。そしてその子を路上に置いた。車で通りかかる大人に少しでも分別があるのなら、子供を見つけてすぐに急ブレーキを踏むはずじゃ。わしはそれを確かめて安心したかったのじゃが、どうもさっきから聞こえる通行人の噂によると、子供は車に轢かれて殺されたらしい。まったく、嘆かわしいことじゃ。その子は本当は、こんな船ぐらい沈める力ぐらいあったはずじゃのにのう。それなのに近頃の大人は敬意が足らん。特に山道をブンブン行くドライバーとかいう輩はまったく……」

「なるほど」

 ロッチェは片手でキャンバスを払い倒し、老人の尻を蹴り飛ばした。丸い老人の尻は重かったが、先生の足は見事に蹴っ飛ばした。老人はもんどり打って前にのめり、海に落ちた。

「あんたのせいだ」

 先生は落ち着いていた。汗一つかいていなかった。

 ちょっぴり、視界が滲んでいた。

「あんたのせいで、台無しだ」

 漁港の端で他に見る者もなく、先生はあっぷあっぷと喚く老人を後にして、バス停の方へ戻って行った。

 春の海はあぶくを一つ呑んで、ほどなく静かになった。

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ロッチェーズ 狸汁ぺろり @tanukijiru

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