数学の授業中にカムチャッカ半島を想う

 翌朝。

 容赦なくザクザクと肌を突き刺す朝日の中、大須賀杏子は眠気と戦いながら平浜高校への道をふらふらと歩いていた。

 ひと晩かけて推敲した水里波濤の「現実世界で最弱だったオレがチートスキルを駆使して異世界最tueeeeとなりモテすぎて困ってしまった挙げ句孤児院のオーナーとなりスローライフを満喫している件」に心を削られているのである。

 致命的な読みづらさに加え、後半はいやらしい描写にのみ心血を注いだと思われる怪作は、杏子の心をガリガリと削ったついでに睡眠時間を奪っていた。


 今日は2時限目に数学がある。それまでになんとかして頭をクリアーにしておかないと、更に良くない状況に陥ってしまう。

 けど眠い。おのれ数学。エロい。最tueeeeとは。5時限目の物理も憎い。眠い。孤児院のオーナーが孤児に手を出すか普通。水里君はああ見えて頭のネジが潰れて回らなくなっているのか。それにしても眠い。道路で寝たら干物になっちゃうか。

 睡眠時間が足りないと、人はこうして負の思考ループに入るのだなと杏子は実感した。


「センパイっ。ふらふらしてますけど、大丈夫ですか?」


 ふいに背後から声をかけられ振り向くと、頭一つ小さい種田あやめが満面の笑みを浮かべていた。ショートカットのせいか、幼く見える。


「あ、あやめちゃんおはよう」

「おはようございます。何回か声をかけたんですけど」


 暑いですね、おかげで寝不足で、などと適当な会話をしながら歩いていると、あやめの目が杏子のカバンに向けられた。意を察した杏子は、口角を頬骨筋、口角挙筋、上唇挙筋等の力で引き上げ同時に固くまぶたを閉じる。全力の作り笑いだ。


「今日は『定本 言語にとって美とはなにか』の1だよ」

「あ、吉本隆明ですね。さすがセンパイ! ぜひお借りしたいです!」

「多分今日読み終えるから、部室で渡すね」


 無邪気に喜ぶ後輩から目を逸らした。負の思考ループに「罪悪感」が加わったことを確認する。杏子は、文芸部の部長として格式の高いものを持ち歩かなくてはならないのだという、浅い浅い底なし沼に両足を突っ込んで身動きが取れなくなっていたのである。

 校門をくぐり、教室へ到着し、友人たちと挨拶を交わしたのち、杏子は数学の教科書を開いた。無駄とは知りつつも予習くらいはしておかなくては。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 



 やはり予習は無駄だった。数学の坂口先生は私が知らない方言で授業をしているのだろうかとすら思う。坂口先生は寒いところで生まれたっぽい顔つきだから津軽弁か、アイヌ語か、それともニヴフ語か。東北、北海道、樺太、果にはカムチャッカ半島とどんどん遠ざかる言語使用域を俯瞰して想像していた時、名前を呼ばれた。


「今日は2日だから出席番号2の大須賀。この問題を解いてみよう」

「すみません分かりません」


 即答。

 杏子からしてみれば、正直、分かってたまるかと言いたいところだった。


「考えろ。解く努力をしなさい」

「先生が言っていることは分かりますが、本当にぜんぜん分からないんです……」

「考えるんだ。諦めずに考えれば必ず数学は抜け道が見つかるから」

「考える為のとっかかりが見つからないんです」

「どこが分からないんだ?」

「それが分からないんです」


 杏子はふざけているわけでも、教師に楯突いているわけでもない。ただひたすら分からないのである。どこが分からないのかが分からない。

 もはや禅問答の域に片足を突っ込んでいる応酬に教室はざわつきだす。坂口は静かにしろと言って、出席番号22の生徒に問題を答えさせた。


「放課後、大須賀は職員室に来なさい」


 当然のことながら、坂口は授業終了間際に通達したのだった。

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