第四章 交叉する工作

(38)鍛錬

 帰宅して、リビングに荷物を置き、自室のベッドにもたれかかる。昼になったばかりというのに薄暗い室内は、まだ明けぬ冬に似つかわしい。そして、その中で電気を点けないのは、その気も気力も起きないからであった。

 それにしても大変なことになった、と我に返ってから気付く。

 一つには、コロンブスの卵のことである。私を偶像とする包囲網は着実に狭められ、また一手を寄せられた。しかし、私自身は世を正すなど恐れ多く、人を導くなど烏滸がましいという思いが強く、とてもこのような悩みに覆われた人間が英雄に相応しいとは思わない。それに加えて、

「貴様は技令士でも戦士ではない」

という脳に刻み込まれたハバリートの一言が、私を英雄という戦士の姿から引き剥がしている。それでも、私の逃げ場を奪うかのように、卵は穏やかな光を湛え続けている。ただ、そのことは確信がない以上、まだ身に差し迫ったことではない。

 もう一つは、彼女を水無香と呼ばざるを得なくなったことである。母さんの圧に負けてのことではあるが、あの場では私も彼女もそれが齎すものにまで頭が回っていなかった。このまま学校に行けば何を言われるか、分かったものではない。ただ、彼女自身はそのようなことをものともせずに、私を脅す手段を虎視眈々と狙うことも考えられる。前門の虎後門の狼とでも言うべきか、どうにも進退窮まった状況である。

 加えて、昨日から積もった悩みに対する答えは出ぬままというのが辛いところである。

「彼女は、君のことが好きなのではないでしょうか」

 山ノ井の言葉が頭を過る度に抱える頭は重たくなっていく。ここで彼女が私のことを好きであるという仮定が真であるとすれば、私が彼女と付き合うことで彼女は幸せを得られるのだろう。しかし、これには二つの問題がある。まず、彼女が私を好いてくれているという仮定に対して客観的な証拠はない。そのような中で軽々とした行いをするなど、以ての外である。加えて、私自身の気持ちの整理がついていない。彼女のことをどのような存在として捉えているのか、と問われれば友人の一人というのがこれまでの見方である。ただ、それを一昨日の出来事が、山ノ井の一言が、呼び方が変えた。少なくとも、友人とは何らかの一線を画した存在になりつつある。それが何かという答えを持たないのが今の私である。

 そして、彼女のことを考える度に浮かんでくるのが少女の無邪気である。水無香と同じように、霧峯もまた単なる友人というにはどこか違和感がある。水無香とも異なる何かがあるのはもうどうやっても否定することができない。ただ、それが何かという答えを持たないのが今の私である。

「君がどのような決断をしても、何らかの傷を他者に与えるのは変わらない。ただ、君が決断をしないことが、最も多くの人に傷を与える未来になる」

 このオピリスの言葉が今になって大きく膨らんでいく。決断、というのは自分の思いを告げる決断を指すのだろう。自分の行いが人を傷つけることへの恐れと、自分の行いが自分を傷つけることへの恐れを反芻する。

 いくら考えてみたところですぐに答えなど出るものではない、そうした逃げの結論に至った私はため息を吐いて、立ち上がる。その時、机上の修学旅行のしおりの青が嫌に目についてしまった。

「そういえば、再来週には京都だったな」

 既に、修学旅行で組む班は決まっている。私の他には山ノ井、水無香、霧峯といつもの面子なのであるが、こうなってくると少し気が気でなくなってくる。いや、いつもと違うのは私だけなのであるから気にしない方が良いのだろうが、そのような鉄の心臓など持ち合わせていない。ありふれた日常の枠内にある三人の外で嘲笑されるような自分の姿が目に浮かぶ。

 ふと、微かな技令の気配が漂う。僅かなものではあるものの、確かに放たれたのは昨夜と同じく社の方である。気にするまでもないことなのかもしれないが、このまま部屋にあっても仕方がないと、重い腰を上げて軽い足取りで向かった。


 やや息を乱して辿り着いてみると、そこには胡坐で瞑想に耽る山ノ井の姿があった。

「二条里君、どうなさったのですか」

「いや、微かに技令の気配がしたから、昨日のこともあって来てみたんだ」

「そうでしたか。それは失礼いたしました」

「山ノ井は何をしてたんだ」

「僕は技力を高めるための鍛錬をしていました。時々、こうして僅かに技力を出しながら、技令のバランスを取る練習をしているんですよ」

 確かに、山ノ井の周囲に漂う技令は微弱ながらも四種の元素が均等に組み合わされている。こうした日々の地道な取り組みが、かの八音を生み出したというのであれば、山ノ井の秀才ぶりが窺い知れるというものだ。私も水無香に言われて毎晩行ってはいるが、ここまで丁寧に重ねているのは素晴らしい。

