コロンコロロン転がりて(後)

 兄という生き物にとり、年の近い『弟』という存在は否応なしに子分と見なしてしまうものだが、これが『妹』となると話が違う。それは己に最も近しく親密な女の子であり、他の誰かに傷つけられようものなら何をおいても守りに行かねばならぬ大切な姫なのだ。

 これがさらに末娘ともなれば、両親を始め、親族一同からの可愛がりもより大袈裟なものであり、末の妹という生き物は皆、己こそが世界で最も愛されるプリンセスなのだと己惚れを抱くようになる。

 ところがそんな『妹』も、保育園や学校といった社会に進出し、他の女の子の群れに混じることにより、自分ひとりが特別ではないのだと思い知る。そこには常に競争がある。比較がある。嫉妬がある。多くの己惚れたプリンセスたちはそうした社会の中でぽっきりと鼻を折られ、自分に相応しい快適な地位、あるいはポジションを見出していくことになる。

 しかし稀に、鼻を折られずに社会を生き抜く猛者がいる。

「いつも兄がお世話になっております」

 夕刻、兄の学生寮へ乗り込んだコロロッチェは、コロッチェの同級生や先輩から存分にちやほやされた。コロロッチェは謙虚にふるまいながらも一方で、蝶よ花よと扱われるのは当然だと言わぬばかりに、男日照りな連中からの不躾な好意を受け止めていた。ひとり、軟派な先輩が冗談めかして交際を申し込むと、コロロッチェは天井に目をやって、「兄が許してくれるなら」と笑って見せた。その唇からのぞく白い歯がまた、女気に飢えた野郎どもを盛り上がらせた。

 そんなわけで、白い息を吐きながら足早に帰寮したコロッチェ君は、一歩玄関へ踏み入った瞬間に好奇と羨望の混じった汗臭い視線の数々に、思わず怯んで立ち尽くしてしまったのである。

「あらお兄ちゃん、おかえり」

「コロロ……! なんで、ここにいるんだい」

「お義兄さん! コロロさんとの結婚を許してくださいな!」

 悪乗りが過ぎてケダモノと化した先輩が妹へ飛び掛かろうとするのを見るや否や、コロッチェ君はラガーマンの誇りである分厚い肩でぐいと割り込み、ケラケラ笑う妹の肩を抱き寄せた。

「コロロッチェ。とにかく、いったんここを出よう。すみません、今日は外食すると食堂へ伝えといてください」

「ハーイ。うっふっふ。それじゃあ皆さま、ごきげんよう」

 機嫌も加減も麗しく、コロロッチェはこれ見よがしと兄の腕にぶら下がり、寮の外へすたころさっさと連れ出されて行った。

「で、どこへ?」

「とりあえず僕の車に」

 学生寮に駐車場はないが、コロッチェ君はどう話をつけたのやら、寮からほど近い学生向けアパートの駐車場を一か所借り受けるのに成功したらしい。路上でも平気で腕に絡みつく妹を持て余しながら愛車へたどり着いたコロッチェ君は妹を助手席へ押し込むと、自らは運転席につくと車をスタートさせた。

「コロロッチェ、何だって突然こっちに来たんだい。学校はどうした? 編入したばっかりですぐ海外に行ったりして、ろくに通ってないんじゃあないか」

「お腹空いた。晩ごはん連れてって」

「おい……まったく。どうせ外食を伝えたらまたすぐに出かける予定だったからいいんだけど……。時間がないから、立ち食いソバ屋でいいよな」

「はあ?」

 コロロッチェは鼻をくんくんさせた。

「甘いキャンディー……」

「おいおい、夕飯にキャンディーはないだろ」

「違う。匂う。後ろの座席。ねえコロッチェさん、あなた車でデートする時、女の人を後ろに乗せるの?」

「はあ?」

「前見て、信号。キャンディーの匂いと、香水の匂いもする……。ちょっと信号で停まってる間に、後ろの座席に移ってもいい?」

「ダ、ダメに決まってるだろ、コロロッチェ――」

「女の人、子供いるんだ」

 コロロッチェの声には何の感情も込められていなかった。信号が変わり、コロッチェ君は車を再発進させたが、唇は固く結ばれていた。

「まさか私、もう叔母さん? いや、それはないか……。そういう事なら流石にママにも知らせている。男同士の秘密って、まあ、お兄様。ずいぶん訳アリな方へ進んでおられるのねえ」

