脳内の石、まん丸でツルッツル

 放課後、杏子は数学教師の坂口に呼び出された。


「あのな、大須賀。あまり言いたくないんだけどな」


 坂口はため息をつきながら、机の上に置いた杏子の成績表を見る。


「あと1回赤点取ると」

「進級できない恐れがあるんですよね」

「その割には淡々としてるな」

「考えたんですけど、やっぱり無理かなあって。クラスのみんなにも先生にも迷惑かけてるし」


 授業の停滞を気にするあたり、悪い子じゃないんだがなあと、坂口は更に深いため息をついた。


「余計な仕事を増やしてしまって先生にも申し訳ないし……」

「なら頑張ろう」

「無理かなあって……」


 杏子は即答した。「先生に無駄な時間を使わせるだけ」という意識の現れであるが、坂口からしてみれば努力の放棄以外に感じない。

 大須賀杏子には悪気があるわけではなく、嘘偽りなく数学、算数、更に遡るとさんすう、けいさんの類が理解できないのである。「数学ができたからといって社会に出てから役に立つのか」などとは考えていない。単純に数学の知識の積み重ねができていないだけなのだ。


 具体的に言うと、分数の足し算は「ちょっとよくわからないですね」となる。半分のりんごと三分の一個のみかんを足したら何個になりますか、という小学校2年生のさんすうでつまづいてからというものの、杏子の前頭葉に存在し理数系を司る知識の石積みは賽の河原もかくやとばかりに散らばりきっているのだった。

 伝承の賽の河原には、子供が一生懸命積んだ石を非情にも崩す鬼が登場するが、杏子の脳内の石は球形かつツルッツルなので積み重なることはない。これには鬼も苦笑い。


 深い深い溜め息をついた坂口は、机の天板をコツコツと指で叩きながら少し声量を上げる。


「そう簡単に諦めるなよ! お前、数学と物理以外はできてるんだから! 3年になったら文系選べるんだから!」

「文系……」

「そうだよ!」

「進級したかったな……」


 遠い目でどこかを見つめる杏子の泰然たる態度に対し、更に声を上げようとした坂口の後ろに、ジャージ姿の若い女性が立った。


「坂口先生、後は私が強く言っておきますので……」

「ああ、杉山先生……。うーん、分かりました。私は大須賀が分からない所を教えるのに徹しますよ」


 ありがとうございますと言いながら杉山は杏子の手を取り、職員室を出て誰もいない放課後の教室へ連れ込んだ。そして、手に持っていたノートを数冊束ね、再度周囲に誰もいないことを注意深く確認してから杏子の頭へ思い切り振り下ろした、縦に。


 鈍く、くぐもった音が衝撃の度合いを示している。頭を抱えてうずくまる杏子に対し、杉山は静かに声をかけた。


「お前な。あのな。『絶対に数学も頑張るから文芸部作らせて!』とか言ってたよな、お前」

「……いっ……たぁー……」

「お前の家で、姉ちゃんもいる前で言ってたよな、杏子お前コラ」


 杏子は涙目で杉山を見上げた。


「しぐれちゃん……」

「学校ではそう呼ぶなよ。まあ今はいいか。それよりも……」


 杏子にとって杉山しぐれは母の妹、つまりおばである。しぐれが体育教師を務める平浜高校に杏子が入学したのは全くの偶然であったが、これは双方にとって実に都合が良かった。

 しぐれからしてみれば杏子をきっかけに他の生徒と馴染みやすくなるし、杏子の場合は先述したような理数系における致命的欠陥をフォローしてくれるんじゃないかな、と甘く考えていたのである。


「次赤点なら、お前は留年。それに伴い文芸部も解散。顧問の私も荷を下ろせる」

「な、なんで!?」

「それくらいの刺激がなきゃ、お前勉強しねえだろ」


 しかし、しぐれは分かっていなかった。そもそも文芸部は、杏子が内申点欲しさに立ち上げた部活なのである。留年になってしまえば内申点もへったくれもないので、他の部員に対しての罪悪感こそ残るものの、あまり杏子自身には響いていない。

 かつて杏子が家族としぐれの前で「数学も頑張るから文芸部作らせて!」と宣言したのは、正しく言えば「内申点をある程度稼いでおけば先生の覚えも良くなるからそう簡単には留年させないだろう」という浅はかな考えからの発言だったのだ。


「そうかぁ、Takku Bokku解散かあ……。頑張ったのにな。思わず我ぢっと手を見る」

「おい何言ってんだ。何事も受け入れるな。これから頑張るんだ。次はあいつらにぶっ叩かれないようにしろよ」


 教室の扉を開け、高浜稲穂と水里波濤が入ってきた。

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