「しかし、何でこんなところでやってるんだ」

「いえ、昨日の戦闘の際に気付いたのですが、ここは祭壇の起点としてだけではなく、技令の効果を僅かに高めるので鍛錬にも良い場所のようです。二条里君もご一緒にいかがですか」

「いや、一緒も何も、私は山ノ井のようにバランスよく技令を配置するなんて」

 山ノ井が目を瞑ったまま笑みを零す。

「それは謙遜というものですよ。それに、二条里君も技令の配置を整えた先に至る地平をお持ちのはずです。あの八卦の陣はそうした極みの一つですから」

「そういえばそうだったな。あの時、山ノ井の助けがなかったら水無香を助けることができなかった。ただ、あれは私が辿り着くべき場所なんだろう」

 山ノ井が瞼を開く。

「二条里君……」

「先週も霧峯に手伝ってもらってだったしな。強大な相手と対峙するときに備えて、準備するべきなんだろうな、本当は」

 再び目を閉じた山ノ井の隣に腰掛ける。冷たい空気は緊張を齎し、乾いた香りが冷静を与える。

「そうだった。私も守りたいものがあったからこそ、戦おうと決めたんだ。それを忘れるなんて、本当に駄目だな」

「そうだったんですね。だから、内田さんを救おうとされた時や霧峯さんを守ろうとされた時には、あれほどの力を。いや、先日の団体戦の最後も、思えば、そういうことでしたか」

 山ノ井の目が静かに開く。

「霧峯さんに集中された攻撃を自分に向けさせ、霧峯さんを守ろうとされたのですね」

 山ノ井の言葉に、思わず頬を掻く。少し頭に血が上っているようだ。

「改めて言われると、その、恥ずかしいな」

「確かに、あの時の二条里君は無我夢中という感じでしたからね。それでも、気にはなっていたんです。いくら勝利を追い求めたからとはいえ、あそこまで捨て身の行いをすることに対して」

「霧峯も自分の身を顧みずに戦うきらいがあるからな。早めに決着をつける必要があった」

「やはり、僕では敵いませんね」

「いや、山ノ井とサシでやりやった時の対処法が思いつかない。技令界を展開された後に八音を放たれれば、今の陰陽陣では防ぎきれない。敵にやられても同じ事だが、今の正方陣や陰陽陣以上の技令を身に着けるしかないだろうな」

 自分の前に光陣を展開する。出力自体は抑えているものの、複雑な線を描こうとしても技力が限界を迎える。正しくは、自分の出力の限界を迎える。これ以上に光の線を統べるのであれば、技令陣の力を借りるか力量を上げるより他にない。

「それでも、二条里君の操る陣形技令は英雄の技令。いずれ、英雄に相応しい力を手にされるのでしょう」

「それは山ノ井にしても同じだろう。こうやって鍛錬を丁寧に続けている。それが行きつく先は一代の大技令士という地平じゃないのか」

 山ノ井も呼吸を整えながら新たに技令を配る。それはいずれも微弱なものであるが、八の属性が見事に等しく展開され、先の四元素以上の衝撃を私に与える。火、水、土、風、日、月、光、闇、それらの属性の一つ一つを手懐ける彼は、身震いも汗も見せることなく、淡々としている。

「そうだといいのですが、僕はこれより先にまだ踏み込むことができていません」

 一瞬、眉間に皺を寄せた彼は、新たに氷の属性を展開する。技力としてはほんの小さなもの。しかし、刹那にして力のバランスが崩れる。大きな変化ではない。仄かな香りのような乱れが、それでも、彼の奥義には致命となるのだろう。

「なるほどな。ただ、山ノ井の限界じゃないだろう」

「いえ、それは分かりません。右隣まで迫っている才能の限界と向かい合っているのかもしれませんし、遥か遠い道のりの一歩目かもしれません。ただ、そうした限界が見えない恐怖と、僕は」

「いや、才能の限界は見えないから怖いんじゃない。見えないから希望を持っていけるものなんだ。山ノ井はもっと、もっと上に向かっていくさ」

 私の言葉に、山ノ井が目を丸くする。珍しく呆けたような顔を私に見せた彼は、しかし、すぐにいつもの穏やかな微笑みに戻った。

「ええ、そうでした、ね」

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