「コロロッチェ」

 繁華街の方へ車を走らせながら、コロッチェは口を開いた。もう取り乱してはいなかった。

「そうだよ」

 車は橋を渡る。街が近づいてくる。

「僕は、子供のいる人とお付き合いしている。お父さんはそれを知っている。お母さんにもいずれ話すつもりでいた。もちろん、お前にも」

「まあ、言えないでしょうね。すぐには」

「……コロロッチェ?」

 前の車に追いついて車を減速させた隙に、コロッチェは助手席の妹を盗み見た。コロロッチェの顔は窓を向いていた。

「ねえ、お兄ちゃん」

 窓の向こうから夕陽が差して、コロロッチェの顔はガラスには映らない。

「この事、学校に知られたら大変よね」

「コロロ――」

「私、匂いでわかるの。あと空気。その女の人、これから行く繁華街で”お勤め”されてるんでしょう。きっと薄暗くて華やかなお店ね。それで、子持ちな訳アリの人。まあ大変。いくら大学が生徒の自主性を重んじるからと言って、そういうのはねえ。それに、ママの会社の評判にも響くかもしれないじゃない」

「コロロッチェ。駅で降りてくれ」

 いつにない固い声に、妹ははっと振り向いた。

 兄はすでに前を見ていた。

「僕はこれから、あの人の家に行く。あの人が勤めに出ている間、あの人の子供の面倒を見るために。……あの子ひとりだけじゃない。同じような境遇の子供、何人かをまとめて見る。コロロッチェ、お前があの人たちをそんな風に言うなら――」

 お前は、そこには連れていけない。

 兄は確かにそう言った。

 コロロッチェの目はまた窓の外へ向いた。もう夕闇の奥にネオンの灯が見え始めていた。

「そうね」

 車はネオン街を通り過ぎ、駅の方へ向かっていた。

「私、まだその人に会いたくない」

 交差点を曲がった。

「いずれは、会ってくれるのかい」

「あなたの事情はあなたのもの、だもの。最初から私に反対する権限なんてない」

「……権限とかじゃなくて、お前の」

「いい、いい」

 かぶりを振った拍子に、少し髪が乱れた。

「お兄ちゃんはそっちに行く。私はこっち。大丈夫」

「こっちって、どっちだ」

「あなたが連れて行く方に……ううん、私が行きたい方に。今日は帰りたい。家に」

 兄はそれ以上なにも言わず、静かに駅へと車を乗りつけた。

 コロロッチェはベルトを外し、ドアを開けた。そして車を降りる前に、兄の方を振り向いた。兄の顔が見返していた。

「チョコレート」

「うん?」

 コロッチェの目がきょとんと丸くなった。

「ご飯の代わりに、買って」


 星瞬く夜の下、電車の中のコロロッチェは、最初の包みを破って口に入れた。

 甘かった。

 ふと、前の座席で泣きわめいている幼児を見つけた。傍の母親が懸命にあやしているようだが、効き目はなかった。

 コロロッチェは立ち上がり、親子の方へ向かった。

「どうぞ」

 呆気にとられる母親の手に菓子箱を押し付け、返事もきかずに前の車両へ歩いて行った。

 前の車両は空いていて、コロロッチェは席についた。そして、窓の枠に肘をもたれると、その中に深く顔を埋めた。到着駅まで寝ていたいと思った。

 ――何の連絡もしていないが、きっと、母は駅まで迎えに来ているだろう。

「ママも。パパも。お兄ちゃんも……」

 口の中にかすかに残ったチョコレートの甘味を、ゆっくり、ゆっくりと舌の先で味わいながら、コロロッチェは浅い眠りについた。

 思い出と一緒に、寝ていたかった。

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